第72話 逃げ道の先
水の鞭が、曲がり角の向こうで跳ねた。
切り裂かれた流れが、陽を弾いて散る。その向こうで赤い岩柱が傾くのを見て、マシュウは走る向きを変えた。
「レティシア、下がれ!」
彼女が杖を引き、岩陰へ身を寄せる。マシュウは倒れてくる柱へ踏み込み、腰を捻った。熱が右脚を駆け上がる。正面いっぱいに赤い岩が迫ったところで、足裏を叩きつけた。
「砕星!」
靴底の先で炎が爆ぜた。
岩柱が途中から砕け、上半分が道の脇へ跳ね飛ぶ。着地したマシュウの肩を、小石が叩いた。熱い砂埃の中へ顔を突っ込み、折り重なった岩を踏み越える。
黒い鎌が、胸の高さで待っていた。
腰を落とすと、頭上を刃が走った。髪が煽られる。屈んだところへ次の一本が突き込まれ、マシュウは掌を地面について横へ身体を投げた。
腹の下を、尖った先端が抜けた。
止まれねえな。
すぐに起き上がった。黒刃蟷螂は、まだ岩柱の間にいる。残った三本の鎌を別々の隙間から伸ばし、こちらへ向けていた。胴へ近づこうにも、邪魔な岩の向こうで刃の位置が見えない。
「ずいぶん狭いところが好きなんだね」
ヴァレクが隣へ出た。彼の剣が黒い刃を横へ払い、その間にマシュウは立ち位置を変える。追ってきた二本目が、今いた足場を削った。
「ここじゃ、あいつの方が動けるな」
「じゃあ、出てもらおうか」
頭上で、弦が鳴った。
矢が岩の隙間を抜け、魔物の眼に突き立つ。黒刃蟷螂が頭を振り、鎌を岩から引き抜いた。砕けた石が、ばらばらと降ってくる。
「奥、道が広がってる! あそこなら挟めるぞ!」
リュカは岩柱の上にいた。次の矢をつがえながら、隣の低い岩へ飛び移る。魔物の頭が、その動きを追った。
「リュカ、そっちへ行く!」
「見えてる!」
長い胴が跳ねた。
黒い刃が、少年の立っていた岩を斬り飛ばす。リュカはすでに飛び下りていた。斜面へ靴を滑らせ、片膝をついたまま弓を引く。
矢は、開きかけた顎の縁で弾かれた。
黒刃蟷螂が向きを変える。リュカは矢筒へ手を伸ばさず、立ち上がって走った。
「こっちだ!」
その声を追う魔物の後脚には、さっき受けた矢が残っていた。踏み込むたび、傷ついた側がわずかに遅れる。それでも一歩が大きい。リュカの背中との距離が、見る間に縮まっていく。
マシュウは岩を蹴った。柱の間を抜け、地面へ下りず、崩れた先端をもう一度踏む。
「火炎矢!」
空中から放った炎が、魔物の顔の前で炸裂した。
頭がこちらを向く。その一瞬に、リュカは岩の切れ目を抜けた。向こうには陽の当たる街道があり、荷馬車がすれ違えるほどの幅が開けていた。
黒刃蟷螂が、立ち止まった。
追うのをやめ、岩陰へ戻ろうとする。
「そっちは、もう通さないわ」
レティシアが杖を振った。
「蒼鞭!」
魔物の後ろで、水が跳ね上がった。岩柱を回り込んだ太い流れが胴を横から打ち、傷ついた脚を滑らせる。マシュウは着地と同時にその反対側へ回った。
逃げ込もうとした隙間に、ヴァレクがいた。
「もう少し、付き合ってよ」
黒い鎌が、彼へ振り下ろされた。
ヴァレクは刃の届く寸前で脇へ退いた。赤い岩が裂け、先端が地面へ食い込む。その上へ、両手で握った長剣が落ちた。
「重刃」
殻が潰れる音がした。
斬りつけたのは刃ではなく、その根元の細い関節だった。剣はそこで一度止まり、ヴァレクの肩が沈んだ直後、下の石まで斬り割った。
二本目の鎌が、胴から離れた。
魔物が跳ね退く。レティシアの水が背後から押し寄せ、黒い身体が、とうとう明るい街道へ転がり出た。
リュカが弓を構え直している。その前へマシュウが立つと、横にはヴァレクが並んだ。
「あと二本。今度は、どこへ逃げるのかな」
剣先を下げたまま、彼は魔物へ笑いかけた。
「マシュウくん、片方は僕がもらうよ」
「なら、俺は真ん中だ」
黒刃蟷螂が、残った鎌を大きく開いた。
*
砂が跳ね、長い身体が低く沈んだ。
来る。
マシュウは両足を開いた。大きく左右へ広がっていた刃が、身体ごとこちらへ突っ込んでくる。片方を避ければ、もう片方が首を刈る高さだった。
「黒枷」
ヴァレクが左手を下げた。
魔物の後脚が沈む。爪先の下で地面が割れ、突進が鈍った。それでも上半身は止まらず、二本の鎌が迫ってくる。
「蒼鞭!」
右の刃へ、水が絡んだ。流れは鎌の裏を回り、岩柱の根元へ巻きつく。張り詰めた水の帯が軋むような音を立て、レティシアの靴が砂を擦った。
マシュウは、その内側へ踏み込んだ。
左から黒い刃が走る。熱を纏わせた拳を短く打ち込み、刃の腹を外へ弾いた。拳の骨へ硬い感触が突き抜けたが、腕は振られなかった。
届く。
胴へ右拳を引いたとき、目の前で顎が開いた。
暗い口の奥まで見えた。顔が近い。火を撃つより先に、マシュウは首を横へ捻った。牙が耳元を掠め、噛み合う音が鼓膜を叩く。
拳を入れる間が、消えた。
伸び切った首へ肘を当て、押し返しながら一歩退く。水の帯を振り払おうとする鎌が、すぐ背後を薙いだ。
「まだ、離さないわよ!」
レティシアの声に、水が太く膨らんだ。鎌が外へ引き戻される。頬へ当たった飛沫の冷たさに、マシュウは浅く息を吸った。
こいつ、拳へ合わせて噛んでくる。
目の前で、黒刃蟷螂が顎を開き直した。狭い隙間へ突っ込んださっきと同じだ。鎌の間を抜けたところを待っている。
「マシュウくん。もう一度、入れる?」
ヴァレクの声がした。彼は剣を持ち直し、自由な鎌の側へ回っている。
「入れる。そっち、引けるか」
「君が行くならね」
短く答え、左手を開いた。
魔物の後脚から重みが抜けた。爪先が砂を掻き、胴が起き上がる。レティシアが杖を両手で支えたが、水に巻かれた鎌まで持ち上がり始めた。
また跳んで、岩へ戻る気だ。
その後ろで、リュカが弓を下げた。足元へ手をつき、魔物の脚を睨む。
「土隆!」
土がせり上がった。
今度は足の真下ではなかった。退こうとする後脚のすぐ後ろへ、膝ほどの土の段が立ち上がる。踏み替えた脚が引っかかり、黒い胴が前へ傾いた。
「前に出した! マシュウ!」
マシュウは、もう走っていた。
顎がこちらを向く。噛みつくために頭が引かれ、口の奥が見えたところへ、左手を突き出した。
「火炎矢!」
炎が口の中へ飛び込んだ。
赤い光が顎の隙間から噴き出す。黒刃蟷螂が頭を仰け反らせた。その下で、自由な鎌がマシュウの胸へ返ってくる。
「引掌」
ヴァレクが左腕を引いた。
刃が急に向きを変え、彼の方へ流れる。ヴァレクは一歩横へずれながら剣を添え、その切っ先を自分の足元へ落とした。硬い地面が、深く裂けた。
マシュウの前には、焦げた胸があった。
右足を踏み込む。土は沈まず、腰を捻る力を受け止めた。握り込んだ拳に炎が集まり、腕の内側まで熱くなる。
今なら、奥まで打ち抜ける。
「赫牙!」
拳が胸殻を砕いた。
肘まで返ってきた重みを、そのまま押し込む。黒い身体が弓なりに反り、背の割れ目から炎が噴き出した。レティシアの水がほどけ、二本の鎌が大きく開く。
魔物が、後ろへ倒れた。
土の段が崩れ、赤い砂が舞い上がる。長い後脚が一度だけ地面を掻き、止まった。
マシュウは拳を引き抜き、半歩退いて構えたまま待った。焦げた殻の臭いがする。倒れた頭の奥で、火が小さく揺れていた。
顎は、もう閉じなかった。
背後で弓の弦が緩む音を聞いてから、マシュウは息を吐いた。
「……よし」
拳を開いた。指も、腕も、思ったとおりに動く。
顔を上げると、リュカが笑っていた。レティシアは杖を下ろし、額に張りついた髪を払っている。ヴァレクは自分の足元の溝を見下ろしてから、こちらへ顔を向けた。
「今の、もう少し早く殴ってくれてもよかったよ」
「十分早かっただろ」
「僕の靴、少し切れた」
爪先の革に、細い傷が入っていた。
マシュウが顔をしかめると、ヴァレクは楽しそうに笑った。
「一緒に買いに行こうか」
*
ボルグは、倒れた魔物を一周した。
胴の下を戦鎚の柄で確かめ、動かない後脚を見てから、四人を振り返る。
「討伐、確認した」
リュカが、握っていた弓を持ち上げた。
「やった……!」
声が漏れた途端、もう一度、大きく息を吐く。レティシアも口元を緩めた。マシュウは近くへ来たリュカへ拳を差し出し、軽くぶつけ合わせた。
「助かった。最後、跳ばれてたら面倒だった」
「踏む場所なら、見えたからな」
リュカは土の段が崩れたところを見た。自分の作った跡を、確かめるような目だった。
レティシアが近づき、倒れた鎌を杖の先で小さく押した。刃の付け根には、水に擦られた砂が筋になって残っている。
「斬るたびに、水までなくなると思っていたのかしら」
「最後、あいつよりお前の方がしつこかったぞ」
「褒めているなら、受け取っておくわ」
マシュウが笑うと、彼女は顎を上げた。息はまだ乱れていたが、目にははっきりとした喜びがあった。
頭の角を取るには、少し手間がかかった。
ヴァレクが周りの殻を切り、マシュウが両手で押さえて引き抜く。根元まで黒い角は、見た目より重かった。布へ載せると、リュカが袋を開いた。
「これで、帰れるな」
「その前に道だ。折った岩、置いていく気か」
ボルグに言われ、マシュウは振り返った。
来た方にも、これから先にも、赤い岩が折り重なっている。自分が蹴り砕いた柱の上半分が、道の半分を塞いでいた。
「……あれは、俺の分か」
「鎌を折るより、時間がかかりそうだね」
ヴァレクが言い、リュカが笑った。
危うく傾いた柱を確かめてから、四人は岩を道の端へ寄せ始めた。ボルグも戦鎚を持ち替え、大きすぎる塊を割る。リュカが土を均し、レティシアが水で砂を流すと、隠れていた轍が現れた。
詰所へ知らせに行ったボルグが、人足たちを連れて戻ってきた頃には、馬車一台が通れる幅ができていた。
角の入った袋を覗いた詰所の男は、しばらく言葉を失っていた。それから、道の向こうへ目をやる。
「倒したのか。本当に」
「ああ。倒れそうな岩も見た。残りは、そこの欠片だけだ」
男は何度も頷き、後ろの人足へ声を張った。
「向こうへ知らせろ! 明日の朝、道を開けるぞ!」
返事をした男が走っていく。その足音を聞きながら、マシュウは袋の口を結んだ。
*
帰りの馬車が学園のある街へ着いたのは、翌日の夕方だった。
宿場で洗った服にも、まだ赤い砂が残っていた。四人は荷物を持ったままギルドへ向かい、ボルグとともに奥の部屋へ通された。
ガレスの机へ角を置くと、重い音がした。
「約束のものだ」
マシュウが言うと、ガレスは布を開いた。角の先から根元まで確かめ、その隣へ置かれた地図へ目を移す。
「道も、朝から通れるようになった。詰所で確認してきた」
ボルグが続けた。
「討伐は四人でやった。俺が手を出したのは、飛んできた石と、終わったあとの岩運びだけだ」
ガレスが顔を上げた。四人を順に見てから、机の引き出しを開く。
「なら、預かるものがある。今のプレートを出せ」
マシュウは胸元へ手を入れた。
紐を外して置くと、三つの星が上を向いた。隣へ、レティシアとヴァレクの三つ星、リュカの二つ星が並ぶ。
ガレスは四枚を受け取り、代わりに、小さな布包みをそれぞれの前へ置いた。
「マシュウ、レティシア、ヴァレク。四つ星への昇級を認める。リュカ、お前は三つ星だ」
布を開いた。
新しいプレートに、四つの星が刻まれていた。
マシュウは親指で、その一つをなぞった。汚れも傷もない。顔を近づけると、窓から差す夕日を受けて、縁が明るく光った。
「本当に磨いといてくれたんだな」
「曇っていたら文句を言いそうだったからな」
ガレスが笑った。
隣でリュカが、自分のプレートを両手に載せていた。
「帰ったら、手紙の続きを書かないと」
誰にともなく呟いてから、顔を上げる。その笑顔を見て、マシュウも笑った。
「今度は、受かったって書けるな」
「ああ。ちゃんと、自分の名前で」
レティシアは新しい紐をプレートへ通していた。結び終えると掌に置き、もう一度、四つの星を確かめる。ヴァレクは早々に胸へ下げ、マシュウの肩越しに覗き込んできた。
「お揃いだね」
「お前、レティシアも同じだぞ」
「知ってるよ。それで、靴は明日?」
「お前、本当についてくる気か」
当然だろう、という顔で笑った。
部屋を出ると、下の階から夕食を頼む声が聞こえてきた。受け取った報酬の袋が、腰でずしりと揺れる。
階段の途中で、マシュウは足を止めた。
いつもの掲示板の先に、別の依頼板が見えた。これまでは眺めるだけだった、四つ星以上の仕事が並ぶ場所だ。
「飯、頼んでおこうか」
リュカが振り返る。マシュウは礼を言い、少しだけ、と答えた。
新しいプレートを握り、依頼板の前へ進む。
いちばん上の紙から、行き先を読み始めた。




