第7話 Eクラス
「動かすなと言っただろう」
右腕を上げかけたマシュウは、治療師に肩を押さえられて手を下ろした。濡らした布を外されると、背中にひりつく痛みが戻った。火傷だけでなく、地面へ倒れ込んだ際に右肩も強く打っているという。
「指は動くんだが」
「指が動けば殴り合えるという話じゃない。少なくとも三日は、力仕事も魔法の実技も休むこと。傷を開き直したくなければな」
処置室の戸口にいた教員が、その言葉を聞いて眉間へ指を当てた。試験で木剣を交えていた、頬に傷のある男だった。
「延期になった対人試験は、明日の朝に再開する」
「だったら、俺も――」
「今の話を聞いただろう。出場は認められない」
マシュウは言い返そうとしたが、服を着直すために腕を引いただけで、肩の奥に痛みが走った。思わず止まった動きを見て、教員が近づき、袖へ手を通すのを手伝った。
「傷が治ってから受けられないか。途中で終わってるんだろ」
「個別の追試を申請する。まずは治療を優先しろ」
教員はマシュウの受験番号を控え直し、その紙を上着へしまった。名前を尋ねると、ダリウスと名乗った。
「あの子は無事だったのか?」
「擦り傷はあるが、火傷はない。今は隣で休ませている」
マシュウが息を吐くと、ダリウスは処置台の脇に立ったまま、少しの間、黙っていた。
「こちらの管理不足で怪我をさせた。すまなかった」
頭を下げられ、マシュウは顔を上げた。昨日見た教員たちなら、何をしていた、と先に怒鳴ったかもしれない。けれど、この男は自分の立場を盾にせず、事故の責任を口にした。
「先生が、あの火を撃ったわけじゃないだろ」
「受験生を預かっていたのは我々だ。止められなかった責任はある」
ダリウスはそう言ってから、机に置かれた記録用紙を取り上げた。マシュウは、背中の痛みが引いたわけでもないのに、肩から少し力が抜けたのを感じた。
ほどなく戸口から、少女が恐る恐る顔を覗かせた。膝に巻かれた包帯が見え、マシュウが身体を起こしかけると、慌てたように両手を振った。
「そのままでいてください! 私が、こっちへ来ますから」
少女は処置台の横まで歩いてきて、胸元で手を揃えた。
「二年のミナです。あの……助けていただいて、ありがとうございました」
「歩けるならよかった。膝は痛むか?」
「少しだけ。それより、試験の途中だったって聞いて……」
ミナの目が、包帯の覗く肩へ移った。俯いた顔を見て、マシュウは、処置台の端に置かれていた水の杯を差し出した。
「お前が悪いわけじゃない。そんな顔で立ってたら、また治療師に寝かされるぞ」
受け取った杯を見つめたまま、ミナは小さく頷いた。紙束で前が見えず、叫び声を聞いてもどちらへ逃げればいいのかわからなかったという。話す声が震え始めたため、マシュウは続きを急がせず、水を飲むのを待った。
*
数日後、痛みの和らいだ肩を庇いながら学園へ行くと、ダリウスから、個別の追試は認められなかったと告げられた。再開された試験の日程はすでに終わり、残された記録で選考を進めると決まったという。
「俺の都合で抜けたわけじゃないぞ」
「わかっている。事故で中断し、負傷のため再試験を受けられなかったことは、記録に残してある。棄権や規律違反としては扱わせていない」
「でも、ちゃんと戦ったところは見てもらえないんだろ」
ダリウスはすぐには答えなかった。マシュウは傷のある頬を見て、言葉を飲み込んだ。目の前の男が握り潰した話ではない。それでも、こちらが何もできない間に試験だけが終わったことを、仕方がないとは思えなかった。
「短い時間だったが、君の動きについても報告は出した。結果が出たら、評価内容を確認しろ。納得できなければ、問い合わせるところまで付き合う」
マシュウは頷いた。丸めて捨てたくなるような話でも、まだ自分の受験が終わったわけではなかった。
結果の掲示は、その二日後だった。掲示板の前に集まった肩と肩の隙間から、自分の番号を捜した。最初にCクラスの欄を見て、次にDへ目を移し、どちらにも見つからないまま一番下まで視線を下ろすと、Eクラスの欄に、マシュウ・ファルニールと書かれていた。
「あった……」
落ちてはいなかった。胸の奥で張り詰めていたものが緩んだ直後、名前の上にあるEの文字が、嫌にはっきり目へ入った。
「マシュウ、どうだった?」
人混みを抜けてきたエリオへ、掲示板を指した。エリオはその先を見て、口を開きかけたまま黙った。
「お前は?」
「僕はD。……でも、魔力は君のほうが上だったのに」
「筆記は、見事に駄目だったからな」
笑ってみせようとしたが、うまくいかなかった。受付で渡された評価票にも、同じ結果が記されていた。計算と魔物への対処以外は低く、歴史と魔法理論は特に悪い。魔法実技は合格水準に届いていたが、対人試験の欄には、未完了と短く記されていた。
係員に説明を求めると、筆記の不足を、確認できた実技の記録だけでは補えなかったのだという。対人試験を最後まで受けていればどうなったのかと尋ねても、未実施の評価については答えられないと返された。
用紙を受け取り直したとき、エリオが隣で唇を噛んでいた。
「あの事故さえなければ……」
「そうだな。あれは、ついてなかった」
マシュウは掲示板のほうへ目を向けた。もし数人早く順番が回ってきていれば、対人試験は終わっていたかもしれない。肩を傷めずに済んでいれば、翌日の再試験にも出られただろう。考えれば考えるほど腹が立ったが、その途中に、炎の下で立ち尽くしていたミナの顔が浮かんだ。
「でも、もう一回あそこに戻ったとしても、俺は同じことをするぞ」
エリオが顔を上げた。マシュウは評価票を折り、端を揃えて懐へ入れた。
「試験のために、人が焼けるのを見てるわけにはいかねえだろ」
少しの間を置いて、エリオが頷いた。その顔から余計な慰めの色が消えたので、マシュウも、今度は少し笑えた。
*
支援の申請は通っていた。授業料と寮費の一部が減免され、残りは校内の仕事をしながら納めていくことになった。入学時の支払いを済ませると革袋はずいぶん軽くなったが、宿代を気にしながら眠る暮らしには、ひとまず終わりが見えた。
入学の日、まだ硬い制服の襟へ指を差し入れながら、案内に従って教室へ向かった。Dクラスの教室がある階でエリオと別れるとき、彼は階段の途中から声をかけてきた。
「昼、一緒に食べよう。食堂の入口で待ってる」
「奢らないぞ」
「僕だって、そんなに持ってないよ!」
笑いながら手を振ったエリオを見送り、マシュウは渡り廊下を進んだ。奥の棟は窓枠の塗装が剥げ、歩くたびに床がわずかに軋んだ。扉の上に掲げられた『一年Eクラス』の札を見つけ、足を止めた。
制服の袖は、今の腕に合っていた。肩を動かしても、もう鋭い痛みは走らない。襟の下には古びたネックレスがあり、鞄には新しく支給された教本が入っていた。
中から話し声が聞こえたので、扉を開けた。黒板には白い字で『空いている席へ』と書かれている。マシュウは教室を見渡し、窓際に一つ見つけた空席へ歩いた。
腰を下ろして鞄を開くと、歴史の教本が一番上にあった。筆記で名前もわからなかった国が、見返しの地図に載っている。指で川を辿り、その国の位置を確かめてから、ノートを開いた。
これから覚えることは山ほどある。最初の頁に日付を書き、受験の前夜にエリオから教わったように、左側へ余白を残した。あとから書き足せる場所があるのを確かめて、マシュウは教本を机の中央へ引き寄せた。




