第75話 波間の爪
港は、声と匂いで溢れていた。
魚を焼く煙の向こうから、香辛料の鼻をくすぐる匂いが流れてくる。肩幅の広い魔族の荷運び人が樽を担ぎ、その前を、小さな荷車を引いた少年が走っていった。
「道の真ん中で止まるな。荷物は前へ抱えろ」
ダリウスに促され、マシュウは背負い袋を胸へ回した。レティシアも杖を身体へ寄せ、通り過ぎる荷車を避ける。
桟橋の手前には、船の到着に合わせた露店が出ていた。短い待ち時間をもらった途端、生徒たちの目が左右へ散った。
「マシュウ、これ見ろよ」
アーヴィンに呼ばれ、武具を並べた台へ寄った。彼が持っていたのは、槍の穂先だった。根元の金具が、自分の使っているものとは違うと言う。
「ノルヴァントの鍛冶場の品だよ」
店主が教えた。
「北の砦へ運ぶ残りを、こっちへ回してもらった。軸を替えて長く使うんだと」
「ヴァルガントの連中も、こういうのを使ってるのか」
アーヴィンが穂先を返した。試してもいない物へ金を出すつもりはないらしいが、目はまだ金具を追っている。
「会ってみてえな。あそこの騎士魔法学園、槍を並べたまま魔法を撃ってくるって聞いたぞ」
「近づいたら、一人ずつ相手してくれるわけじゃなさそうだな」
マシュウも金具へ目を向けた。北の雪の中で、これを握って戦っている誰かがいる。今まで地図の端にしかなかった国が、急に近く感じられた。
隣の店では、イリスが青い小壺を裏返していた。
「これ、ザルディアの焼き物?」
「そうだよ。南の工房から船で来た」
「うちのより薄い。……でも、口のところは厚くしてあるんだ」
光へ透かし、爪で縁を軽く弾く。値段を聞いてすぐ顔をしかめたが、元の場所へ戻す手は丁寧だった。
オスカーがその横で、木箱に押された印を見ていた。
「リヴェルナの商会が運んだんだね。向こうの市場なら、もっと種類があるかもしれない」
「じゃあ、今日は我慢する。帰りに、まだ欲しかったら買うわ」
「帰りまで残しておこうか?」
「それ言われると、迷うじゃない!」
店主とイリスが笑った。
マシュウは、焼き魚を挟んだパンを一つ買った。熱い包みを持ち替えていると、ヴァレクが横から覗き込む。
「僕の分は?」
「自分で買え」
「半分にしてもいいよ」
「俺は一つ食うんだよ」
言いながらかじると、塩と油が舌に広がった。思わずもう一口食べたので、ヴァレクも笑って店主へ代金を渡した。
ここは、まだアステリア王国の港だ。それなのに、北の武器も、南の焼き物も、知らない味も集まっている。
海の向こうの市場には、何があるのだろう。
「乗船するぞ!」
ダリウスの声に、マシュウは包みの端を折った。残りを急いで口へ入れると、レティシアが肩を揺らして笑った。
「誰も取り上げないわよ」
「船から落としたら、流れてっちまうからな」
「それは、そうだけれど」
ネラに同じことを話したら、どんな顔をするだろう。マシュウは笑いながら手を拭き、桟橋へ向かった。
*
船員が差し出した手へ、順番に荷を渡した。
板の通路を渡ると、靴の下がゆっくり持ち上がった。陸とは違う揺れに、イリスが小さく声を上げる。マシュウは膝を緩め、空いている側へ寄った。
「この綱の内側は、帆を動かすとき人が入る。荷を置かないでくれ。下の寝床も案内するから、先に顔を覚えさせてくれよ」
日に焼けた船員の声に、生徒たちが集まった。ダリウスが人数を確かめる横で、船の側面に吊られた小舟や、救助用の浮き輪の場所も教えられる。
荷を収めて甲板へ戻ると、帆が上がり始めていた。
何人もの船員が声を合わせ、綱を引く。畳まれていた白い布が広がり、風を受けて大きく膨らんだ。
「動いた……」
リュカが手摺を握った。
桟橋との間に、細い水面が生まれていた。それが少しずつ広がり、荷車を押す人も、さっきの店の屋根も、並んでいた帆柱の向こうへ隠れていく。
「地図、描かなくていいのか?」
マシュウが聞くと、リュカは首を振った。
「今は、見てたい」
「そうだな」
二人で港を眺めた。後ろではイリスが、もう地面が揺れない場所へ行きたい、と言ってオスカーに笑われている。レティシアは風にほどけた髪を押さえ、これから進む海の方へ顔を向けていた。
「向こうに着いたら、実技場を先に見せてもらいたいわね」
「市場より先?」
ヴァレクが尋ねると、彼女は迷わず頷いた。
「足場を動かす仕組みも見たいもの」
「じゃあ、俺も行く」
マシュウが言うと、レティシアは笑った。
「近づく前に落とされても、文句は言わないでね」
「そっちこそ。足場、空けとけよ」
波が船首で砕け、細かな飛沫が頬へ届いた。
マシュウは袖で拭い、手摺へ身を寄せた。港の外へ出た船の前には、陽に光る海が広がっている。まだ見えないリヴェルナの岸を探しながら、隣のリュカと、教室で見たあの島の形を話し始めた。
*
陸の家並みが見えなくなった頃、リュカがマシュウの袖を引いた。
「あれだ。先が二つに割れてる」
海の上に、低い岩山が浮かんでいた。右側に大きな窪みがあり、その先だけが細く尖っている。地図帳にあった線とそっくりだった。
「あの島、名前は?」
近くの船員へ尋ねると、男は綱を束ねながら顔を上げた。
「二本角だよ。見たまんまだろ」
「ああ、ほんとに……」
リュカが笑い、地図帳へ名前を書き込んだ。古い線のすぐ下に、小さな文字が収まる。風にめくれかけた頁をマシュウが押さえると、彼は、ありがと、と短く言った。
「これ、爺ちゃんに見せられる」
「名前、知らなかったんだもんな」
「うん。でも、それより。俺も、同じところを通ったんだなって」
リュカはもう一度、岩山へ目を向けた。マシュウも隣で眺めた。波が山裾へぶつかり、遠くで白く散っている。
その白い筋を追っていた船員が、綱を束ねる手を止めた。
「……おい。あそこの潮、見ろ」
海面に、長い泡の帯が伸びていた。
船の前を横切り、島から沖へ流れている。帯へ入った流木が、くるりと向きを変えた。そのまま、こちらが思っていたよりずっと速く、小さくなっていく。
見張り台からも声が上がった。
「前方、流れが変わってる!」
「帆を絞れ! あの筋へ入るな、左へ回せ!」
船尾から、船長の声が飛んだ。船員たちが持ち場へ走る。リュカは地図帳を閉じ、革の袋へ押し込んだ。マシュウも手摺から離れ、綱を引く男へ道を空ける。
そのとき、船の横で水が跳ねた。
波とは違う。黒いものが一度浮き、すぐ潜った。マシュウが目で追うと、その少し先でも、同じ色が水を切った。
魚にしては、腕が長い。
見覚えのある肩の張り方に、背中の皮膚が粟立った。
「裂潮猿だ! 船縁から離れろ!」
叫ぶのと、爪が手摺へ掛かるのが同時だった。
青黒い毛から水を滴らせ、猿に似た魔物が這い上がってくる。人間ほどの胴体に、不釣り合いな長い腕。水掻きの張った指が木へ食い込み、赤い口が開いた。
そばで綱を引いていた船員へ、腕が伸びる。
マシュウは男の襟をつかんで引き寄せた。すぐ目の前を爪が通り、宙を掻く。魔物がこちらへ顔を向けたときには、左の掌をその顎へ向けていた。
「火炎矢!」
炎が口を貫き、空へ抜けた。魔物の身体がのけぞる。マシュウは胸を蹴り、船の外へ叩き落とした。
水音が上がった向こうに、まだ頭が見えた。
一つではない。波の間から現れた幾つもの顔が、船へ向かって泳いでくる。
「各自、近くの者と組め! 船員を守れ!」
ダリウスが剣を抜いた。マシュウに引かれた男は息を詰めていたが、肩を叩かれると頷き、綱へ戻っていく。
反対側から悲鳴が上がった。
振り向くと、若い船員の腕へ長い指が絡んでいた。踵が浮き、身体が手摺へ引きつけられる。
「引掌」
男の身体が、甲板の内側にいるヴァレクへ引き寄せられた。離さずしがみついていた魔物も、船縁を越えて転がり込む。
そこへヴァレクの剣が落ちた。
指が開き、船員の腕が自由になる。ヴァレクは倒れた魔物を靴で押さえ、刃を抜きながら顔を上げた。
「マシュウくん。こっちは僕がやる」
「頼む! リュカ、上から見てくれ!」
「わかった!」
リュカが階段を駆け上がり、後部の高い甲板へ向かった。マシュウは伸びてきた腕を外へ払い、肘の下へ拳を叩き込む。折れた腕を庇って傾いた魔物の横から、もう一頭が跳んだ。
「蒼鞭!」
水の鞭が、その胴を横から打ち抜いた。
飛んできた身体が手摺の外へ消える。隣へ来たレティシアは杖を返し、次に上がってきた頭へ、水の先端を向けた。
「右からも来るわ!」
「見えてる。そっちの綱を守ってくれ!」
甲板を蹴った瞬間、靴の下で硬い音がした。
マシュウは足を止めず、次の一頭の顎を拳で打ち上げた。だが、倒れる身体の向こうから、もう一度、同じ音が響いた。
今度は、足の裏へ振動まで伝わってきた。
「マシュウ!」
上からリュカが叫んだ。
「潜ってる奴がいる! 船の下へ回ってる!」
木が裂ける音は、甲板の下から聞こえた。




