第8話 三人一組
「そこ、座っていい?」
地図から顔を上げると、短く髪を切った少女が隣の椅子を指していた。マシュウが頷くと、少女は鞄を置き、窓の外へ首を伸ばす。
「食堂、あの建物かな。毎日通ったら、それだけでお腹すきそう」
「まだ一時間目も始まってないぞ」
「昼の楽しみがあると、頑張れるでしょ。私はネラ。魔族だけど、隣で困る?」
「困らない。マシュウだ」
差し出された手には、道具を使って働く者の硬さがあった。ネラもこちらの拳をひっくり返し、指の付け根を眺めた。
「何してたの、この手」
「魔物を殴ってた」
「それ、私にも聞こえる声で言う話?」
「魔物だ。お前じゃねえよ」
ネラが笑ったところへ、前の席から小さな咳払いが聞こえた。襟をきっちり留めた少年が、椅子の埃を布で拭っている。窓から差す光の中で布を確かめ、不満そうに折り直す姿に、ネラが目を細めた。
「綺麗になった?」
「少なくとも、さっきよりはな」
「じゃあ名前も教えて。毎回、椅子を拭く人って呼ぶの長いから」
「フェリクス・ローデン。ローデン男爵家の者だ」
家名のあとに少し間が空いた。マシュウが名乗り返すと、フェリクスはこちらの袖口を見てから前へ向き直った。同じ制服でも、着ている者を分けたがるらしい。
その直後に扉が開き、頬に傷のある男が教卓へ進んだ。
「実戦基礎を担当するダリウスだ。教本を閉じろ。今日は、自分と隣の者に何ができるかを確かめる」
黒板へ『一か月後・護送演習』と書き、その下へ、もう一つ予定を加える。昇星戦という三文字を見て、フェリクスが背筋を伸ばした。
「学期末に行う大会だ。戦績はクラスの昇級に反映される。十分な結果を残せば、飛び級もある」
「Eからでもですか?」
後ろの席から上がった問いに、ダリウスは振り返った。
「そのための大会でもある。入学時の判定で、五年先まで決まったと思うな」
筆記の点数と『対人試験・未完了』の文字を思い出し、マシュウは筆を止めた。誰かを助けたことは後悔していない。それでも、戦う前につけられた評価を、そのまま抱えて過ごすつもりもなかった。
「拳は使えるのか?」
「魔法、武器、格闘の併用を認める。細則は後日説明するが、君の戦い方も評価の対象だ」
ダリウスがこちらを見て言ったので、マシュウは頷き、予定の下へ太く線を引いた。隣から覗いたネラが、机の下でこちらの靴を軽くつついた。
「急に元気になったね」
「やることが決まったからな」
*
実技場には、砂を詰めた的と、焼けた跡の残る石板が並んでいた。ダリウスは一人ずつ魔法を使わせ、出力よりも、狙った場所へ止められるかを見ていた。
ネラの風は布の的を揺らしたものの、吊ってある紐を大きく傾けるまでには至らなかった。フェリクスは土盾を作ったが、持ち上がった土の片側が崩れ、後ろの誰かが笑うと杖を握る手まで止まった。
「形が崩れても、途中で放すな。支える場所を一つずつ覚えろ」
ダリウスの言葉にフェリクスが唇を結ぶ。その横を通り、マシュウは石板の前へ立った。ダリウスが記録を見て、火属性、測定結果はCと読み上げると、後ろにいた生徒が少し近づいてきた。
「火炎矢」
細く伸びた炎が石板の中央で弾けた。乾いた音に、後ろで見ていた生徒が首をかしげる。魔力Cだと聞かされていたわりに、小さな火だと思ったらしかった。
「次は、打撃を見せてくれ」
ダリウスが生徒たちを下がらせると、マシュウは石板へ近づいた。左の拳を軽く当てて距離を測り、引き戻す動きに腰の回転を重ねる。右拳の前に灯った炎が、石へ触れる寸前に赤く膨らんだ。
「赫牙!」
拳と炎が同時に石板を打ち、重い音が土台まで震わせた。細かな石の粉が散る中で、マシュウは右手を顎のそばへ戻し、今度は一歩下がる。拳を伸ばしても届かない距離だったが、左足の爪先を外へ回すと、腰に引かれた右脚が横から跳ね上がった。
「焔月!」
脛の前を走る炎が、石板へ赤い弧を描いた。蹴りの衝撃に台が軋み、ネラが目を丸くする。マシュウは脚を引き戻して地面へ下ろすと、飛んだ砂を靴先で払った。
「足からも出るの!? 拳が届かない場所にいたのに」
「剣を持った奴は、そこなら届かないと思って止まることがある。今のは、その外から回して当てるんだ」
フェリクスが、板までの距離を測るように視線を動かした。隣の少年は自分でも足を上げ、片脚で立つ難しさに慌てて下ろす。
「ずっと燃やしてるわけじゃないんだな」
「当たるときだけでいい。全部の殴り合いに火を使ってたら、先に魔力がなくなる」
「その説明はできるのに、魔法理論は苦手なのか」
ダリウスが記録を見て言うと、マシュウは顔をしかめた。
「教本の言い方だと、わからなくなるんだよ」
笑いが起きた。ネラも笑ったが、もう一度石板へ目を向けたときには、拳の丸い跡と、蹴りの長い跡を見比べていた。
次の課題は、三人で土瓶入りの箱を台まで運ぶというものだった。十歩ほどの通路を進み、ダリウスの木剣から荷を守る。箱を落とすか、剣で触れられれば失敗になる。
「私が前へ出る。ネラは風で先生を止めろ。マシュウは運べ」
フェリクスの指示に従った最初の挑戦は、三歩で終わった。風と一緒に舞った砂へ彼が顔を背け、その脇から伸びた木剣が箱を叩いたのだ。
「私にまで当ててどうする!」
「どっちから吹かせるか、聞かないで前へ出たじゃない!」
「二人とも、箱を下ろすまで待ってくれ」
マシュウは荷を置き、フェリクスの足元を指した。
「次はお前が持ってみろ。箱で足元が見えないんだ。前の奴に急がれると、ついていけなくなる」
「私に荷物持ちをさせるのか?」
「三人ともやる課題だろ。家の名前で役を決めたら、練習にならねえよ」
言い返しかけた顔を見て、マシュウの声も少し低くなった。百年前、地形を知る者の忠告より、家柄だけで選ばれた指揮官の命令が通った。その結果、帰らなかった者たちがいる。名前が立派なら判断まで正しくなるという考えを、ここでも聞かされるのは御免だった。
「持ってから、どうしてほしいか言ってくれ。俺はそれを聞く」
フェリクスはしばらく黙っていたが、やがて箱を抱えた。立ち上がった直後に靴の位置を確かめるよう首を曲げ、先ほどマシュウが止まってくれと言った理由を、ようやく身体で知った顔をした。
次はマシュウが前へ出て、ネラを左へ置いた。低く迫った木剣に掌を沿わせ、押し返さずに横へ流す。引かれる剣を追いすぎず、背後の足音に合わせて進むと、ダリウスの目がわずかに細くなった。
「ネラ、手元へ一度!」
短い風が教員の袖を膨らませた瞬間、マシュウは剣を持つ腕の内側へ入った。ダリウスが手首を返して抜くまでの間に、フェリクスが台へ近づく。
「前を空けろ。もう置ける!」
声に合わせて身体をずらすと、フェリクスが通り抜けて箱を下ろした。蓋の下では土瓶が無事に立っており、ネラが大きく息を吐いて笑った。
「私の風でも、間に合った」
「ちょうど欲しいところに来たぞ」
マシュウが答えると、フェリクスは箱を押さえたまま、教員の腕をどう止めたのかと尋ねた。さっきまで指示を出すことしか考えていなかった少年が、身分のない相手の手を見ている。その変化が嬉しくて、マシュウは実際に手を動かしてみせた。
授業の終わりに、ダリウスが翌日の合同実技を告げた。相手はBクラスだと聞き、教室へ戻る列からため息が漏れる。
「ロルフ・クライゼンもいるのか……」
フェリクスが呟いた。名を尋ねると、伯爵家の息子で、剣と風を使うという。
「強いのか?」
「強い。君が想像しているより、ずっと」
マシュウは右手を握り、今日も痛まなかった肩を回した。ようやく最後まで戦える機会が来る。隣でネラが不安そうに顔を覗き込んだので、口元が緩んでいたことに気づいた。
「ねえ。なんで嬉しそうなの?」
「強い奴と戦えるんだろ。楽しみにもなるさ」




