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第70話 風の鳴る塔

「今日は、行きたいところがあるんだけど」


 門の前でそう言うと、マシュウは持っていた紙を畳《たた》んだ。何かと思って覗《のぞ》けば、菓子店の開く時刻が書いてある。


「聞いてきたの?」


「昨日な。行って閉まってたら、困るだろ」


 ネラは、昨夜から考えていた言葉を一つ忘れた。


 明日にはまた冒険へ出る。道具を揃《そろ》えたり、仲間と相談したり、することはたくさんあるはずだった。その中で、今日の店まで確かめてくれていた。


「……じゃあ、まずはそこね」


「おう。その服、新しいな」


 ネラは思わず襟《えり》に触れた。


 薄い青の上着に、歩きやすい丈のスカート。寮の部屋で三度も着替え、結局、最初に選んだものへ戻した。袖《そで》が少し広すぎる気もしていたのに、彼に見られると急に全部が気になる。


「変?」


「いや。似合ってる」


 迷いのない返事だった。


 そのまま歩き出した背中を、ネラは一拍遅れて追った。もう少し顔を見て言ってくれてもいいのに。いや、見られ続けていたら、何も返せなかったかもしれない。


「今日は私も、ちゃんとお金を持ってきたからね」


「俺、何も言ってねえぞ」


「先に言っとくの」


 彼が笑った。ネラも隣へ並び、いつもより明るい時間の通りへ足を踏み出した。


     *


 菓子店では、梨《なし》の焼き菓子を一つずつ買った。


「あんた、胡桃《くるみ》の方が好きじゃなかった?」


「今日は、そっちのを一つ食いたい」


「交換しないよ」


「まだ何も言ってねえって」


 焼きたてを冷ましながら、店先で半分ほど食べた。前に来たときは夕方だったが、今日は通りの奥まで日が差している。マシュウの口の端についた欠片《かけら》を教えると、見当違いの方を拭いたので、ネラは笑って指で場所を示した。


 紙を丸めて捨て、東の小広場へ向かう。


 露店の間を抜けたところで、ネラは足を緩めた。


 木の板へ、いくつもの小さな人物画が並べられている。赤ん坊を抱いた女の人。耳の尖《とが》った老人。肩を組んで笑う、三人の職人らしい男たち。


 手のひらほどの紙なのに、頬の膨らみや目尻《めじり》の皺《しわ》まで、それぞれ違っていた。


「見て。これ、そっくり」


 ネラは端の絵を指した。通りを横切っていく八百屋の主人と、紙の中で顎《あご》を突き出している男を見比べる。


「怒った顔しかしてくれなくてね」


 絵描きの女が、筆を洗いながら笑った。


「でも、奥さんは喜んで持って帰ったよ。描いていくかい?」


「どれくらい、かかります?」


「しばらく座ってもらえれば。仕上げは、買い物の帰りに寄ってもらってもいい」


 ネラは飾られた絵へ目を戻した。


 二人で一枚に収まっているものもあった。夫婦だろうか。それとも、まだそうではない二人なのだろうか。見ているうちに、自分たちがこの中にいたら、と考えてしまう。


「マシュウ、あのさ」


「描いてもらうか」


「……いいの?」


「見てたろ。ずっと」


 ネラは財布を握り、女の人へ向き直った。


「二人で、一枚にしてもらえますか」


「もちろん。そこの長椅子へ座って」


「あ。同じの、二枚できるか?」


 マシュウの声に、ネラは座りかけたまま顔を上げた。


「俺の分も欲しい」


 女の人は頷《うなず》き、もう一枚の紙を取り出した。


 ネラは膝《ひざ》の上へ両手を置いた。嬉《うれ》しいのに、今、顔がどうなっているのかわからない。落ち着いたふりをして背筋を伸ばすと、横に座ったマシュウまで、つられて姿勢を正した。


「二人とも、もう少し楽にしていいよ」


 言われても、うまくできなかった。


 肩が触れそうだった。前を向いていればいいのに、隣の顔ばかり気になる。そっと目を動かしたところで、マシュウもこちらを見た。


「何だよ」


「あんた、先生に叱られてるときの顔してる」


「お前だって、箱を運ぶ前みてえな顔だぞ」


「あのときは、割ったらやり直しだったから!」


 言い返した途端、マシュウが吹き出した。ネラも堪《こら》えきれず笑い、その拍子に肩がぶつかった。


 女の人の筆が、紙の上を走った。


     *


 風鳴り塔《かぜなりとう》は、小広場から坂を上った先にあった。


 広い裾《すそ》を持つ石造りの塔で、上の回廊《かいろう》には窓がない。木枠へ吊《つ》るされた大小の金属管が、風を受けて鳴っている。管の間で薄い板が揺れるたび、高い音と低い音が重なった。


「ここか。お前が来たかったの」


「うん。学園の窓から、上だけ見えてたから」


 入口で銅貨を払い、階段を上った。途中の壁には、子供が描いたらしい塔の絵が掛けられている。どれも風を表す線がやたらと大きく、ネラは一枚ずつ眺めながら進んだ。


 回廊へ出た途端、髪が額から浮いた。


「うわ……!」


 街が、下に広がっていた。


 重なり合う屋根の間を、さっき歩いた通りが曲がっている。荷車は玩具《おもちゃ》のように小さく、菓子店の白い天幕《てんまく》も見つかった。その先には川があり、水門を通る船の帆が、ゆっくり畳まれていく。


「学園、あそこだな」


 マシュウが指した。


 教室の窓は小さすぎて、どれが自分の部屋なのかわからない。それでも、中庭の木と、実技場の白い線は見えた。


「いつもいる場所なのにね。こうやって見ると、ちっちゃい」


 ネラは欄干《らんかん》へ両手を置いた。ここからなら、違う教室にいるマシュウも、同じ小さな建物の中にいる。


 ひときわ低い音が鳴った。


 マシュウが頭上を見上げる。いちばん大きな管が揺れ、その隣の細い管が、少し遅れて澄んだ音を返した。


「これ、一つずつ鳴らせるか?」


「風で?」


「ああ。さっきの高い方、もう一回聞きたい」


 ネラは管の並びを見た。風が来るまで待ち、どの板がどこへ触れるのかを確かめる。それから、上げた指の先に短い風を集めた。


 狙った板が揺れた。


 高い音が一つ、回廊へ広がる。すぐ隣の板まで動いてしまったので、二度目はもっと細くした。


「これ?」


「それ。もう一つ、低いのも」


「注文、多いなあ」


 口ではそう言いながら、ネラは別の板へ風を送った。


 二つの音が重なった。続けて、小さな管を鳴らす。長く響くものと、すぐに消えるものがあり、間を空けると、それだけで違って聞こえた。


 マシュウは欄干へ肘をつき、黙って耳を傾けていた。


 もう一つ鳴らそうとしたところで、塔の向こうから強い風が吹いた。全部の管が一斉に鳴り、ネラの作った音を攫《さら》っていく。


「ああ、もう。今、いいところだったのに」


「続きがわからなくなったな」


「私も。次、どれ鳴らすつもりだったっけ」


 二人で笑った。風が弱まってから、ネラはもう一度、最初の高い音を鳴らした。


 今度は、最後まで鳴らせた。


「いいな、これ」


 マシュウが言った。


 ネラは指を下ろし、まだ揺れている管を見上げた。胸の奥が温かかった。誰かの杖を逸《そ》らせたときとも、足運びを褒めてもらったときとも、少し違う嬉しさだった。


     *


 回廊を半周すると、街の外へ続く道が見えた。


 門の先で道が二つに分かれ、片方は丘の向こうへ消えている。ネラが尋ねる前に、マシュウがそちらを指した。


「明日は、あっちから出る」


「黒い鎌の魔物を倒しに行くんだよね」


「ああ。黒刃蟷螂《ブラックブレード・マンティス》だ」


「四つ星になったら、またもっと遠くへ行くの?」


「行けるところは増えるな」


 彼の声は弾んでいた。まだ見ていない場所へ行くことが、楽しみなのだ。隣にいれば、それくらいはわかる。


 ネラも、その道の先を見た。


「私も、Aに上がる」


 マシュウがこちらを向いた。


「そしたら、一緒に依頼を受けようよ。一つ目は、私に選ばせて」


「いいぞ。何の依頼にする?」


「それは、これから考える」


「もう決めてんのかと思った」


「見てない依頼書から選べないでしょ」


 ネラは笑ってから、欄干を握り直した。


「帰ってきてから聞く話、面白いよ。でも、あんたが話してるときに、私もそこ見たって言いたい」


 言葉にすると、ずっと喉《のど》の奥にあったものが、ようやく出てきた気がした。


「今のままじゃ駄目なのは、わかってる。実技でも、まだ足が止まるし。風だって、狙ったところから外れることあるし」


「この前は、ちゃんと俺を見て動けてたぞ」


「一回だけね。次は捕まった」


「じゃあ、一回を増やしていこうぜ」


 マシュウはそう言って、街へ目を戻した。


「帰ったら、また相手する。ネラが選ぶ依頼、俺も行きてえからな」


 ネラは返事をする代わりに、彼の袖を軽く引いた。


「……下りよ。絵、できてるかな」


 階段を降り、塔の外へ出たところで、ネラは足を止めた。


 前を行きかけたマシュウが振り返る。その手へ、自分の手を差し出した。


「今日は、はぐれなくても繋《つな》いでてよ」


 言ってから、逃げずに顔を見た。


 マシュウは少し目を丸くしたが、すぐに手を取った。指の付け根は硬い。握り返す力は、ちっとも痛くなかった。


「じゃあ、ゆっくり行くか」


「うん」


 坂道を下りながら、ネラは一度だけ、繋いだ手を見た。


     *


 絵には、笑いかけている二人がいた。


 ネラの肩が、マシュウの腕へ少し触れている。彼は正面を向いているが、目だけはこちらへ寄っていた。自分の顔ばかり気にしていたので、そんなふうに見られていたとは知らなかった。


「これ、笑ったときの?」


「うん。その顔の方がよかったからね」


 女の人が、乾いた絵を並べた。同じ二人なのに、もう一枚はマシュウの口元が少し大きく緩んでいる。


「どっちがいい?」


 聞かれて、ネラは迷わず、よく笑っている方を取った。


「じゃあ、俺はこっちだな」


 マシュウがもう一枚を受け取る。折らないように、紙を挟む板も一緒に買った。ネラが自分の絵を入れるまで待ち、店を離れてからも、ときどき自分の分を開いて見ていた。


「そんなに気に入った?」


「ああ。俺たち、こんな顔してたんだな」


 ネラは板を胸へ抱き寄せた。


 昼は広場の端で、肉と野菜を挟んだパンを食べた。帰りには店をいくつも覗き、エリオが好きそうな古い本や、フェリクスなら絶対に磨きたがる曇った銀杯を見つけた。


 学園へ続く坂を上る頃には、二人の影が長くなっていた。


「今日は、ありがとう」


 門をくぐる前に、ネラは言った。


「こっちこそ。あの塔、面白かった」


「また行ってもいい?」


「行こうぜ。今度は夕方に上ってみよう。あそこからなら、川が光るところも見えるだろ」


 ネラは頷いた。こんなにすぐ、次の約束ができると思わなかった。


 明日、彼は街を出る。けれど、その前に一日を一緒に過ごせた。遠くの町の話だけではなく、同じ絵を見ながら話せることが、今日また増えた。


「マシュウ。ちょっと、屈《かが》んで」


「何だ?」


 彼が顔を寄せた。


 ネラは一瞬、ためらった。けれど、考え直す前に背伸びをした。


 頬へ、唇で軽く触れた。


 離れると、マシュウが動かなくなっていた。驚いた顔でこちらを見ている。その耳が、少しずつ赤くなった。


 ネラの方が、先に耐えられなくなった。


「今日の、お礼!」


「え……いや、俺も、楽しかったけど」


「うん。それでいいから!」


 絵を抱え、門の中へ駆け込んだ。走るつもりなんかなかったのに、足が止まらない。背中へ名前を呼ぶ声が飛んできて、数歩先でようやく振り返った。


 マシュウはまだ門の横にいた。片手で頬に触れ、何か言おうとしている。


「明日、見送りに行くね!」


「あ、ああ。待ってる」


 その返事を聞いてから、ネラはもう一度走った。


 曲がり角の先で足を止め、抱えていた絵が折れていないか確かめる。紙の中の自分は、こんなに顔を熱くせず、彼の隣で笑っていた。


 ずるいな、と少し思った。


 自分から触れたくせに、明日の朝、どんな顔で会えばいいのか、もうわからなかった。

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