第67話 待っていた声
「忘れ物はないね」
エッダに尋ねられ、マシュウは肩へ掛けた鞄を持ち直した。中には着替えと、学園へ届ける治療の記録が入っている。荷馬車へ積む荷物は、もう残っていなかった。
「世話になった。三人のことも」
「礼なら聞いたよ。寝台を離れるたびに言われちゃ、こっちも返事がなくなる」
そう言いながら、エッダは彼の左腕へ目を向けた。マシュウが肘を曲げて見せると、ようやく頷く。
飛竜を倒してから、三週間が過ぎていた。
術師の治療で傷が塞がってからも、寝台を出て、食事を戻し、歩く距離を延ばす日々が続いた。四人とも出発してよいと言われたのは、昨日のことだ。
「今度来るときは、宿を取っとくれ。うちの寝台を四つも埋めるんじゃないよ」
「ああ。次は、ちゃんと町を歩きたい」
「それなら、焼き串の屋台が坂の上にある。再開したら食べていきな」
マシュウは笑って頷いた。
坂の向こうでは、クルトたちが新しい梁を運んでいた。壊れた昇降籠の脇へ材木が積まれ、金槌の音が朝から続いている。こちらに気づいたクルトが片手を上げたので、マシュウも高く手を振り返した。
「マシュウ、乗れよ。道の途中で昼になるぞ」
幌の下からリュカが呼んだ。膝には地図筒を置き、修理を頼む弓を布で包んで抱えている。隣でレティシアが腰をずらし、一人分の場所を空けた。
マシュウが乗り込もうとすると、後ろから肩へ手が置かれた。
「僕の隣も空いてるよ」
「どこ座ったって、話くらいできるだろ」
「それもそうだね」
ヴァレクはあっさり手を離した。先に荷台へ上がり、長剣を立てかける。固定具の外れた左脚にも、今は自分で体重を乗せられる。
四人が座ると、外でボルグが御者へ声をかけた。
車輪が動き始めた。エッダが手を上げ、その姿が幌の端へ隠れていく。マシュウは少し身体を乗り出し、曲がり角を過ぎるまで見送った。
懐へ戻した手に、紙の縁が触れた。
学園から届いた返事だった。一枚の紙へ三人が順に書き込んだせいで、最後の方は字が小さくなっている。フェリクスの整った字の横へ、ネラが何かを書き足し、それを避けるようにエリオの字が並んでいた。
読み返したくなったが、鞄へしまった。
明日には、本人たちに会える。
*
翌日の午後、荷馬車が学園の門をくぐった。
見慣れた校舎が幌の隙間から現れた。石畳の上では車輪の揺れが細かくなり、遠くから実技場の掛け声が聞こえる。マシュウが入口の布を持ち上げると、門のそばにダリウスが立っていた。
帰還の日を知らせる便りは、先に届けてもらっていた。先生の後ろに、三人が待っていた。
「マシュウ!」
ネラが駆け出した。
まだ荷馬車は完全に止まっていなかった。マシュウは鞄を足元へ置き、揺れが収まるのを待ってから地面へ下りた。
「ただい――」
言い終える前に、ネラの両腕が背中へ回った。
額が胸へ当たる。短い髪が顎をくすぐり、マシュウは一歩だけ足を引いて受け止めた。何か言おうとしたが、服を握る指の強さに口を閉じる。
「……痛くない?」
胸元から声がした。
「もう平気だ」
「本当に?」
「ああ。ちゃんと治してきた」
ネラの肩へ手を置いた。そのまま少し待つと、背中へ回っていた腕の力がようやく緩んだ。
「遅いよ」
「悪かった」
「手紙、来たけど。返事も書いたけどさ」
顔が上がった。目の縁が赤かったので、マシュウは続きを急かさずに待った。
「帰ってきたら何を聞こうって、いっぱい考えてたのに。今、何も出てこない」
「あとで全部聞く。今日は、どこにも行かないから」
ネラは唇を結んで頷いた。離れる前に、彼の右手を一度だけ強く握った。細かく震えている指を、マシュウも握り返した。
エリオがそばへ来た。笑おうとしていた顔が、マシュウの姿を近くで見た途端に歪んだ。
「本当に、歩いてる」
「歩くくらいできるぞ」
「わかってる。帰ってくるって聞いたんだから。でも……よかった」
最後の言葉が掠れた。マシュウは何も言わず、エリオの肩を軽く叩いた。エリオも同じように叩き返し、それから息を吐いて笑った。
「二人とも、先に走るなと言っただろう」
フェリクスが追いついてきた。片手に杖をつき、もう片方には薄い包みを抱えている。マシュウの前で足を止めると、上から下まで確かめるように見た。
「お前も来てくれたのか」
「来るに決まっているだろう」
返事が思ったより強く、マシュウは口を閉じた。
「『四人とも生きてる』。あれで安心した次の行に、『大怪我をした』と書く奴があるか」
「……それを、一番先に伝えたかったんだよ」
「わかっている」
フェリクスは包みを抱え直した。
「だから、続きを何度も読んだ。生きているなら、次の手紙も来るはずだと思ってな」
マシュウは三人を見た。
返事の紙には、授業のことや、早く戻れという言葉が書かれていた。その字を書いたあとも、三人はここで待っていたのだ。自分が寝台で眠った夜も、少し歩けるようになった朝も。
「待たせたな」
フェリクスの眉が寄った。しばらく黙ってから、短く頷く。
「……ああ。お帰り」
その向こうで、荷台からヴァレクが下りた。
フェリクスの顔から笑みが消えた。杖を握る手に力が入ったのを、マシュウは見た。ネラもそちらへ目を向け、エリオの肩がわずかに強張る。
ヴァレクは三人を見渡したが、親しげに話しかけようとはしなかった。自分の荷物を肩へ掛け、マシュウへ顔を向ける。
「ねえ。今夜、あの炎の話の続きを聞きたいんだけど」
「今日は、こいつらと飯を食う」
「じゃあ、明日だね」
「明日から授業だぞ」
「同じ教室って便利だよね、マシュウくん」
笑いながら言い残し、先に校舎の方へ歩いていく。レティシアが自分の杖と鞄を受け取り、その背中へ呆れたように息を吐いた。
「道中、あれだけ話して、まだ足りないのかしら」
「俺に聞かれてもな」
レティシアはネラたちへ目を向けた。
「ただいま。待っていてくれて、ありがとう」
「お帰り。レティシアも、リュカも」
エリオが答えると、リュカが空いた手を上げた。
「四人、揃って帰ったぞ」
ダリウスが近づき、四人の顔を順に見た。
「よく戻った。治療の記録を預かろう」
マシュウは鞄から紙を取り出した。受け取ったダリウスが、左腕へ一度目を落とす。試すように拳を握って開いて見せると、先生の肩から少し力が抜けた。
「今日は荷物を片づけて休め。明日の朝、四人で私のところへ来るように」
「わかった」
ボルグはダリウスに何かを話し始めた。マシュウたちは荷物を持ち、門から続く道へ歩き出した。
隣を歩くフェリクスの杖が、石畳を一定の間隔で叩いていた。
*
「そこ、手を貸すか」
食堂の入口の段差を前に、マシュウは足を止めた。
フェリクスは段差を見て、それから差し出された手を見た。少し迷ったあと、杖を持たない方の手を伸ばす。
「ここだけ頼む」
「ああ」
腕を支えると、思ったよりしっかり体重がかかった。フェリクスは自分で片足を上げ、もう片方を揃えた。中へ入ると手を離し、先ほどと同じ速さで歩き出す。
「前より、歩けるようになったな」
「毎日、練習していたからな」
「そっか」
「君が出かけている間、私たちも暇だったわけじゃない」
少し得意そうな横顔に、マシュウは笑った。
まだ夕食には早い時間だったが、食堂では温かい煮込みを出していた。四人で盆を運び、窓際の卓へ座る。エリオが椅子を寄せ、ネラがマシュウの前へパンの籠を押した。
「お腹、減ってるでしょ」
「減ってる」
「だと思った」
煮込みには豆と、よく煮えた肉が入っていた。匙ですくって口へ運ぶと、塩と香草の味が舌へ広がった。ガルドナの食事もうまかったが、この匂いを嗅ぐと、午後の授業までの短い昼休みを思い出す。
マシュウが二口目を食べたところで、フェリクスが抱えていた包みを卓へ置いた。
「何だ、それ」
「君の分だ」
紐を解くと、紙の束が出てきた。
エリオが上の一枚を裏返し、皿から離して広げる。
「休んでいた間に進んだところ。共通の授業は僕たちのノートから。それ以外はAクラスの人に借りたんだ」
「これ、全部写したのか?」
「三人で分けたよ。字、読みにくいところがあったら聞いて」
「提出する課題には印をつけた。期限は先生に確かめてある」
フェリクスが紙の端を指した。その横でネラが、自分の書いたらしい頁を一枚めくる。
「ここだけ、私の字が大きすぎて裏まで使っちゃった」
マシュウは紙へ目を落とした。
見覚えのある三種類の字だった。手紙の上で肩を寄せ合っていた字が、今度は自分の机へ戻るために並んでいる。
「……助かる。ありがとう」
「礼は、提出してからでいい」
「出すよ。こんだけしてもらって、出さねえわけないだろ」
フェリクスが満足そうに紙を揃えた。マシュウは汚さないよう鞄へしまい、今度はこちらから三人を見た。
「そっちは、何かあったか」
「聞く? 私ね、昨日の実技で――」
ネラが話し始めた。
相手が杖を振り下ろしたとき、いつもなら後ろへ跳んでいたところを、横へ抜けられたのだという。風を当てたあとも足が止まらず、次の攻撃を避けて、もう一度魔法を返せた。
「それで勝ったのか?」
「最後は負けた。悔しいけど。でも、先生にもう一回やってみろって言われた」
「いいじゃねえか。どっちへ抜けた?」
ネラが卓の端へ指を二本立てた。向かいからエリオが相手の位置を示し、二人の指が皿の間で動く。フェリクスはパンを避けながら、ここで近づきすぎたんじゃないかと口を挟んだ。
聞きながら、マシュウも自分の指を置いた。
「なら、次はこっちも試せるな。明日、見せてくれよ」
ネラの指が止まった。
「……うん。見てほしい」
さっきより少し柔らかい声だった。
そのあと、マシュウもガルドナの話をした。飛竜が来たときに籠が宙吊りになったこと。四人を下へ降ろせたこと。リュカが目を覚まして、最初にその人たちの無事を聞いたこと。
ネラは匙を置いて聞いていた。フェリクスも途中で口を挟まず、エリオが小さく息を吐いたところで、マシュウは話をいったん止めた。
「まだ、聞けるか」
「聞くよ」
ネラが頷いた。
「ちゃんとここにいるから、今なら聞ける」
マシュウは頷き返した。ヴァレクがリュカを庇い、倒れた柱に脚を挟まれたことを話すと、フェリクスの指が杯の縁で止まった。
「……あいつが?」
「ああ。リュカも、助けてもらったって言ってた」
フェリクスは卓の脇へ立てかけた自分の杖を見た。しばらく黙ってから、「そうか」とだけ答え、杯を置いた。マシュウも、それ以上の返事を求めなかった。
四つの椀が空になる頃には、食堂へ入ってくる生徒が増えていた。卓の間を通るたび、誰かの鞄が椅子へぶつかる。そのたびにフェリクスが眉を寄せ、エリオが自分の椅子を引き直した。
そんな騒がしさの中で、マシュウはネラへ顔を向けた。
「次の休み、街へ行かないか」
「街?」
「あの店。今度は俺から誘うって、言っただろ」
ネラはすぐに答えなかった。彼の顔を確かめるように見てから、卓の下へ置いていた手を膝の上で重ねる。
「……今度も、二人で?」
「ああ。ほかに行きたいところがあったら、そこも寄ろうぜ」
「ある」
返事が速くて、マシュウは笑った。
「じゃあ、案内してくれ」
「うん。ちゃんと空けといてよ、その日」
隣でエリオが口元を緩め、フェリクスが静かに杯を持ち上げた。マシュウは二人が何を笑ったのかわからなかったが、ネラが嬉しそうだったので、聞かずに残りのパンを手に取った。
まだ話していないことがあった。三人から聞いていない話も、きっとある。
マシュウはパンを割り、少しだけ空いたネラの皿へ半分を置いた。
「食いながら、もう少し話そうぜ」
「うん」
ネラが半分のパンを受け取った。その指が触れても、今は震えていなかった。




