第4話 チセ―Land of Oblivion/05 受け入れられないもの
HODO―― そこはテリトリーとはまったく異なる世界だった。
街路も均一ではなく、傾斜がついていたり補修された跡がムラになっていたりする。
どこも雑然としていて、テリトリーのような整った人工美は感じられなかった。
そんな場所で夜は隠れるように眠り、昼間は観察をした。
すっかり埃にまみれ、服は泥で汚れてしまっていた。
人間の体になるまで汚れというものは意識しなかったが、今はベトつく感覚があり、変な臭いもして不愉快だ。
ふと、何か視線を感じたような気がして振り返ったが、薄暗い道があるだけだった。
わたしは、気を取り直しいつもと同じ裏路地の入り口から慎重に周囲の様子を窺う。
通りの端では粗末な屋台が並び人々が何かを売買している。
屋台の奥ではこそこそと動く者、何かの取引をしている者、裏路地へと消えていく者――。
ここには決められたルールがない。
それぞれが、自分の方法で生きている。
(どうやって…… 食料を手に入れる?)
食べ物は残り少ない。
手持ちが尽きるのも時間の問題だ。
どうすればいいのかを知るためにわたしは必死だった。
それに比べれば汚れた体など二の次だった。
わたしは、人々の行動を観察しながら、彼らの生存の方法を探ろうとした。
道端で座り込んでいる男がいた。
その前には小さなボードが置かれ、そこには古びた小物が並んでいる。
通りすがりの男が立ち止まりそのうちの一つを手に取る。
「いくらだ?」
「五十だ。 いやなら帰りな」
短い交渉が行われ、取引は成立した。
買い手の男が端末をかざすと売り手の端末に何かの単位と数字が転送される。
受け取った男は満足そうにポケットに品物をしまい、足早に立ち去った。
(何か特定のデータを持っていれば、それと交換して食べ物を得ることができる……?)
少し離れた路地裏では別のやり取りが行われていた。
「三枚だ、いいだろ?」
「手持ちがなくてな、現物でどうだ」
何かのデータを端末を介して確認させている。
やり取りの間、周囲には別の男たちがじっと様子を窺っていた。
すぐに取引を終えた二人は満足そうに握手をし、短く言葉を交わしその場を離れていく。
(物同士を交換したのか?)
わたしは遠巻きに観察していたが取引の品物までは確認できなかった。
ただ、こうした交渉の中には食料を得る手段もあるはずだった。
飲食店らしき店の前に行列ができているのが目に入った。
人々が順番にカウンターへ進み、何かを受け取っている。わたしは、その流れを注意深く見つめた。
彼らはカウンターの端末に何かをかざしそれと引き換えに食べ物を受け取っている。
取引の流れは理解できたがその端末が何を示しているのかはわからない。
どうすれば、わたしもあの列に並ぶことができるのか。
わたしは端末どころか、何も持っていない。
(やはり、何かを得るには交換が必要……)
この世界では何かを持たなければ生きていけない。
ただ存在するだけでは、食事すら得られない。
わたしは、じっと人々の行動を観察しながらこの世界で生きるための手段を考え始めた。
次第にわかってはきた。
ここでは欲しいものを得るために二つの方法があるようだ。
一つは端末に何かストックした共通のデータの単位を受け渡す方法。
もう一つは物そのものを交換する方法。
前者は単純だ。
品物にあらかじめ決めた数値を指定してそれと同じ数値のデータを受け取る。
後者はそのデータがない場合に欲しいものと同じような価値を持った品物を提示する。
こちらはお互いが合意できれば品物同士を交換するのだろう。
さて、困った……。
まずわたしはあの端末をもっていない。
サンプルさえあれば解析してもっと簡単に仕組みがわかるのに。
まずはあの端末を手に入れなければ……。
では何かと交換する……?
何も持ってない……。
ふと、また誰かに見られている感じがした。
よく見ると向かいの通りから男が一人こちらを見ていた。
そういえば昨日もいた気がする。
なんなのだろう?
最初は偶然かと思っていたが、何度か視線を感じるうちにそれが意図的なものだと気づいた。
わたしが動くと男の姿が視界から消える。
わたしが戻るとまたそこにいる。
(つけられてる……?)
わたしの胸の奥でドクドクと不安に連動して何かが激しくリズムを刻み始める。
考えすぎかもしれない、と思った。
だが、次の瞬間――。
「……!」
突然、背後から口を押さえられ腕を捻り上げられた。
体が硬直する。
わたしは暗い路地の奥へと引きずり込まれた。
乱暴に放り投げられ、わたしの背中が地面に叩きつけられた。
一瞬、痛みで息ができず動けない。
その隙に、男が馬乗りになってくる。
顎を押さえつけられ、呼吸が詰まる。
さっき通りからわたしを見ていた男、さらにもう一人、別の男が立っていた。
――やられた。
自分が人間の姿であることに油断していた。わたしは狙われていたらしい。
でも理由がわからない。
「なぁ、言ったろ…… キッタねえ身なりしてるが、いい女のガキが通りに棲みついたってよ」
「へへへ、どうせ客でもとるんだろ? その前に味見させてくれよ」
後ろの二人も、こちらへと歩み寄る。
(暴力だけど、何かが違う……?)
嫌な感覚が背筋を這い上がる。
黒い巨人―― ハマーが、故郷を蹂躙していた光景と重なる。
壊されるだけの存在。
逃げられない。
力のないものが蹂躙される。
だが、これはあの時と違う。
――これは、もっと根源的な嫌悪感をともなう行為だ。
「どうせ仮想現実の出来事だ、せいぜい諦めて楽しもうぜ、なぁ!」
男がわたしの服を掴む。
そのまま、力任せに引き裂いた。
ビリッという音が響く。
肌に冷たい空気が触れる。
わたしの中に説明のつかない感覚が走った。
「いやぁあああああああ! いやだぁぁぁぁ!」
何が起きているのかも、何をされようとしているかも、はっきりとはわからない。
だけど、わたしの体は知っていた。
これは拒絶しなければならないものだと――。
だから、わたしは叫んだ。
本能的に―― この行為はわたしが許してはいけないものだった。
エクス=ルクスの時と同じ、突然の蹂躙だった。
わたしは抵抗しようとしたが、強く口を押さえられた。
「騒ぐな! このガキ! お前ら足を押さえろ!」
その場を逃れようと必死にもがくが、男たちは容赦なく自由を奪った。
それでも身をよじり続けたが、次第に恐怖に支配され、諦めかけて涙が溢れる目を閉じたときだった。
「うぎゃぁ!」
ゴツンと鈍い音が響いた。
わたしの上にいた男が、バランスを崩して倒れ込む。
腕の拘束が解かれ、わたしは男を押し退け、はいずるように離れる。
泥を払いながら後ずさった。
立とうとしたが足に力が入らない。
ゼェゼェとした息を必死で整えながら何が起こったのかを確認する。
男がぐったりとしていた。
そこにひとりの老婆が立っていた。
派手な赤いシャツを着て手にはずんぐりとした棒を握って、それを肩に担ぎわたしを見下ろしていた。
この老婆が持っている棒で男を殴り倒したらしい。
他の男二人は老婆の後ろにいつの間にか集まった男たちの集団に取り囲まれて震えていた。
「あー、よかった、よかった。まだ何もされちゃいないね……」
老婆は頭から足までわたしを舐めるように目を動かし、特に腿の付け根あたりを見てそう言った。
「おい、お前たち。 そいつらはよくわからせてから、港の下に捨ててやんな」
その老婆のせりふを聞き、泣きながら「止めてくれ」と言う二人の男を老婆はどなりつけた。
「都合のいいこと言ってんじゃないよ! うちのヤサで舐めたマネしてくれたね。 まあ、どうせ仮想現実での出来事だ。 紐無しバンジーしたってせいぜい強制排出だ、諦めな。 ……おまえら連れていきな!」
男たちの集団は「へいっ」と言うと、ぐったりと動かなくなった男と二人をどこかへ連れていった。
「酷い目にあったねお嬢ちゃん。大丈夫かい」
そう言うと老婆はこちらに近づいてきた。
頭が痛い。
顔が、首が冷たいのがわかる。
わたしは胸を隠すように自分の手で両肩を押さえていた。
歯はガチガチと音を立てている。
「服もこんなにされちまって、かわいそうに」
老婆は手を差し伸ばした。
「うわぁぁああ!」
わたしは、無意識のうちにその手を払いのけ、駆け出していた――。
「ちょ、ちょっとお待ち! そんな格好でどこ行くつもりだい!」
そう老婆は叫んでいたが気にせず走った。
早く、とにかく早くわたしは一人になりたかった。
【Present Day】
ああ、また嫌なことを思い出した。
いったい何なんだ、今日は厄日か?
ふっと視線を落とす。
目の前にはカップに揺れる淡いミルクの色。
ふー、ふーと熱いミルクティーを冷まして、ちょっとずつ啜る。
砂糖をたっぷり入れたミルクティーは、甘くて落ち着く。
「……チセ、最近ちょっと変わったよね?」
カフェのテーブルでアジエはふとそんなことを言った。
わたしはAVI―REXの袖をいじりながら少し考えた。
「そう、かな」
「前はさ、こういうとこでお茶するのもあんまり興味なさそうだったじゃん」
もう一度、ミルクティーを飲みながら小さく首を傾げる。
「……わたし、そうだった?」
言ってから少し考える。
たしかに、最初はこんな場所にいる自分を想像すらしていなかった。
でも、今はこうしてアジエと話している。
変わるというのは、こういうことなのだろうか?
わたしの返事を聞いてアジエは満足そうに頷いた。
そのとき、カフェの入口のベルが鳴った。
反射的に背筋が伸びる。入口を一瞥する。無意識に、逃げ道を確認している自分に気づく。
アジエが何か言おうとしたが、わたしは先に立ち上がった。
「……ごめん、ちょっと」
席を離れ、窓際へ移動する。外の通りを見下ろす。
人影はいつも通り。何も起きていない。なのに、胸の奥で何かが騒いでいる。
あの路地で覚えた感覚が、今も消えていない。
安全だと思える場所でさえ、油断は許されない――。
振り返ると、アジエが心配そうにこちらを見ていた。
わたしは小さく手を振り、席に戻る。大丈夫、ただの癖だ、と言い聞かせる。
でも、本当に大丈夫なのか。
あの経験が、今のわたしを形作っている。
変わるというのは、逃げられない過去を背負うことなのかもしれない。




