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第10話 放課後の約束

「動くな。余計に締まる」


 背中で紐《ひも》を引かれ、マシュウは上げかけた腕を下ろした。フェリクスが結び目へ爪《つめ》を差し込む間も、周りからは試合の話が聞こえてくる。今まで席の近い者としか話していなかった教室で、自分の名前が何度も呼ばれるのは、妙に落ち着かなかった。


「最後の拳も凄かったけど、あの蹴り、剣の横を通ったぞ」

「俺、拳が来ると思って手のほう見てた……」


 答えようと顔を上げたところで、声が途切れた。ロルフが近づいてきていた。背中の紐を持つフェリクスの手まで止まり、マシュウはそちらへ、続けてくれ、と軽く身を向けた。


「何だ。どこか痛めたか?」

「……痛いに決まっているだろう」


 ロルフは腹へ添えていた手を離した。倒されたあとに怪我《けが》を心配されることまで悔しかったのか、すぐには次の言葉が出てこない。


「いつから、僕の動きを読んでいた」

「最初の奴と戦ってたときから見てた。剣を引く足が毎回同じだったから、次もそうかと思って試した」


 ロルフの眉《まゆ》が動いた。試合が始まる前には、もう見られていた。そのことを確かめるように、自分の足元へ一度だけ目を落とす。


「拳を止める構えなら、できていたはずだ」

「だから横から蹴った。お前、すぐ剣を返してきただろ。あれは危なかったぞ」


 マシュウの言葉を聞いても、ロルフはすぐには顔を上げなかった。けれど、周囲から慰めの声がかかったときには、自分でそれを止めた。


「今日は僕が負けた。見ていただろう」


 言い切った唇が強く結ばれた。マシュウはその顔を見て、さっきの侮辱を許せたわけではないが、少なくともこの少年は、自分の剣まで家名の陰へ隠すつもりはないのだと思った。


「昇星戦《しょうせいせん》には出るのか」

「出る。上のクラスへ行くつもりだ」

「なら、次はそこでだ。今日のままの僕を想像するなよ」


 ロルフは返事を待たずに去っていった。歩幅はまだ少し狭かったが、こちらから目を逸《そ》らしたまま逃げる足取りではなかった。


「……あいつも、出るってよ」

「聞こえていた。頼むから、今は動くな」


 フェリクスが最後の結び目を引き抜くと、ようやく胴当てが緩《ゆる》んだ。軽くなった胸へ息を入れたところで、今度はダリウスに呼ばれた。


「今日の結果は実技の評価に残す。それと、来週から強化実習へ参加しろ」


 差し出された用紙には、上位クラスの生徒が受ける放課後の実習について書かれていた。マシュウが顔を上げると、ダリウスは紙を指で叩《たた》いた。


「君に合う相手と戦う機会を用意する。実技と筆記の開きは大きいが、得意なものまで同じ歩幅で進ませる必要はない」

「俺、入っていいのか?」

「今の試合を見て、まだ駄目だと言うと思うか」


 マシュウは用紙を受け取った。試験の続きを求めても動かなかった話が、自分で戦った結果によって、ようやく前へ進んだのだった。


「行く。仕事の当番を替えてもらう」

「必要なら私からも話す。それと、歴史の課題は今日までだぞ」


 喜んで頷《うなず》きかけた首が止まると、ダリウスは笑って、次の生徒の記録へ目を落とした。


     *


「伯爵《はくしゃく》家の人を殴り倒したって、本当?」


 食堂の入口で待っていたエリオにそう聞かれ、マシュウは額へ手を当てた。


「半分くらい、喧嘩《けんか》の話になってないか」

「Dクラスまで聞こえてきたよ。素手で剣を折ったって言う人もいた」

「折ってねえよ。木剣だって、壊したら弁償《べんしょう》だろ」


 ネラが笑いながら試合だったと説明すると、エリオの顔から心配が消えた。最後まで戦って勝ったと聞き、今度は、こちらを真っすぐに見て笑う。


「そっか。やっと、見てもらえたんだね」


 掲示板の前で、自分の評価票を見て悔しそうにしていた顔が浮かんだ。マシュウは頷き、見せようとしていた実習の用紙を、先にエリオへ渡した。


 互いの名前を紹介してから、四人で食事の列へ並んだ。途中でBクラスの生徒がこちらを見て声を潜《ひそ》めたが、Eクラスの顔見知りは、隣の友人へ得意そうにマシュウを示していた。つい今朝まで、離れた棟から出てくる制服の一つにすぎなかったはずなのに、今日は視線が何度もぶつかる。


「気になる?」

「見られながら飯を選ぶの、慣れてない」


 ネラに答えながら革袋を確かめ、マシュウはいつもの汁物に小さな肉皿を加えた。勝った日に、これくらい食べてもいいだろう。


 窓際へ四人で座ると、隣の卓にいた少年が身を乗り出した。


「本当にロルフを倒したのか? 俺もEなんだけどさ、あとで話、聞かせてくれよ」

「いいけど、先にこれを何とかしてくれ」


 マシュウが歴史の課題を出すと、少年は紙を見て目を丸くした。フェリクスはそれより早く、地図へ指を下ろしていた。


「この国、位置が違う。川の東側だ」

「その川、こっちじゃなかったか?」

「それは支流だ。君、山脈の向こうに同じ国を二つ書いているぞ」


 エリオが匙《さじ》を止め、ネラは笑いかけてから自分の鞄《かばん》を探った。隣の少年まで吹き出したので、マシュウは用紙を少し引き寄せた。


「笑うなら、どっちが正しいか教えてくれ」

「両方違う」


 フェリクスの即答に、今度はマシュウも笑うしかなかった。卓の上へ地図が広がると、試合のことを聞きたがっていた少年も席を寄せ、国境線を指して説明し始めた。


     *


 放課後、厨房《ちゅうぼう》の薪《まき》を運び終えて中庭へ出ると、ネラとエリオが待っていた。芝生の端でネラが実技場を真似《まね》た構えを取り、一歩動いた途端につんのめる。


「足、そんなに開かなくていい」

「見たときは、もっと簡単そうだったのに」


 マシュウは隣へ並び、ゆっくり歩いてみせた。止まっても両足を揃えず、もう一歩動ける位置へ残す。ネラが試合の蹴りを真似して脚を高く上げかけたので、まずは膝を少し上げて、同じ場所へ戻してみろと声をかけた。足を下ろしたあとも身体が傾かないよう繰り返していると、初めて見るEクラスの生徒が二人、通路から足を止めて眺めていた。


「こっち来るか? まだ走らないぞ」


 声をかけると、二人は顔を見合わせてから芝生へ下りてきた。少し後ろで真似を始める姿に、ネラが小声で笑う。


「先生みたいになってきたね」

「あとで全員に歴史を教わるから、いいんだよ」


 そこへ厚い地図帳を抱えたフェリクスが来た。増えた人数を見て足を止めたが、誰かに場所を空けるよう命じることもなく、マシュウの前へ本を差し出した。


「図書室で借りた。これなら国境が見やすい」

「助かる。お前もやるか?」


 フェリクスは答える前に、自分の靴と、芝生に残った足跡を見た。それから地図帳をエリオへ預け、マシュウの隣へ立つ。


「後ろへ下がるところを、もう一度見せてくれ」


 真剣な声だった。マシュウは理由を問い詰めず、同じ動きをゆっくり繰り返した。昼には図の読み方を教えてくれた少年が、今はこちらの足を見ている。そのことが、試合の歓声とは違う嬉しさになって残った。


 ひと通り練習すると、みんなで腰を下ろした。西日の当たる地図帳をネラが覗き込み、エリオが筆を渡してくれる。今日は国の名前を三つ覚えるまで帰らない、とフェリクスが言うので、マシュウは大げさにため息をついた。


「剣の相手より厳しいな」

「君が同じ国を増やさなければ、すぐ終わる」


 笑い声の中で筆を握り、マシュウは教えられた名前を書き込んだ。明日もここへ来る約束をしてから、紙の端に、練習の時間を少し大きく書き足した。

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