第71話 四本の鎌
門の前にいたネラは、マシュウを見ると、上げかけた手を一度下ろした。
「……おはよう」
「おはよう。早かったな」
「見送りに来るって、言ったでしょ」
いつもなら、そのまま隣へ来る。今日は二歩ほど離れたところで立ち止まっていた。顔を見ようとすると、目が合って、すぐに逸れる。
マシュウも頬を触りかけ、荷紐を握り直した。
昨日のことを、何と言えばいいのかわからなかった。考えているうちに、先にネラが口を開く。
「絵、どうした?」
「机の横に置いた。持っていって、折りたくねえから」
「そっか。私も、部屋に置いてきた」
ようやく、少し笑った。
門の先でリュカが手を振っている。馬車へ荷を積み終えたらしい。マシュウがそちらへ片手を上げると、ネラは一歩近づいた。
「帰ってきたら、練習ね」
「ああ。塔へ行くのも忘れてねえよ」
「……うん」
短く答えてから、今度はまっすぐ顔を上げた。
「いってらっしゃい」
「行ってくる」
マシュウは馬車へ向かった。乗り込む前に振り返ると、ネラはまだそこにいた。大きく手を振る姿へ応えてから、腰を下ろす。
車輪が動き出した。門が遠ざかり、曲がり角で見えなくなっても、頬へ触れた感触が、ふいに戻ってきた。
*
街の外門では、ボルグが待っていた。
大盾と戦鎚を荷台へ載せると、自分も上がり込み、四人の顔を見渡す。
「今回の見届け役は俺だ。現地でどう動くかは、お前らで決めろ」
「ボルグが来るのか」
「マスターから頼まれた。危なくなりゃ手を出す。それまでは、お前らの仕事を見せてもらうぞ」
マシュウは頷いた。向かいで、リュカが新しい弓を膝へ置き直す。レティシアは依頼書を袋へしまい、ヴァレクは剣の留め金を確かめていた。
「なら、見やすいところにいてね」
ヴァレクが笑った。
「僕が働いてるところ、見落とされたら困るから」
「見落としようのねえ戦い方ばっかりしやがって」
ボルグの返事に、リュカが吹き出した。ヴァレクは少しも悪びれず、隣のマシュウへ肩を寄せる。
「君も、ちゃんと見ててよ」
「見てる。だから、肘をどけろ。剣が当たってる」
馬車が坂を上り始めた。学園の塔が木々の向こうへ隠れ、代わりに、遠い丘の赤い地肌が見えてきた。
*
赤柱峡谷へ着いたのは、翌日の昼だった。
途中の宿場ではまだ林に囲まれていた道が、突然、赤い岩の間へ入った。細長い岩柱が何本も立ち、その根元を縫うように街道が続いている。高いものは学園の校舎ほどもあり、頭の部分だけが丸く膨らんでいた。
「これ、全部つながってたのかな」
リュカが見上げたまま呟いた。
レティシアも馬車の縁から顔を出している。風が通ると、岩の隙間で低い音が鳴った。昨日の塔とは、ずいぶん違う音だった。
封鎖された道の手前で、馬車を降りた。
詰所の男が通行証を確かめ、脇へ寄る。その後ろには、車輪を失った荷台が置かれていた。厚い板も、補強の鉄も、斜めに断たれている。
「ここへ運べたのは、まだこの半分だけだ。向こうには近づけん」
「最後に見たのは?」
「昨日の夕方。二つ目の曲がり角を越えたところだ。岩に張りついて動かなかった」
マシュウは荷台の切り口へ目を落とした。ささくれが少ない。腕を盾にして受ければ、そのまま持っていかれる。
肩の荷を下ろし、必要なものを取り分けた。
「リュカ、上へ行ける道を見てくれ。俺とヴァレクが下へ出る」
「わかった。下りる場所も先に探す」
「水は持ってきたわ」
レティシアが腰の袋を軽く叩いた。マシュウは頷き、岩陰へ続く道へ入った。
靴底で砂が鳴る。
街道の脇には、膝ほどの高さで切られた岩が並んでいた。切り口はどれも新しい。倒れた先端が道へ食い込み、人が通れる幅を狭めている。
ただ邪魔なものを斬ったにしては、残し方が嫌らしかった。
「真ん中が、空きすぎてるな」
マシュウが言うと、ヴァレクは左右の岩を眺めた。
「歩いてきてほしいんだろうね。あそこへ」
道の先だけ、陽が当たっていた。
マシュウは手近な石を拾い、明るい場所へ投げた。石は跳ね、道の端まで転がる。何も動かなかった。
そのとき、頭上で弦が鳴った。
「右上!」
リュカの矢が、岩柱の途中へ突き立った。
岩だと思っていたものが、開いた。
四枚の黒い刃が陽を反射し、細い胴が柱から離れる。逆さに垂れた頭の角が、こちらを向いた。
マシュウは横へ地面を蹴った。
さっきまで立っていた場所へ、鎌が突き刺さった。衝撃で砂が跳ねる。続けて振り抜かれたもう一本が、背後の岩を薄く削いだ。
石の板が落ちてくるより先に、黒刃蟷螂が道へ降りた。
二本の後脚が岩を掴み、折り畳まれていた胴が高く起き上がる。黒い前脚の一本だけで、マシュウの背丈より長かった。関節の隙間から覗く赤茶色の筋が、脈打つように縮んでいる。
頭が傾いた。
次の瞬間、顔へ刃が来た。
「火炎矢!」
左手から放った炎が、黒い鎌の腹で弾けた。刃が外へ振られ、焦げた殻の欠片が飛ぶ。マシュウはその下へ潜り、火を纏った右拳を突き出した。
硬い手応えが、肩まで返ってきた。
胴へ届く前に、下側の鎌が拳を受けていた。ぶつかった刃の付け根に白い亀裂が走ったが、その向こうで、もう一本が持ち上がる。
まずい。ここで腕を戻すと、首が空く。
「蒼鞭!」
背中の横を、水が抜けた。
振り下ろされた鎌が、太い流れを真っ二つに断つ。だが、飛び散った水は地面へ落ちなかった。両側から関節へ巻き戻り、刃を横へ引く。
空いたところへ、マシュウは足を差し込んだ。
「砕星!」
前蹴りが胴を捉えた。接触したところで炎が爆ぜ、見上げるほどの身体が後ろへ弾かれる。後脚が道を削り、岩へぶつかった殻が乾いた音を立てた。
追いかけようとしたマシュウの鼻先で、黒い顎が噛み合った。
身体は下がっているのに、頭だけが伸びていた。
「っ、近えな!」
引いた拳の先を牙が掠めた。顎が閉じたところへ、横からヴァレクの剣が落ちる。
「重刃」
頭を庇った鎌へ、重みを増した刃が叩きつけられた。
甲高い音が響く。黒刃蟷螂の片側が沈み、岩へ掛けた後脚が滑った。ヴァレクは押し込んだまま、間近の複眼へ笑いかけた。
「よそ見をしてる暇、ないと思うよ」
別の鎌が、彼の腹へ跳ね上がる。
マシュウが剣を持つ方の腕を引き、二人で刃の外へ出た。外套の端が切れ、布が宙へ舞う。ヴァレクはそれを一瞥して、口の端を上げた。
「ありがとう。少し近かったね」
「少しじゃねえ。下の二本、まだ動くぞ」
「うん。だから、片方ずつ減らそうか」
*
黒刃蟷螂は追ってこなかった。
頭を低く下げ、鎌を左右へ広げる。その一本が、そばの岩柱を薙いだ。
切り離された上半分が、レティシアの方へ傾く。
「左へ!」
マシュウの声より早く、彼女は走っていた。
岩が落ち、道が潰れた。跳ねた破片を避けて身を伏せる。その先へ、黒い刃が差し込まれた。
狙いは彼女だ。
マシュウは砂を蹴った。だが、目の前へもう一本の鎌が立ちはだかる。肩へ迫る刃の腹を掌で叩き、身を捻って脇を抜けた。
「引掌」
ヴァレクが左手を引いた。
レティシアへ伸びた鎌が、彼の方へ大きく逸れる。その内側から、彼女の杖が上がった。
「蒼鞭!」
水が二筋に分かれた。
一つが傾いた岩へ巻きつき、彼女自身を道の端へ引く。もう一つは、引き寄せられている鎌へ絡んだ。ヴァレクへ届く寸前で刃が横を向き、地面を深く抉る。
「引いたままでいて!」
「できるだけ早くね」
ヴァレクの靴が、砂へ沈んでいく。黒刃蟷螂が腕を引き戻そうとしていた。水の帯が張り詰め、レティシアの杖が小さく震える。
マシュウは走りながら、開いた胴へ左手を向けた。
「火炎矢!」
連ねた炎が、頭と胸を叩いた。
魔物が鎌で顔を覆う。その間に、岩の上から矢が降った。狙われたのは、踏ん張っている後脚だった。
一本目が殻へ弾かれた。
二本目は、持ち上がった関節の内側へ刺さった。
黒刃蟷螂の頭が、リュカへ向く。
「こっちを見てろ!」
マシュウはその胴へ肩からぶつかった。熱を帯びた殻が鳴り、長い身体が傾く。迫った顎を拳で跳ね上げたところで、視界の端に、リュカが岩から下りるのが見えた。
膝をつき、空いた手を地面へ向ける。
「土隆!」
魔物の足元が、斜めにせり上がった。
低い土の盛り上がりだった。それでも、矢を受けた後脚が踏み直すには十分すぎた。足先が縁を滑り、黒い胴がこちらへ倒れかかる。
捕まえた。
マシュウは退かず、胴の下へ踏み込んだ。さっき自分の拳を受けた鎌が、目の前にある。付け根の白い亀裂が、炎の明かりで見えた。
左手を、刃のない側へ掛けた。
指に力を込めると、ざらついた殻が掌へ食い込む。振りほどこうとする力に肩を引かれたが、足は浮かなかった。
「レティシア、右を頼む!」
「任せて!」
水が背後へ回った。
まだ自由だった鎌が振り下ろされ、流れが砕ける。頬に冷たい飛沫が当たった。その直後、刃が頭の横を通り過ぎ、地面へ突き立つ。
マシュウは、掴んだ鎌を引き寄せた。
炎が右拳へ集まる。熱で目の前の殻が赤く照らされ、隙間の筋が激しく縮んだ。
「赫牙!」
亀裂へ、拳を叩き込んだ。
硬いものが砕ける音と、生々しく裂ける感触が重なった。拳の向こうへ炎が抜け、黒い前脚が付け根から折れる。
長い鎌が地面へ落ちた。
黒刃蟷螂の顎が開き、耳障りな音が峡谷へ響いた。三本になった鎌が、ばらばらの方向へ振り回される。
マシュウは折れた脚を放り捨て、横へ跳んだ。肩のすぐそばを刃が走り、倒れていた岩を二つに割る。
「一本!」
リュカの声が弾んだ。
マシュウも歯を見せた。左の掌がじんじんする。けれど、指は握れた。相手の鎌より先に、自分の手が壊れることはなかった。
道の後ろでは、ボルグが盾を構えていた。飛んだ岩片を受け止め、その向こうからこちらを見ている。まだ、戦いへ割って入ってはいない。
「マシュウくん」
ヴァレクが、短く呼んだ。
魔物の後脚が、道の奥へずれていた。地面へ残された深い溝の先には、細い岩柱が何本も寄り集まっている。
あの間へ戻る気だ。
マシュウは前へ出た。黒刃蟷螂が一本の鎌を地面へ叩きつけ、砂を巻き上げる。その向こうで、大きな影が後ろへ跳ねた。
「リュカ、上から先へ回れるか!」
「行ける! 右の切れ目で止める!」
弓を握った少年が、岩の斜面を駆け上がった。レティシアの水が地面から戻り、ヴァレクが剣を持ち直す。
黒刃蟷螂が、岩柱の陰へ消えた。
遅れて、奥から石の割れる音が響く。新しく道を塞ごうとしているのだ。
「まだ逃がさねえよ」
マシュウは折れた鎌を踏み越えた。岩の間を駆けるリュカの足音を聞きながら、右手に炎を灯す。
次の曲がり角へ、水の鞭が先に走った。




