第74話 海の向こうの学園
「六日後、リヴェルナ王国へ向けて出発する」
ダリウスが地図を広げたとき、マシュウはまだ、次の実習場所の話だと思っていた。
ところが、指が辿った先には青い海があった。自分たちのいるアステリア王国から街道を西へ進み、海岸を離れ、幾つもの島を越えていく。
「王立アルマリス魔法学園との合同訓練だ。今回、渡航するのはAクラス。私が引率する」
「えっ。海を渡るんですか?」
イリスの声に、教室のあちこちから同じ言葉が重なった。
「向こうへ行くの?」「何日くらい?」「船に乗れるってことか?」
リュカが椅子を引いた。その脚が床を鳴らしても気づかず、机へ身を乗り出している。レティシアも、開いていた教本を閉じていた。
「順に話す。地図が見えない者は、前へ来ていい」
言い終える前に、何人も立ち上がった。マシュウも鞄から筆を取り出し、リュカと一緒に教卓へ寄る。
リヴェルナ王国の海岸には、湾に沿って幾つもの港の印が並んでいた。沖にも島が連なり、その間を細い航路が結んでいる。
「訓練では、向こうの生徒と班を組む。水辺での護送や救助、足場の変わる場所での戦闘が中心になる」
「足場が変わるって、船ですか?」
マシュウが尋ねると、ダリウスは頷いた。
「船も使う。アルマリスには、水上に浮かべた足場を組み替えられる実技場があるそうだ」
「へえ。それ、面白そうだな」
口に出すと、隣からレティシアが地図を覗き込んできた。
「水に囲まれているなら、試したいことがあるわ」
「足場ごとひっくり返すとか?」
「そんな大雑把なことはしないわよ。相手が乗り移る瞬間に、少し傾けるだけでも違うでしょう」
彼女は二本の指を机へ立て、一方をずらした。マシュウはその指の間を、自分の指で軽く叩く。
「だったら、傾く前にそっちへ渡る」
「その一歩を待っていたら?」
顔を見合わせ、二人とも笑った。まだ見てもいない実技場で、早くも一度、勝負をしたような気分になった。
「先生、向こうの街も歩けますか」
オスカーの質問に、皆の顔が上がった。
「決められた時間内ならな。訓練の合間に見学の時間も設ける」
「よかった。港の市場、見てみたかったんです」
「僕も行くよ」
ヴァレクが、マシュウの肩越しに口を挟んだ。
「君、どこへ行くつもり? マシュウくん」
「今、聞いたばっかりだろ」
「じゃあ、一緒に探そう。リヴェルナなら、船乗り向けの剣もありそうだ」
「お前、買い物のたびに俺を連れていく気か」
「嫌なら、君の行きたい店からでいいよ」
離れる気はないらしい。マシュウが呆れていると、リュカの指が地図の沖合で止まった。
「この小さい島、船から見えますか」
「天気と航路による。何かあるのか?」
「爺ちゃんの地図には、形だけで名前がないんです。遠くから見たけど、寄れなかったって」
リュカは持ってきた地図帳を開いた。古い筆跡の脇に、小さく島の輪郭が描かれている。こちらの地図と向きを合わせ、二つの線を何度も見比べた。
「同じ島か、船から確かめたいんです」
「甲板から見える範囲でなら構わん。描くのに夢中になって、作業の邪魔はするなよ」
「はい!」
返事がよく響いた。隣の生徒に笑われても、リュカは地図帳を閉じなかった。
マシュウも、青く塗られた海を見た。
百年前にも、船の上で夜を明かしたことはある。揺れる寝床も、濡れた綱の臭いも覚えていた。けれど、その頃に聞いた港の名は、目の前の地図では見つからない。
どんな街になっているのだろう。荷を運ぶ人や、そこで戦う冒険者は、どんな魔法を使うのだろう。
「マシュウ。通る街道はそっちじゃないぞ」
ダリウスに言われ、顔を上げた。
「わかってる。帰ったら、こっちも行けるかと思って」
「まずは今回の旅程を写せ」
教卓の周りで笑いが起きた。マシュウも笑って、手元の紙へ出発の日付を書き込んだ。
*
放課後、拳を受けた一枚目の土壁が崩れた。
破片が奥の壁へ当たり、細かな土が落ちる。マシュウは腕を引き、二枚目に走ったひびを確かめた。
「こっちは残ったな」
「前より少し間を空けた。押し込まれる前に、最初の壁が崩れてくれればいい」
フェリクスは杖を支えに近づき、ひびの長さを見た。エリオもしゃがんで、横から壁の厚みを覗く。
「次、僕も相手をしていい? マシュウと違うところから打ってみたい」
「構わん。ただ、その前に一度休ませろ」
フェリクスが縁石へ腰を下ろすと、ネラが水筒を渡した。マシュウも隣へ座り、拳についた土を払った。
「六日後だって。外国へ行くの」
ネラが言った。昼のうちに話が広まっていたらしい。
「いいなあ。私も海、見たい」
「リヴェルナなら、向こうで船に乗って街を回ることもあるらしいよ。本で読んだんだ」
エリオは壁から戻ると、空いた場所へ腰を下ろした。
「道の代わりに水路を使うところがあって、家の前に船をつけるんだって」
「買い物のたびに漕ぐのか。パンを買うのも大変だな」
「君は食べ物から離れられないのか」
フェリクスが言ったが、ネラは真剣な顔で頷いた。
「でも、買ったパンを落としたら流れてっちゃうね」
「落とさなければいいだろう」
エリオが笑った。マシュウは土のついた手を拭きながら、向こうで見てきてやるよ、と答えた。
「本も、どんなものが売っていたか教えてほしいな。セラフィス王国の古い物語とか、港なら入ってくるかもしれない」
「あの、東の森の国か」
「そう。リュミエールの書庫に残っている話が、ほかの国でも写されているんだって。同じ話でも、結末が違ったりするらしいよ」
「帰ってきたら聞かせてくれ。どちらが元の話なのか、気になる」
フェリクスまで加わったので、マシュウは笑った。
「二人とも、俺に覚えて帰れって言うのか。本を探す方が早いだろ」
「高かったら買わなくていいよ。題名だけでも」
エリオの声は、いつもより弾んでいた。ネラはその横で、指先を使って膝の砂を払っている。
「次の休日は、まだ戻ってないよね」
「ああ。塔は、帰ってからになるな」
「私、当番を替わってもらえそうだったんだけどなあ」
残念そうな声に、マシュウは拭いていた手を止めた。昨日、予定を調べると言っていたばかりだった。
「悪い。帰ったら、先にお前の休みを聞く。それから、次の依頼を決めるよ」
ネラの指が止まった。
「……先に?」
「また重なったら困るだろ。塔も、坂の店も、俺から誘ったんだから」
「塔は私。店はあんた」
「そうだったな」
ネラが笑った。握っていた水筒の紐を伸ばし、結び目を直してから顔を上げる。
「じゃあ、帰ってきて最初に二人とも空いてる日。今度は、ちゃんと空けておいてね」
「おう。夕方には腹を減らしとけよ」
「昼は普通に食べろって、昨日言ったくせに」
エリオがこちらを見て笑いかけ、フェリクスにつつかれて壁の方を向いた。
「そろそろ続けるぞ。今度は、崩した土を戻すところまで手伝ってくれ」
マシュウも立ち上がった。ネラが先に壁の向こうへ回り、エリオへ、こっちからだと端が見えるよ、と声をかける。
出発までに、もう何度か四人で集まれそうだった。
*
六日後の朝、王立アークレスト魔法学園の門前には、荷馬車と客用の馬車が並んでいた。
マシュウは新しい茶色の靴で石畳を踏み、荷を肩へ担いだ。外套の下には動きやすい旅の服を着ている。周りの生徒たちも、剣や杖、手入れした防具を身につけていた。
「私、船からの景色も聞きたいからね」
見送りに来たネラが、馬車の踏み段の前へ立っていた。エリオは隣で頷き、フェリクスは門の柱に寄りかかっている。
「ああ。帰ったら、飯を食いながら話す」
「その前に手を洗えよ。昨日も土をつけたままパンを持とうとしていただろう」
「覚えてるって。お前も、俺が帰るまでに壁を分厚くしすぎるなよ」
「どうだろうな」
フェリクスが口の端を上げた。エリオも、今度はちゃんと崩してみせるよ、と笑う。
荷を積み終えた御者が、客車へ乗るよう呼びかけた。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
ネラが手を振った。マシュウは車窓からもう一度振り返し、門が見えなくなるまで、その手を上げていた。
街道では、同じ車内の誰かが少し居眠りをするたび、別の誰かが窓の外を指した。大きな風車、馬の数より荷の多い隊商、川の上に何軒も店の並ぶ橋。リュカの地図帳を覗き込んでいるうちに、マシュウも何度か、曲がる道を見落としかけた。
宿で一夜を過ごし、翌日の昼前、窓から入ってくる風の匂いが変わった。
「あれ、帆柱じゃない?」
イリスが腰を浮かせた。坂の向こうに、細い柱が何本も並んでいる。馬車が高い倉庫の脇を抜けた途端、その奥に海が開けた。
陽を受けた波が、白く砕けていた。
リュカが息を呑んだ。片手に持っていた筆を鞄へ戻し、しばらく何も書かずに窓の外を見つめている。
マシュウも身を寄せた。幾つもの帆が風を受け、沖へ向かっていく。船が小さくなる先にも、海はまだ続いていた。




