断章 九能悠の記録――エイプの二週間/03 痛みの記録
【Day5】
コード・ベースの振動をまたぐらに感じながら、俺はスロットルを開けた。
エアスクリーン越しに景色が歪み、左右へ溶ける。
まだドタドタとした助走で氷上を滑っているようだが、少しは加速できるようになった。
リーダーが去った後、うずうずしてエイプに乗り込んだ。
自分なりに試してみて、昨日は夜明け前には何とかジクサーに戻れた。
――徹夜した初日に比べれば大した違いだ。
とはいえスピード不足で、壁は飛び跳ねてワイヤーで距離を稼ぐ程度。
座標演算のおかげで無謀なボルダリングから、素人のリードクライミングになった、感じか。
とにかく、もっと速さが欲しい。
昼の眩しい光の中、HODOの段々建物を駆け抜ける。
昨日よりペースはいい。
「うぉ、あっぶね!」
突然、巨大な室外機ユニットが視界に飛び込む。
反射的に右に荷重をかけた。
γのように肩で捻らず、斜め後ろに重心を落とす。
右踵にスパイクを打ち込んだ感覚と共に、自然と機体が左へ開いた。
この「地に足が着く」感覚は意外と好きだ。
だが実際は失速しながら右足でつんのめってる。
バランスを取ろうと右手を突き出し、左手を引いて構える――。
滑稽な姿勢のまま、機体はユニットをかろうじて躱した。
「オイオイ! まじか!」
足元で何かを踏み抜き、エイプが前につんのめる。
頭から落ちる未来に冷や汗が出た。
焦った俺はγのクセで右肩から捻り込んだ。
空中でもないのに、さらにアクセルまで開けていた。
手をつくイメージと共に、エイプの腕が連動して伸びた。
迫る地面、周囲がスローモーションになる。
接触の瞬間、掌の下から干渉光が弾け、ゴムの上のような沈む感触と、反発が伝わった。
さらに力を込めると、飛沫が増し、強烈な浮力で機体が跳ねた。
空中で真上に地面を見る。
今度は左へ体重を落とし、体操選手のように左踵で着地。
光が弾け、反発がまた伝わる。
足で蹴り出しながら加速――。
アクセルは開いたままだ。
いや、意図的に開けた。
機体は勢いよく前へ跳ぶ。
慌てて制動を踏むと、右に流れながら火花を散らし数メートル滑走。
建物の壁に背を向け、直前で停止した。
(なんだ今のは?)
恐怖よりも、あの奇妙な感覚が頭を占めた。
「おいオマエ! こんなところで何してやがる!」
頭上から野太い怒声。
顔半分にタトゥーの巨漢だ。
「さーせん! すぐどけます!」
関わりたくない。
エイプで踵を返し、全速力で離れた。
罵声は遠ざかる。
今はそれより、自分がやれたことだ。
手足は自分の体を動かすのと同じ。
だが反発の感覚は薄皮越しに脳が直接知るような、不気味だが快いものだった。
コード・フレームワークは身体拡張プログラム――。
その言葉が響く。
荷重し、手足に連動し、意識の先が物理演算に干渉する。
現実法則に縛られたこの世界で、現実ではできないことを可能にする。
何か繋がり始めている。
アクセルを徐々に開け、足首と膝でためを作り、エイプを前へ押し出した。
【Day6】
週に三日のトレーニングのノルマのためログアウトしていた。
インター・ヴァーチュアでは朝だが、現実は夜明け前。
季節は夏に向かっているが、この時間は空気がまだ眠たく涼しい。
俺は薄手のスポーツウェアを着て、久々に近所の公園に来ていた。
全力で動いたせいでウェアは汗で張り付き、スクイズボトルを一気にあおる。
家から外に出たのはいつ以来だ?
この公園に来たのも、小学生の頃かもしれない。
歩いて十五分ほどの高台。
見下ろす景色は、どこかHODOの階層を思わせた。
遠くに海と巨大な橋の二本が並び、ワイヤーが張られた塔だけが赤と白に明滅する。
都市は暗く、人影はない。
信号機だけが静かに瞬いている。
アスファルトは割れ、雑草が伸び放題。
公園の木々も野生に戻ったかのように繁っている。
ふと潮の香りがした。
こういう空気を感じるのも久しぶりだ。
公園には山型のコンクリ遊具があり、鎖、出っ張り、タイヤが取り付けられている。
記憶よりはるかに危なっかしい。
「これが子供向けって、どういう判断だよ」
ここに来た理由は、エイプで気づいたことを確かめるためだ。
転倒しかけた瞬間に、俺は無意識に体を捌いて回避した。
あれで初めて気づいた、四肢の使い方を。
思えば、ライノはバックでホバリングしていた。
荷重と足捌きが求められる芸当だ。
それを仮想現実という世界で一年越しに初めて理解した自分が情けない。
昨日、夕焼け前にジクサーへ戻れたのは進歩だった。
でも、あの一瞬の動きは再現できない。
腰で重心を操り、慣性とベクトルを生成する原理は理解した。
だが「理解した」ことが「できる」とは限らない。
偶然あの瞬間、体が勝手に動いた。
それが悔しかった。
――体ってやつは、「わかる」じゃなく「覚える」んだろうな。
何度も、反復して。
その考えから、自然と父さんの背中を思い出した。
道着に袴で、黙々と同じ動きを繰り返していた姿。
父さんは大学時代に合気道をやっていたそうだ。
社会人になっても続けていた。
ブラックアウト前までは、大会前になると道場に付き合わされ、俺は稽古を眺めた。
演武より印象深かったのは、息の長い、ゆっくりとした反復練習だ。
左右で同じ動きを何度も、何度も。
技が体に染み込むまで。
体は練度でしか動かない。
理屈を理解しただけじゃ、動かない。
俺はコンクリの山を全力で駆け登った。
飛び降り、よじ登り――
十五分で息が上がり座り込んだ。
全然動けない。
だが不思議と気分は悪くない。
呼吸が整い始めると、思考が回り出す。
重さ、重力、物理法則。現実と仮想を支配する絶対原則。
違いは、それを干渉できるかどうか。
「それを、どう使うか――?」
汗だくで息切らしながら考えるのは馬鹿らしい。
でも、要は反復と練度だ。
ワークアウトの時間はまだ残っている。
ログインも先だ。
俺は立ち上がり、タイヤに飛び乗った。
頭の中に、登り方のルートを描く。
どう動きたいか。どう動くべきか。
ゆっくりと、意識して、反復する。
あの時の父さんのように。
【Day7】
「痛ってぇえええぇえ!」
エイプをコントロールしながら電撃が走るような全身の痛みに叫びをあげていた。
筋肉痛だ……。
外の世界からインター・ヴァーチュアへは物質は持ち込めないが、肉体の状態は、きっちり持ち込む。
理不尽極まりない。
逆にインター・ヴァーチュアでの負傷は、適切にケアしてログアウトすれば、いわゆるリセットされるのだが……。
外から持ち込んだ現実のステータスは、どうにもできない。
目の前に迫る集合住宅の裏路地のような場所で、エイプで壁を蹴り上がり、腕で押し上げる。
瞬間、瞬間の空間への観測確定の干渉を繰り返し、建物と建物の間をピンボールのように跳ね上がっていく。
エイプの機体に伝わる振動の中でハンドルを掴み、突っ張った二の腕が――。
コントロールのために左右に荷重をかけるたびに、内股に――。
視界を取り、重心を変えようと上体を起こすたびに、胸が――。
ズキズキとした痛みを訴える。
だがこれが現実の反復の効果を実感させる。
……なるほど、ライノがムキムキな体を作る理由がなんとなくわかった気がする。
あいつの場合、趣味もあるんだろう。
だがこの世界にログインする俺たちにとって、ほんとの意味でのフィジカルの強さは現実でしか獲得できないってことだ。
屋上へと降り立つとそのまま、加速を始める。
迫る障害物たちをギリギリで躱し、跳ね避ける。
そのたびに振動はズキズキと全身に痛みを伝える。
だが加速するエイプを通して、この痛みがあのスローの反復が体に刻みつけられている証と感じた。
……でも、流石にしんどい――。
ジクサーに戻ったら滝沢先生に痛覚を誤魔化してもらおう……。
× ×
これが俺、九能悠があの時期に経験した出来事だ。
劇的に何かが変わったかなんて実感はできていない。
でも、俺は自分自身がどうありたい、どう乗りたいと気持ちが固まったと思う。
自分のやっていることにもし迷ったらこの記録を覗いてみようと思う。
俺のやり方は俺にとって間違っていないと――。
きっと思い出させてくれると信じて――。




