第73話 次も、二人で
隠さなくていいから、見せなさいよ」
教室へ入るなり、イリスに呼び止められた。
マシュウは鞄を机へ下ろし、胸元からプレートを引き出した。窓の光を受けた四つの星へ、周りにいた生徒たちの目が集まる。イリスは身を乗り出し、触れていいかと指先で尋ねてから、その縁を持ち上げた。
「……本当に、取ってきたんだ」
「昨日、もらった」
「知ってる。あんたたち、朝から顔に書いてあるもの」
隣のリュカが、自分の頬へ手をやった。イリスに笑われ、三つ星のプレートを制服の内側へ戻しかける。
「そっちも見せて。せっかくなんだから」
言われると、リュカは照れた顔で手を開いた。向こうの机ではレティシアも囲まれている。四つの星を見せながら、どうやって黒刃蟷螂の鎌を押さえたか、杖を持つ手まで使って話していた。
イリスはプレートを返すと、マシュウをまっすぐ見た。
「おめでとう。今度は、合格したから言うわ」
「ああ。ありがとな」
ちゃんと覚えていたのかと思うと、少しくすぐったかった。マシュウが星へ指を添えたところへ、オスカーも椅子を寄せてきた。
「道も開けたんだって? 今朝、市場の人たちが喜んでたよ」
「帰りには、もう荷馬車が通ってた。お前らの隊商はどうだった?」
「着いたよ。途中で車輪の留め金が割れて、そこだけ大変だったけど」
オスカーは指で輪を作り、もう片方の指をそこへ通した。
「予備が合わなくてさ。僕の魔法で形を直して使ったんだ。町まで保ったから、修理代まで払ってもらえた」
「修理だけじゃないでしょ。雨の中で車輪を持ってたあたしのことも、ちゃんと話して」
「話す前に、自分で言ったじゃないか」
イリスが彼の肩を叩き、近くの生徒が笑った。マシュウも笑いながら、自分たちが岩の柱を運んだ話をした。鎌を折ったときより、そのあとの方が泥まみれになったと言うと、レティシアまで振り返った。
「あなたが砕いた岩が、いちばん大きかったのよ」
「あれはお前の方へ倒れてたんだろ」
「だから、水で砂を流すところまで手伝ったじゃない」
言い合う横で、ヴァレクが足を伸ばした。
「僕の靴も、見てもらおうかな」
「それ、制服用だろ。切れたのは別の方だ」
「よく覚えてるね。じゃあ、放課後に」
「夕方には戻るぞ。ネラと練習するからな」
「わかった。先に選んでおくよ」
「俺のは俺が選ぶ」
ヴァレクはもう、自分の席へ歩いていた。返事の代わりにひらひらと振られた手を見ていると、扉から入ってきたダリウスと目が合った。
「話の続きは休み時間にしろ。四つ星でも、課題の提出期限は変わらんぞ」
「まだ何も言ってねえって」
「先に言っておいた」
机を戻す音が重なった。マシュウも鞄を開き、旅へ出る前に終わらせておいた用紙を取り出す。
隣ではリュカが、一通の封筒を教本の間へしまっていた。宛名の下に、小さな星が三つ描いてある。
「爺ちゃんへの手紙、できたか」
「ああ。昼に預けてくる」
リュカは封筒の角を丁寧に押さえた。
「読んだら、また村中に話すんだろうな」
困ったような言い方のくせに、その顔は笑っていた。
*
昼の食堂で、エリオが窓際から手を振った。
その向かいにはフェリクスがおり、椅子の脇へ杖を立てかけていた。マシュウが盆を置くと、隣のネラが、空けておいた椅子を足で少し引く。
「遅かったね。フェリクス、さっきから入口ばっかり見てたよ」
「君もだろう。……座れ。冷めるぞ」
マシュウは笑って腰を下ろした。フェリクスの視線が胸元へ落ちたので、プレートを外して卓へ置く。
エリオが、そっと手を伸ばした。
「本当に、四つある」
「数え直しても減らねえよ」
「わかってる。ちょっと、見ていたかっただけ」
エリオは星を指で辿り、隣へ渡した。フェリクスは紐を持ち上げ、傷のない表面を光に向ける。
「おめでとう。随分、先へ行くな」
声が少し低くなった。けれど、目を上げたときには、いつものように眉が上がっていた。
「私が追いつくまで、それをなくすなよ」
「お前が追いつく頃には、もう一つ増えてるかもしれねえぞ」
「そういうことは、取ってから言え」
ネラが笑いながらプレートを受け取った。両手に載せて眺めるその横で、エリオが何か言いかけ、匙を持ち直す。
「どうした?」
「僕も、一つ話していい?」
「何だよ。話せばいいだろ」
「昨日の実技で、一回、勝てたんだ」
マシュウは口へ運びかけた肉を皿へ戻した。
「本当か!」
思ったより声が出た。エリオは驚いてから、照れたように頷いた。
「ずっと勝てなかった相手で。昨日は、踏み込んでくるところを横へ抜けられたんだ。杖を引き戻される前につかんだら、手から外れて……」
「すげえじゃねえか。俺も見たかったな」
「僕も、終わったときはびっくりしてた」
エリオが笑った。いつもマシュウの帰りを迎えてくれるときより、少し誇らしげな顔だった。
「もう一回やったら負けたけどね。でも、一回はできた」
「昨日から三度目だ。その話を聞くのは」
フェリクスがパンを割った。
「言いすぎた?」
「違う。言うたびに、最後の負けた話を付け足す必要はないと言っている」
エリオが口を閉じ、それから、嬉しそうに笑った。
「うん。じゃあ、そこはやめる」
ネラがプレートをマシュウへ返した。その指が離れる前に、フェリクスが卓の脇から薄い教本を取り出す。
「君に頼みたいこともある。次に練習するとき、私の土壁を打ってみてくれ」
「新しく作ったのか?」
「薄い壁を二枚、少し離して出す練習をしている。一枚目が割れたあとの力を、二枚目でどれだけ受けられるか知りたい」
「私の風では、試したよ。でも、拳だと違うでしょ」
ネラが言い添えた。開かれた頁の端には、元の図と違う位置に、何本もの線が書き足されている。
マシュウは、自分の右手を見た。
「じゃあ、弱いところから順に強くするか」
「そうしてくれ。最初から全部壊されては、比べられん」
「壊したあと、また作ればいいだろ」
「何枚出させるつもりだ!」
エリオが吹き出し、ネラも口元を押さえた。フェリクスは教本を閉じようとして、パン屑が挟まっているのに気づく。誰だ、と睨まれる前に、エリオが笑いながら指で払った。
マシュウは冷めかけた肉を口へ入れた。話したいことは、まだ半分も話せていなかった。けれど、先にもう一つ、エリオへ尋ねた。
「その相手、次はどう来ると思う?」
エリオが匙を置き、身を乗り出した。
*
放課後、靴屋の主人は、持ち込まれた二足を見比べた。
底の擦り減ったマシュウの靴と、爪先に切れ目のあるヴァレクの靴。主人は切れた革へ指を入れかけ、途中でやめた。
「中の足は、残ってるんだろうな」
「あるよ。少し風が入るようになっただけ」
「買い替えに来た客で、いちばん呑気な返事だよ」
主人が棚へ向かうと、ヴァレクもついていった。マシュウは腰掛けへ座り、靴下についた細かな砂を払う。峡谷から持ち帰った赤い砂は、洗ったつもりでも縫い目に残っていた。
「マシュウくん、これ」
目の前に差し出されたのは、黒い革の長靴だった。金具がいくつもつき、磨かれた爪先に店の窓が映っている。
値札を見て、マシュウはヴァレクの顔を見た。
「俺は靴を買いに来たんだぞ」
「靴だよ」
「値段の話だ」
ヴァレクが笑う。棚へ戻しかけたところで、主人が横からその靴を取った。
「そいつは乗馬用だ。走り回るなら、こっちにしな」
代わりに渡された茶色の靴へ、マシュウは足を入れた。踵を収め、紐を締める。立ち上がると、今までより少し地面が遠く感じられた。底が減った分まで、身体が覚えていたらしい。
店の端まで歩き、つま先へ重みを移す。左足を引いて向きを変えたところで、足首の内側に硬い縁が当たった。
「そこ、気になるね」
ヴァレクが言った。マシュウが靴を見下ろすより先に、主人へ別の一足を頼んでいる。
「もう少し履き口の低いものは?」
「あるよ。よく見てるな」
「この人、近づいてくる足が速いから」
何でもない調子だった。マシュウは顔を上げたが、ヴァレクはもう別の棚を眺めていた。頬に残る火傷の跡が、窓からの光で浮かんで見える。
次の靴を履くと、さっき当たったところが楽になった。腰を落としても、踵が浮かない。これなら足元を気にせず踏み込めそうだった。
「これにする」
「もう決めたの? あっちの色もあるよ」
「同じ履き心地なら、これでいい。お前は?」
「まだ。君が選ぶの、面白かったから」
「俺に付き合ってる間に選べよ。夕方までだって言っただろ」
「じゃあ、急いで付き合って」
結局、ヴァレクが二足を履き比べる間、マシュウも隣に座ることになった。主人へ代金を渡す頃には、外の石畳へ斜めの光が差していた。
新しい靴で店を出る。ヴァレクは数歩先へ行き、振り返った。
「どう?」
「悪くない」
「じゃあ、また切れたら一緒に来よう」
「切れる前に来いよ」
言うと、ヴァレクは満足そうに笑った。
*
中庭へ着くと、ネラは一人で足運びを繰り返していた。
前へ二歩、斜めに一歩。そこで止まらず、踏み出した足を戻して向きを変える。マシュウに気づいたのは、もう一度同じ動きを終えてからだった。
「おかえり。新しい靴?」
「今日、買ってきた」
「いいな。私の、まだ買い替えるほど減ってないんだよね」
ネラは片足を上げ、裏を覗いた。そのまま片足で跳ねかけたので、マシュウは笑って手を差し出す。彼女はその手をつかんで足を下ろしてから、胸元へ目を向けた。
ネラはにっと笑い、二歩離れて両足を軽く開いた。
「じゃあ、四つ星に相手してもらおうかな」
「今日は俺から打ち返さねえ。肩へ触れにこい」
「触れたら?」
「お前の勝ち」
「言ったね」
ネラが地面を蹴った。
前より、踏み込みに迷いがなかった。伸びてきた手を外から払うと、彼女は引くより先に足を動かした。追って出したマシュウの指は、袖の端を掠めただけで空を切る。
お、止まらねえな。
すぐに向き直った。ネラが風を送ってくる。胸へ当たる流れを腕で散らすと、その横から彼女の手が伸びた。マシュウは肘を畳んで防ぎ、空いた手でその肩へ軽く触れた。
「惜しい。今の距離なら、もう半歩だ」
「わかってる。届くと思ったんだけどなあ」
ネラは肩を回してから、同じ位置へ戻った。二度目は踏み込みすぎて腕をつかまれ、三度目は風を出す前に間合いを詰められた。それでも、前のように足が絡んで転びかけることはない。
何度目かに、彼女の右手が上がった。
マシュウは、正面から来る風を待った。だが、胸に当たる流れはなかった。ネラが脇へ回り、追って伸ばした手の袖口だけが、急に膨らむ。
風を細くしたのか。
腕を返す間に、ネラの手がその下を抜けた。マシュウが肩を引くのと、指先が制服を叩くのは、ほとんど同時だった。
「当たった!」
ネラが叫んだ。勢いのまま一歩先へ出てから、振り返る。
「今の、ちゃんと触ったよね?」
「ああ。やられた」
マシュウが肩を指すと、彼女は両手を握って笑った。息が上がり、頬も赤くなっている。額の汗を袖で拭い、同じ場所へ戻ってこようとしたので、今度はマシュウが手を上げた。
「一回、休もうぜ。今の風、塔で使ったやつか?」
「そう。大きく吹かせるより、どこを動かしたいか考えた方がいいかなって」
ネラは指先へ小さな風を集めた。足元の草が一束だけ揺れる。
「あのとき、マシュウが何回も違う音を頼むから、少しわかったんだよ」
「じゃあ、もっと頼めばよかったな」
「それじゃ、いつまでも塔から下りられないでしょ」
二人で笑い、木陰へ腰を下ろした。ネラが水筒を取りに行く間に、マシュウは新しい靴の紐を緩めた。足首に擦れたところはない。試すには、ちょうどいい練習になった。
*
「ねえ、次はいつ空いてる?」
水筒の栓を閉めながら、ネラが尋ねた。
「練習か? 明日も、授業のあとなら」
「それもやるけど。出かける方」
マシュウは紐を結ぶ手を止めた。
「風鳴り塔、夕方に行くって話したでしょ」
「ああ。行こうぜ。まだ次の依頼は決めてない」
「私も、休みの当番を確かめる。合う日にしよう」
ネラは膝を抱え、靴の爪先を並べた。
「……今度も、二人でね」
「おう」
答えると、彼女は口元を膝へ隠した。マシュウは自分の靴へ目を戻しかけ、もう一つ思いついて顔を上げた。
「塔の下に、煮込みを出してた店があったろ。帰り、あそこで飯にしないか」
「坂の途中の?」
「そう。前を通ったとき、うまそうだった」
「見てたんだ。私も、あそこ気になってた」
ネラが顔を上げた。今度は隠しきれないくらい、はっきり笑っている。
「夕方の塔と、煮込み。じゃあ、昼は食べすぎないようにする」
「昼は普通に食えよ」
「菓子店にも寄るかもしれないじゃない」
「寄るなら、俺は胡桃にする」
「私は梨。でも、あんたのも少し食べたい」
「この前、交換しないって言ったのは誰だよ」
ネラが肩をぶつけてきた。軽くぶつけ返すと、彼女はそのまま隣へ座り直した。
木の上で葉が鳴っていた。中庭を横切っていく生徒の話し声に、夕食の支度を知らせる鐘が重なる。そろそろ戻らなければと思ったが、マシュウはもう少しだけ、ここにいたかった。
「絵、どこに置いてる?」
ネラが聞いた。
「部屋の棚。立てかけてある」
「私も。朝、髪を直すときに見えるところ」
「あれ見て直すのか?」
「違うってば。鏡の隣なの」
笑った彼女の目が、すぐそばにあった。あの日も、帰り際にこうして見上げられた。頬に触れたものを思い出して、マシュウは急に靴紐の結び目が気になった。
もう結べている。それでも一度引っ張った。
「マシュウ?」
「何でもねえ。行くか。飯、なくなるぞ」
「せっかく勝ったんだから、もう少し褒めてくれてもいいのに」
「じゃあ、明日は二回、狙ってこい。二回褒める」
立ち上がって手を差し出すと、ネラは笑ってつかんだ。引き起こしたあとも、指が少しだけ残っていた。
「次に空いてる日、明日までに調べておくね」
「俺も確かめとく。夕方からだと短いし、少し早めに出ようぜ」
「うん。そうしよう」
食堂へ向かう道で、ネラはもう一度、坂の途中の店の話をした。窓際なら塔が見えるかもしれないと言うので、マシュウは早めに席を取ろうと答えた。
彼女がすぐ隣で、嬉しそうに頷いた。
店までの道はもう知っているのに、ネラと話していると、また歩くのが楽しみになった。




