第77話 空を覆う影
唇に、砂がついていた。
吐き出そうとして、咳が出た。胸の奥が引き攣り、マシュウは横向きのまま肩を震わせる。頬へ寄せていた波が引き、濡れた砂に指の跡が残った。
海だ。
それを確かめるだけで、しばらくかかった。耳の奥では、まだ水が唸っている。岩壁。暗い穴。握り返してきた指。
レティシア。
顔を上げた途端、腕が折れたように崩れた。砂へ顎をぶつけ、歯を食いしばる。全身が重い。身体に染み込んだ冷たさが、骨の奥まで残っていた。
もう一度、肘を立てた。数歩先に、彼女が倒れていた。
「レティシア!」
膝で砂を押し、そばへ這い寄った。髪が顔へ貼りついている。肩へ手を掛けて名前を呼んでも、瞼は動かなかった。
「おい。起きろ。浜に着いたぞ」
肩を揺すった。頭が力なく傾き、胸元から砂が落ちた。それきりだった。
マシュウは手を止め、口元へ顔を近づけた。かすかな息が触れた。
生きている。そう思った途端、喉から長い息が漏れた。けれど、何度呼びかけても返事はない。握り直した指は冷たく、砂まみれの掌へ、されるがまま収まっていた。
「ネイレア。いるか」
波の上へも声をかけた。
水の膜も、あの青い姿も見えない。レティシアの杖が、半ば砂へ埋もれていた。
まず、波の届かねえところへ。
片腕を膝の下へ、もう片方を背中へ入れた。持ち上げることはできた。だが、立ち上がった拍子に足元が揺れ、砂が急に遠くなったように感じた。
倒すな。
彼女を抱き直し、一歩ずつ進む。浜の奥には木々が見えた。あそこへ運んで、火を起こす。乾いたものを掛けてやれば、少しは――。
足元が、暗くなった。夜が来たのかと思った。
顔を上げると、海はまだ日を照り返している。自分たちの周りだけが、翼の形をした影に沈んでいた。
マシュウはレティシアを砂へ下ろした。上を向くより早く、木々の葉が一斉に裏返った。
風に混じって、耳を刺す声が落ちてきた。怪鳥だった。
左右へ広がる翼は、浜の両端へ届くかと思うほど大きい。灰褐色の羽の間から、黄ばんだ首が突き出している。その先で開いた嘴に、細い牙が何列も並んでいた。
牙嘴巨鳥。昔、山の上を旋回する姿を見たことがある。だが、目の前のこいつは、開いた嘴だけで人間が収まりそうだった。
黄色い目が、こちらを捉えた。
マシュウは左手を突き上げた。
「火炎矢!」
炎が開いた嘴へ走った。怪鳥が首を振り、頬の羽へ火が散る。ぎらりと光る目が近づき、マシュウは横へ飛び退いた。
遅い。思っていた場所へ、足が届かない。
嘴がすぐ脇を抉り、跳ね上がった砂が顔を叩いた。転がりながら腕をつく。指に力を込めたが、立ち上がるより早く、太い爪が降ってきた。
「赫牙!」
炎を握った拳を突き上げた。
爪の付け根へ拳が食い込む。硬い鱗が割れ、熱い血が腕へ飛んだ。怪鳥が脚を引く。その隙に抜けようとして、マシュウは片膝を落とした。
踏ん張るはずの脚が、砂を滑った。
掌にはまだ火が集まる。それなのに、肩へ何本もの綱を巻かれたように腕が重かった。
怪鳥が甲高く鳴いた。嘴から長い舌が覗き、牙の間を唾液が糸のように引いた。
マシュウは砂を蹴りつけ、その目を追った。
「こっちだ。俺を見ろ!」
レティシアから離れるように走った。腿が震える。息が吸いきれず、胸の内側だけが熱くなった。
それでも、怪鳥の首はこちらへ向いている。
来い。あと少し、こっちへ。
巨体が跳ねた。マシュウは嘴を避けて懐へ入りかけ、広がった翼に気づいた。
腕を上げたときには、もう遅かった。
翼の縁が胴を打った。足が砂から離れ、身体が横へ飛ぶ。息を吐き出すこともできないまま地面へ叩きつけられ、何度も転がった。
ようやく止まったとき、口の中に血の味が広がった。
起きろ。
両手をついた。肘が震え、胸が持ち上がらない。
その向こうで、怪鳥の頭が動いた。こちらを見ていなかった。砂の上に横たわる、レティシアを見ていた。
「待て……!」
腕を伸ばした。指先へ炎を集めたが、怪鳥はもう身を低くしていた。傷ついた脚を引きずり、長い首を前へ突き出す。
彼女は動かなかった。嘴の影が顔に掛かっても、目を開けなかった。
『あの女、喰われるぞ。まだ這ってるつもりか、てめえ』
胸の奥で声がした。マシュウは、即座に叫んだ。
「焔龍顕現ッ!!」
心臓を、内側から掴まれた。
息が止まる。背中が反り、砂を押さえた右手へ赤い光が走った。指の上へ細かな鱗が重なり、髪が炎となって背へ噴き流れる。
立ち上がろうとするより早く、身体が跳んだ。落ちてくる嘴へ、自分の右手が突き出されていた。
牙が掌へ食い込む寸前、指が嘴の縁を握った。巨体の勢いを受けて砂が盛り上がる。膝は折れなかった。
すぐ後ろに、レティシアがいる。
マシュウは彼女を見ようとした。首が動かない。嘴を握る指を緩めることも、息を整えることもできなかった。
「ずいぶん、好き勝手やってくれたな」
自分の口が笑った。あの声だった。
腕が持ち上がった。首をねじられた怪鳥が爪を砂へ突き立てる。その嘴を振り回し、巨体ごと波打ち際へ投げ捨てた。
白い波が、腹の下で弾けた。
怪鳥は翼を打ち、海面から飛び上がろうとした。追おうとする身体の奥で、マシュウは息を詰めた。引き裂かれそうに筋肉が痛む。それでも足は止まらず、炎を踏み散らして砂浜を駆けた。
「焔龍爪!」
振り上げられた腕から、三本の炎の爪が伸びた。
翼の下を裂き、羽を焼き切る。浮き上がった巨体が傾き、片方の翼を水へ突っ込んだ。羽の間から噴いた血が、波を赤く染めていく。
マシュウの身体は、その翼を踏んでいた。
骨が砕けた。持ち上がりかけた翼が、途中から不自然に折れ曲がる。怪鳥の悲鳴を聞きながら、唇がさらに吊り上がった。
「どこへ逃げる気だよ」
怪鳥が振り向いた。
牙の並ぶ嘴が横から迫る。避ける代わりに、自分の左腕が口の中へ入った。上顎を押し上げ、閉じようとする嘴を、力任せにこじ開ける。
牙が折れた。黄色い欠片が舌の上へ散り、顎の付け根から血が流れた。
マシュウには、もう片方の翼が見えていた。まだ動いている。身体を海から持ち上げようと、砂を掻いている。
早く。こいつを止めろ。レティシアのところへ戻らせてくれ。
「口、開けてたかったんだろうが」
声の主は笑ったままだった。右手が、開いた嘴の奥へ向けられる。
「焔龍爪!」
炎の爪が口内で膨れ上がった。
上と下の嘴が引き裂かれ、三本の爪先が後頭部へ突き抜ける。太い首が激しく跳ね、翼が一度だけ砂を打った。
口へ差し込まれていた左腕が抜かれた。怪鳥の首が砂へ崩れ落ち、波に洗われても、もう持ち上がらなかった。
マシュウの身体は、焼けた嘴を蹴り退けた。
まだ殴ろうとしている。拳が握られる。その指の隙間で、火が一度、弱く揺れた。
「……ちっ」
右膝が砂へ落ちた。
背を流れていた炎が短くなり、鱗の間から光が消えていく。怪鳥を見ていた目が、ようやく横へ動いた。
レティシアは、同じ場所にいた。牙は届いていない。翼にも、踏み潰されていない。
よかった。
そう思うと、急に身体が重くなった。声の主の気配が薄れ、自分の指で砂を掴めるようになる。腕を引き、彼女のそばへ戻ろうとした。
身体は動かなかった。
三度、使った。残りは、七回。
その数だけが頭に浮かんだ。声にはしなかった。彼女を起こすこともできないまま、腕から力が抜ける。
頬へ砂が触れたところで、何もわからなくなった。
*
森の出口で、老人が足を止めた。
背負った籠の中で、拾い集めた薪が鳴った。焼けた羽の臭いに眉を寄せ、波打ち際の巨体を見る。
片翼が折れ、嘴は割られている。大きく開いた口の奥まで焼けているのを見て、老人は立ち止まった。
「……誰が、こんな真似を」
周囲を見回して、砂へ投げ出された人の手に気づいた。怪鳥の手前に、少年が倒れていた。
「おい。生きとるか」
返事はなかった。
老人は籠を下ろした。膝をつき、少年の口元へ手をかざす。それから少し離れた場所の少女を見つけ、そちらへも急いだ。
薄く開いた唇から、息が漏れていた。
「二人か。こりゃ、背負っては無理じゃな」
老人は着ていた上着を少女へ掛けた。少年を波の届かない場所へ引き上げると、腰を押さえながら立ち上がり、森の小道へ戻っていった。
やがて、車輪が軋む音がした。
二輪の荷車に古い毛布が敷かれている。老人は少女から乗せ、次に少年を引き上げた。額の汗を拭い、落ちていた杖も拾って脇へ収める。
「揺れるぞ。少し辛抱しとれ」
荷車が砂へ深く沈んだ。老人は何度か車輪を押し戻し、ようやく固い地面へ乗せた。
木々の奥に、小さな家があった。
老人は扉を開け放ち、二人を順に運び込んだ。寝台へ少女を寝かせ、少年には暖炉の前へ敷いた厚い毛布をあてがう。
戸棚から布と水差しを取り出すまで、二人とも目を覚まさなかった。
老人は炉へ薪を入れ、火をつけた。
「話は、起きてからじゃ」
椅子を引き寄せた老人の前で、二人の濡れた服が、火に照らされていた。




