第7話 チセ―An Education/02 アルデン
【Present Day】
――あれから一年。
銀蘭堂ミッドブロックという異常建造物に初めて足を踏み入れて震えていたわたしは、もうどこにもいない。
今ではあの空間に飲まれずに歩けるし、カタログやイベントの撮影で何度も足を踏み入れている。
だからこそ、アジエのランジェリーイベントの誘いも自然に耳へ入った。
「イベントって…… アルデンの企画?」
「そう、それ。 あいつ、鬼電で『チセ来るわよね!?』ってさ。 相変わらずウゼぇくらい元気だわ」
その様子が目に浮かんで、わたしは苦笑した。
銀蘭堂外商部を取り仕切るアルデン・マストロヤンニ――。
見た目はコテコテのナポリ野郎なのに、口を開けば完璧なオネエ言葉のモード評論家。
最初はあまりの落差に驚いたけれど、今では、彼がこの街でいちばんモードを愛する純粋な人間だと知っている。
「で、アルデンがさ。 また頼めないかって」
「……まさか、今回の企画の?」
「そ。 ランジェリー特集。 あんたご指名―― はい拍手」
「えぇー…… ランジェリーはちょっと……」
困るわたしを見て、アジエは口角を上げた。
「いいじゃん。 あたしが保証するよ。 チセなら絶対イケるって。 それに、アルデンの頼み断るとか無理っしょ?」
まったく、アジエはいつもこうだ。
軽口の裏に本気を混ぜて、わたしを次へ押し出してくる。
「まーでもさ。 あたしが銀蘭堂に連れてったときは、まさかチセがイベント広告とかカタログの表紙とか飾るとは思わんかったわ。 ビビるって」
「……それは、わたしも」
顔が熱くなって俯いてしまう。
本当のところ、アルマナックのメカニックだけで生活できるほど世の中は甘くない。
アジエは例外で、普通は副業がいる。
そんな中、わたしがなんとか自立できているのは――。
そう、あの時だ。
銀蘭堂に初めて行き、アルデンと出会った、あの日。
アジエの思いつきに振り回されて、ただ圧倒されて、右も左もわからず……。
けれど、あの出会いがわたしの現在を作った。
(……アルデンとの最初の出会い。あれは――)
記憶が静かに巻き戻っていく。
【Flashback】
たった数歩進んだだけなのに、空気の密度が変わった。
景色のレイヤーそのものが塗り替えられたような錯覚におそわれる。
エントランスホールの先――。
そこは、わたしの知る店という概念を簡単にぶち壊す空間だった。
天蓋は透明なガラスのアーチ……。
のように見えて、内側から光が滲み出ている。
天井なのか、空なのかすら判別できない。
虹色の霧が垂れ、植物の柱が彫刻のように濡れていた。
階層は幾重にも重なり、ビル十棟分の吹き抜けがそのまま一本の空洞になったような奥行き。
浮遊式エスカレーターがゆっくりと揺れ、香りのレイヤーが歩くたび変わる。
(……さっきのは、ただの入口だったんだ……)
呆然と立ち尽くしていたその時。
「アジエ~~~ン! ちょっと、やだぁ! サプライズにも程があるってばぁ!」
頭上の回廊から、甲高い声が降ってきた。
振り返る間もなく、小柄な男がカツカツと軽快に駆けてくる。
後ろには、まるで随伴艦のように部下らしき二人が従っていた。
背は高くないのに、存在感が異様にデカい。
日焼けした頬の深い笑いジワ。
肩の張ったジャケットと鋭角に絞られたウエスト。
派手なネクタイと金縁のチーフが、動くたびに光った。
――そして何より、喋り方が柔らかい。
男なのに、声の丸みが驚くほど自然で、耳に残る。
「ちょっともう~、連絡ナシとか水くさっ! わたし昨日まで南棟の展示会で死んでたのよぉ?」
アジエを見つけた瞬間、両手を広げて勢いよくハグ。
アジエも当然のように受け止め、軽く抱き返す。
(……この人、何者……?)
「連絡なしで悪いね、アルデン。 急に思い立っただけだから」
「や~め~て~。 うちの特大VIPをスルーしちゃったら、わたし、上から詰められるのよ?」
アルデン―― そう呼ばれた男は、ようやくわたしに視線を向けた。
その瞳が、まるで宝石を検査する鑑定士のようにキラリと細まる。
「あーら、珍しい。 アジエがお連れ様付きだなんて」
興味津々、というより、獲物を値踏みする目。
でも柳橋と違って、刃じゃなくて熱を感じる。
暑苦しいぐらいの。
「ちょっとアジエ、この子だれ? ゴイスー、じゃないの。 謎の事務所の新人さん?」
「はっはっは、まぁそんなとこ。 チセっていうの。 よろしく」
「チセちゃん……っ! キュートな名前! アジア系のミューズ少ないのよねぇ。 これは……伸びるわよ?」
(……何を言ってるのこの人……)
「で、今日はどうするの? アジエ好みのイベントは、いまは無いけど?」
「チセにいろいろ欲しいんだよねぇ。 こいつ、自覚ねぇからさ」
アジエがサングラスをおでこに上げ、わたしをジロッと見て、にやっと笑う。
「あー、アルデン。 試着室使わせて。 ついでにチョイス頼めると助かるんだけど?」
その一言で、アルデンの顔が爆発した。
「いいの!? もちろん! VIPエントリーでご案内だわよ!」
次の瞬間、アルデンはスッと距離を詰め、わたしの手を握りしめた。
「よろしくねチセちゃん。 今日は全力でお世話しちゃうから。 わ・た・し、気合い入れちゃうわよ?」
さっきまで丸い声だったのに、背後へ振り返った途端――。
「グズグズしてんじゃないわよ! まず動線確保! 次にアプローチリストの確認! 最高のラインナップで迎えるのよ、おわかり!?」
声が、豹変していた。
鋭く、野太く、組織を動かす人間のそれに。
「テナントのマネージャ、今すぐ呼び出し! スタイリストも全部かき集めて! ミーティング始めるわよ! はい、散った散った!」
部下たちは「イエス・サー!」と叫んで走り去る。
(……なんか、すごい流れになってきた……)
圧倒も困惑も追いつかないまま、わたしは銀蘭堂の内側へ踏み込んでいた。




