第9話 伯爵家の剣
木剣が跳ね上がり、Eクラスの少年が尻餅をついた。喉元へ剣先を向けられて両手を上げると、向かいの少年は息も乱さずに武器を下ろした。
「ロルフの勝ちだ。次の組は準備しろ」
ダリウスの声を聞きながら、マシュウは勝者の足を見ていた。剣を振ったあとにも両足が揃わず、次の一歩を出せる位置に残っている。身についた動きだった。
「やっぱり、まともに相手をする必要はないな」
Bクラスの列から声がした。負けた少年が耳まで赤くして戻ってくると、ネラが横へずれて場所を空けた。ロルフは袖を整えていたが、こちらにフェリクスを見つけると、明るい茶髪の下で眉を上げた。
「君までEとはね。ローデン家の家庭教師も、随分と苦労しただろう」
「……筆記で、少し失敗しただけだ」
「平民と補習を受ける姿を、お父上に見せられるのか?」
笑い声に、フェリクスの指が杖を強く握った。昨日は教室で家名を名乗っていた少年が、今は言い返すことさえできずにいる。
「お前の家じゃ、勉強する相手まで決められるのか?」
マシュウが尋ねると、フェリクスに腕を掴まれた。
「よせ。クライゼン伯爵家の嫡男だぞ」
「それで、今の話が立派になるのかよ」
ロルフへ向き直ったマシュウを見て、周りの笑いが止まった。剣を上手く使えることには感心する。だが、その腕を持っていながら、家の名前で人を縮こまらせて喜ぶところは、少しも尊敬できなかった。
「マシュウ・ファルニール。次は君だ」
ダリウスに呼ばれ、マシュウはフェリクスの手を軽く叩いて外した。備えつけの胴当てを着け、ネラに背中の紐を結んでもらってから白線の中へ入る。
「武器を忘れているぞ」
「これで足りる」
拳を上げると、Bクラスの列から小さな笑いが戻った。ロルフは笑わずにダリウスを見たが、教員が認めると木剣を構えた。
「降参、続行不能、両足の場外で決着とする。急所への攻撃は禁止だ。制止には即座に従え」
規則を告げ終えたダリウスが二人から離れ、開始の声を上げた。
「風撃!」
ロルフの左手から風が噴き出し、地面の砂が帯になって跳ねた。マシュウは横へ蹴り出し、追ってくる木剣を前腕で外へ流した。すぐに返された横薙ぎを上体を引いてかわすと、剣先が胴当ての革をかすめる。
避ける向きを風で絞り、そこへ剣を置く。最初の少年が倒されたのと同じ連携だったが、マシュウは次の踏み込みまで見て、今度は斜め前へ足を出した。
ロルフの剣が引き戻される内側へ入り、左拳を顔の前で止める。視界を遮られた少年が剣を立てて受けたときには、右の拳が下から胴当てを叩いていた。
ロルフが短く息を吐き、風を広げながら下がった。マシュウも追わずに足を止めると、場外で誰かが「あ」と声を漏らした。
「今、入ったよな」
囁きが聞こえたのか、ロルフの顎が引かれた。左手を剣の陰へ隠し、構えの幅を狭める。ここからは、同じ入り方を待ち受けるつもりらしかった。
「近いほうが得意なのは、わかった」
「だったら、こっちも見てくれ」
マシュウの左手に火が灯った。
「火炎矢!」
細い炎をロルフは風で払い、その切れ目を縫って踏み込んだ。火を撃った左手を狙い、木剣が伸びてくる。マシュウは手を引きながら身体を斜めへ逃がし、剣先を通してから、拳を上げて前へ出る姿勢を見せた。
ロルフはすぐに剣を短く引き戻した。先ほど打たれた腹を守り、拳の来る正面へ刃を置く。マシュウはそこまで近づかず、踏み出した左足を外へ回した。
「焔月!」
右脚が腰の回転を追い、赤い炎を引いて横から走った。木剣の先を大きく回り込む蹴りに、ロルフが肘を下げる。だが、胴当ての脇を打った衝撃は、その腕が戻るより早く、身体を横へ押していた。
「蹴り……っ!?」
ロルフが歯を食いしばり、返す木剣でマシュウの肩を狙った。まだ片脚で立っていたマシュウは、蹴った足をすぐに引き戻し、地面につけると同時に上体を沈める。頭上を剣が抜け、その風に髪が浮いた。
場外から、今のは当たると思った、という声が漏れた。マシュウは拳を上げ直す。蹴りは遠くへ届くが、脚を戻すまで隙がある。そこを見逃さず打ち返してくる相手だからこそ、次の踏み込みも雑にはできなかった。
ロルフが剣を引いたところへ、マシュウは足を運んだ。刃の外側へ回り、振り向こうとする肩より先に、その横へ並ぶ。
「剣を戻すとき、左足が先に動くんだな」
耳の近くで言われ、ロルフが目を見開いた。振り返りながら剣を払うと、マシュウはその先端から半歩だけ離れ、再び拳を構えた。
教わった通りに動ける相手ほど、繰り返す癖もある。長く戦えば気づかれる程度のものでも、魔物の牙の前では、その一度を待っていられない。マシュウが身につけてきたのは、次に同じ動きが来るまでに、生き残る場所を見つけることだった。
「黙れ……!」
ロルフの足元から砂が巻き上がり、これまでより太い風が一直線に走った。白線のそばにいた生徒が顔をかばう。マシュウはすぐには横へ跳ばず、左腕で顔を守りながら、風の端へ斜めに身体を倒した。
圧力が肩を叩き、靴が砂を削った。その向こうでロルフの剣が伸びるのを見て、マシュウは踏み直した足で、今度こそ前へ出た。突きの外へ頬を逃がし、左手で鍔元を押さえる。ロルフが左手を戻すより早く、マシュウの右拳の前に、赤い炎が集まった。
「赫牙!」
腰を回して打ち込んだ拳と、至近距離で解き放った炎が、胴当ての一点へ重なった。低い破裂音とともにロルフの上体が折れ、踏みとどまろうとした靴が砂を大きく掻く。二歩、三歩と押し出された身体が白線を越え、膝が地面へついた。
マシュウはすでに火を消し、伸ばしかけた次の拳を止めていた。ダリウスが二人の間へ入り、ロルフの呼吸を確かめてから片手を上げる。
「場外。勝者、マシュウ・ファルニール!」
一瞬、実技場から声がなくなった。倒れたロルフと、まだ拳を上げているマシュウを、何人もの目が交互に見ていた。
「……ロルフが、負けた?」
Bクラスの生徒が口にすると、隣の少年がすぐに首を振った。
「場外だろ。足が滑っただけで――」
「その前にも、二発もらっている」
ダリウスは記録用紙を閉じ、言いかけた少年へ目を向けた。
「開始から見ていたな。結果だけ都合よく切り離すな」
少年の口が閉じた。その沈黙を破ったのは、ネラの声だった。
「勝った! 本当に勝ったじゃない!」
彼女が両手を上げると、Eクラスの列からも声が上がった。最初に倒された少年が、隣の肩を叩いて笑っている。マシュウへ向かって振られる手が幾つもあり、ようやく最後まで戦えた実感が、熱い息と一緒に胸へ広がった。
ロルフは差し出されたダリウスの手を借りて立ち上がった。目が合っても、今度は家柄の話をしなかった。こちらの拳を見つめてから唇を結び、乱れた呼吸を整えている。
白線の外へ戻ると、同級生たちに囲まれた。どうやって風を抜けたのか、あの蹴りも火属性なのかと、いっぺんに尋ねられて答えに詰まる。その向こうで、フェリクスだけがまだ動かずにいた。
「君、本当に……Eクラスなのか」
「昨日も今日も、同じ教室にいただろ」
「そういう意味じゃない!」
思わず強く返したフェリクスの声に、ネラが笑った。マシュウもつられて笑ったが、汗で背中が痒くなり、胴当てへ手を回す。結び目が指に届かず、もぞもぞしているうちに、周りの視線まで背中へ集まった。
「悪い。勝ったばっかりで格好つかねえけど、これほどいてくれ」
ネラが噴き出し、フェリクスが呆れた顔で後ろへ回った。紐を引く手はまだ震えていたが、今度はロルフの顔色を確かめるために、こちらから離れることはなかった。




