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第76話 離すな

「船底だ! 水が入ってる!」


 階段の下から声がした。マシュウが振り向くと、オスカーが船員の差し出した板を受け取り、薄暗い船倉《せんそう》へ降りていくところだった。


「塞《ふさ》ぐのを手伝う。階段を頼む!」


「任せろ!」


 マシュウは横から伸びてきた腕をつかんだ。濡《ぬ》れた毛が掌《てのひら》を滑る。指へ力を込め、階段へ向かおうとする魔物を引き戻した。


 開いた口へ、炎を握った拳を突き上げる。


「赫牙《イグニス・ファング》!」


 顎《あご》が砕け、火が頭の向こうへ噴き抜けた。船縁《ふなべり》の外へ放り出すと、その下を別の影が泳いでいく。


 まだいる。下に潜られたら、ここからじゃ届かねえ。


「リュカ! 船の横へ出た奴を狙え!」


 頭上から矢が走った。水面へ顔を出した裂潮猿《タイド・エイプ》の目へ突き立ち、黒い頭が沈む。すぐに次の矢が放たれた。


 反対側では、アーヴィンが槍《やり》を引き戻していた。


「雷槍《サンダーランス》!」


 穂先に集まった雷が、跳び上がった魔物を貫く。隣の一頭が怯《ひる》んだところへ、イリスの杖《つえ》が向いた。


「火炎矢《ファイア・ボルト》!」


 船へ触れる前に、二つの身体が水へ落ちた。


「次、こっちよ!」


 イリスの声にアーヴィンが向きを変える。その背後では、船員が帆を畳《たた》む綱を引き続けていた。


 甲板《かんぱん》へ上がってきた魔物は、押し返せている。


 なのに、船は傾き始めていた。


 足元を転がる桶《おけ》を蹴り止めたところへ、船倉からオスカーが叫んだ。


「こっちは塞いだ! でも、奥でも割れてる!」


 階段の入口から見える水が、揺れに合わせて跳ねた。板へ押し当てられた鉄の留め具が、オスカーの指の下で曲がっている。隣の船員が木槌《きづち》を振るう間にも、奥から水を掻《か》く音が近づいてきた。


「下の者を上げろ! 小舟を降ろす!」


 船長の声に、ダリウスが船尾《せんび》へ走った。襲いかかる腕を剣で払い、救命艇《きゅうめいてい》を吊《つ》るした綱の前へ立つ。


「負傷者から移せ! アーヴィン、乗り移る者の背を守れ!」


 その先で、小舟が大きく揺れた。


 水中から長い腕が掛かっている。下ろしかけた船員が綱を止めたところへ、もう一頭が舷側《げんそく》を登ってきた。


「邪魔だな」


 ヴァレクが左手を開いた。


「グラウム。引き剥《は》がすよ」


 黒い輪が、彼の周りへ幾重にも浮かんだ。その中央に、人の倍ほどもある黒鉄色の巨体が立ち上がる。膝《ひざ》へ届く長い腕が持ち上がり、顔の奥で白い二つの光が開いた。


「精霊……?」


 綱を持つ船員の声が裏返った。隣の男は巨体を見上げたまま一歩退き、倒れた桶につまずきかける。


「あんた、契約者だったのか……!」


 ヴァレクは海へ目を向けたまま、指を曲げた。


「引掌《グラビティ・グラスプ》」


 小舟にしがみついていた魔物が、水ごと引き上げられた。船腹を掻いていた二頭も続く。宙を泳ぐ長い腕が何もつかめないうちに、三つの身体がヴァレクの前へ引き寄せられた。


 巨体の指が、下を向く。


「黒枷《ブラック・バインド》」


 魔物が甲板へ伏せた。もがく腕へ黒い輪が沈み、爪を立てることさえできなくなる。ヴァレクは歩み寄り、一頭ずつ首へ剣を突き立てた。


「もう降ろせるよ。早くして」


 船員が我に返り、綱を送った。波に浮いた小舟へ、ダリウスが最初の負傷者を渡す。


「一番艇、離れろ! 泡の帯から離れるんだ!」


 船長が腕を振った。乗り込んだ生徒が櫂《かい》を取り、船員と声を合わせて漕《こ》ぎ始める。船の下から追ってきた魔物へ、アーヴィンが雷を落とした。


 小舟が離れていく。飛び散る水の向こうで、生徒の一人がこちらへ手を振った。ひとまず、あいつらは船から離せた。


「二番艇を寄せろ! 残っているのは何人だ!」


 船員が名前を呼びながら甲板を走った。下から返事がある。


 マシュウは船倉へ顔を向けた。


「オスカー、戻れ! 船を離れるぞ!」


「あと一人、脚が挟まってる!」


 返事とともに、水の跳ねる音がした。マシュウが階段へ踏み出すと、レティシアも隣へ来た。


「私も行く。水を押さえるわ」


 船倉の水は、もう膝まであった。


 倒れた荷箱と梁《はり》の間に、船員の脚が挟まっている。オスカーが肩を支えていたが、船が揺れるたび、男の口から短い悲鳴が漏れた。


 マシュウは梁の下へ腕を差し込んだ。


「上げるぞ。オスカー、そいつを引いてくれ」


 腰を落とし、両脚へ力を込めた。梁が持ち上がる。脚が抜けた瞬間、船腹の板が内側へ弾け、水が胸へぶつかってきた。


「蒼鞭《アズール・ウィップ》!」


 レティシアの声が響いた。押し寄せた水に細い渦が食い込み、裂け目の外へ押し返す。その脇から入った流れが、マシュウの腰を叩《たた》いた。


「今のうちに!」


 オスカーが船員を担ぎ、階段へ向かった。マシュウも梁を横へ下ろし、レティシアの背へ手を添える。


「お前も上がれ。俺が後ろにつく」


 最後の段を踏んだ途端、足場が横へ滑った。


 船尾で、何かが激しく跳ねる音がした。舵《かじ》を握っていた男が腕を振られ、壁へ肩をぶつける。


「舵が利かない!」


 海面に、大きな木片が浮いていた。その端へ爪を掛けた魔物が、欠片《かけら》ごと波の下へ消える。


 船首《せんしゅ》が、泡の帯へ向き始めた。


 帆は畳まれている。それでも、船は速くなった。さっきまで横に見えていた島が後ろへ流れ、船腹へ当たる波が、白い壁のように立ち上がる。


「残っている者も乗り移れ!」


 船長が叫んだ。オスカーが運んできた男を、ダリウスが小舟へ降ろす。イリスは先に乗り込み、差し出される手を引いた。


 次に移ったオスカーが、艇の縁を両手で押さえる。揺れる二隻の隙間を見下ろし、マシュウへ顔を向けた。


「急いでくれ! 残ってるのは、もう君たちだけだ!」


 マシュウは頷いた。船首寄りの階段から小舟までは、倒れた荷箱が道を塞いでいる。レティシアと並んでそれを越える間も、船尾に残ったヴァレクが魔物を近づけまいと剣を振るっていた。


 リュカも高い甲板から下りてきた。矢筒《やづつ》を背へ回し、小舟を結ぶ綱をつかんでいる。


「マシュウ、レティシア! こっちだ!」


「今行く!」


 返事をした瞬間、船首が沈んだ。


 横殴りの波が甲板を越えた。マシュウはレティシアの腕をつかみ、帆柱《ほばしら》の根元へ身体を寄せる。水が引くと、足元にあった板の継ぎ目が、指を差し込めるほど開いていた。


 まずい。ここも割れる。


「跳ぶぞ。あの段まで――」


 前を指した手の下で、板が裂けた。


 船の前と後ろが、別々に持ち上がった。太い梁が折れ、帆柱が綱を引き千切って倒れてくる。


 隣のレティシアが、足場ごと遠ざかった。


 マシュウはつかんだ腕を引いた。身体を抱き寄せ、背中へ左腕を回す。彼女も外套《がいとう》を握り、ぶつかるほど近いところで顔を上げた。


「ネイレア!」


 青い光が、二人の前へ広がった。


 流れる髪を持つ精霊が腕を開く。海へ落ちるより早く、足元から水が巻き上がり、マシュウとレティシアを丸く包んだ。


 倒れた帆柱が、膜の上を滑った。内側まで水は入ってこない。それでも衝撃で身体が回り、マシュウは彼女を抱く腕へ力を込めた。


「マシュウくん!」


 ヴァレクの声が聞こえた。


 振り向くと、割れた船の後ろ側で、彼が手を伸ばしていた。傍《かたわ》らのグラウムも、長い腕をこちらへ向けている。


 いつもの笑みが消えていた。傾く足場へ膝をつき、船縁から落ちそうなほど身を乗り出している。


「こっちを見て! 僕が引き上げる!」


「引掌《グラビティ・グラスプ》!」


 身体が引かれた。水の膜ごと、流れに逆らって持ち上がる。リュカが綱を投げた。マシュウは右手を伸ばし、こちらへ飛んでくる先端を追った。指先に合わせて、膜の一部が開く。


 届く。


 そう思った目の前へ、折れた船体が横倒しになった。


 船の腹が海を打ち、波が二人を覆った。綱も、伸ばされたヴァレクの手も見えなくなる。マシュウの右手は、何もつかめないまま引き戻された。


「離すなよ!」


 自分でも、誰へ叫んだのかわからなかった。


 レティシアの指が外套へ食い込んだ。すぐ外でネイレアが手を広げ、水の膜へ突き刺さりかけた木片を逸《そ》らす。


 空が遠ざかった。


 マシュウは脚を伸ばした。蹴れるものが欲しかった。船の欠片でも、岩でもいい。けれど、水の向こうを通り過ぎるものには、指さえ届かなかった。


 耳の奥が痛んだ。白い泡が膜を包み、頭も足もわからなくなる。レティシアを離さないように抱き直すと、肩口で彼女が息を吸った。


 息は、できている。


「レティシア、俺を見ろ」


 彼女が顔を上げた。唇は震えていたが、杖を握る手を胸へ引き寄せ、頷《うなず》いた。


「ネイレア、上へ……!」


 精霊が両腕を突き出した。流れが押し分けられ、遠い水面に日が光る。だが、戻りかけた身体を横から叩く力のほうが強かった。光が視界の端へ飛んでいく。


 レティシアが歯を食いしばった。杖を持つ指が白くなっている。その頬に浮いた汗が、膜から落ちる水滴と混じった。


「膜を守ってくれ。俺も手を掛けられる場所を探す!」


 返事を待ちながら、マシュウは流れの先を睨《にら》んだ。


 泡の向こうに、暗い岩壁が見えた。


 左右から迫り、頭上へも重なっていく。海底の裂け目へ入ったのだと気づいたときには、空の光は細い線になっていた。


 膜が大きく歪《ゆが》み、背中へ衝撃が来た。抱えた身体を胸へ引きつける。視界の端で、ネイレアの青い腕が岩を押し返した。


 激しく回る水を、もう目で追えなかった。レティシアの手を探し、握る。握り返された指を確かめたあと、意識が途切れた。

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