第66話 生きている朝
目を開けると、天井から水の滴る音が聞こえた。
灯石の明かりが岩肌を照らしている。焦げた臭いは薄れ、代わりに煮出した薬草の匂いがした。左腕は板に添わせて固定され、腹には厚く布が巻かれていた。
マシュウは、寝台の脇へ顔を向けた。
リュカが眠っていた。隣の寝台へ横たわり、薄い毛布の下で胸を上下させている。息が入って、出ていく。少し間を置き、また胸が持ち上がった。
あのときは、この間が怖かった。
腹を押さえていた指が滑り、名前を呼んでも返事がなくなった。次の息を待っている間に、もう戻らなくなったのではないかと思った。
今は、聞こえる。
「目が覚めたね」
エッダが椀を置いた。濡れた布を絞り、マシュウの額へ手を当てる。
「ここは、下の坑道か」
「そう。上の診療所は、まだ使えないからね」
「ほかの二人は」
「レティシアは向こうで傷を診てもらってる。ヴァレクはその隣。二人とも話せるよ」
力を抜くと、腹の傷が痛んだ。痛みを避けて浅く息を吐き、もう一度リュカを見た。その眉が寄り、寝言のような小さな声が漏れた。
「こいつは?」
「昨夜、少し目を覚ました。あんたのことを聞いて、また眠ったよ」
マシュウは目を閉じた。瞼の裏へ、血に濡れた顔が浮かんだ。その像が、隣で続く寝息に少しずつ薄れていく。
「……よかった」
それだけ言うのに、喉が詰まった。
エッダは何も言わず、しばらく額へ手を置いていた。やがて熱を確かめ終えると、濡れた布を替える。
「飛竜が倒れてから、二日経ってる。術師たちが交代で傷を塞いだ。まだ起き上がろうとするんじゃないよ」
「二日……」
「そう。今度は、こっちの仕事をさせておくれ」
彼女は椀を手の届く場所へ寄せ、別の寝台から呼ぶ声に応じて立ち去った。
マシュウは、毛布の上へ右手を置いた。
鱗のない指だった。あの手で翼をもぎ、飛竜の口を裂いた感触が、まだ残っている。忘れたくても、握れば思い出せた。
昇星戦で、一度。
今回の飛竜戦で、もう一度。
焔龍顕現を、二度使った。
残りは八回だ。
マシュウは毛布の縁を握った。数え直しても同じだった。最初の一度を、自分で名を叫ばなかったからと数から外すことはできない。あのときも、この身体は確かに奪われた。
十度使えば、命が尽きる。
声の主が告げた条件を、覚えている。残された八回のうち、最後の一回は、使い終えて生きて戻れる力ではない。
傷が治っても、使った回数は戻らないのだ。
八回。
まだ行っていない場所がいくつある。知らない魔物が、会ったことのない強い相手が、この先にどれだけいる。そのたびに身体を明け渡していたら、どこまで行ける。
右手に力が入った。けれど、隣の寝台でリュカが身じろぎをすると、その指は緩んだ。
使わなければ、この寝息は聞けなかった。
今回、名を叫んだことを後悔するつもりはない。
ただ、次もあいつに任せればいいとは思えなかった。助けたい相手を振り返ることさえできず、身体を返されるまで待つしかなかったのだ。
「起きたか、坊主」
ボルグの声に、マシュウは顔を上げた。
手袋を外した大きな手が、入口の布を持ち上げている。頬には新しい擦り傷があり、髭にも白い石の粉が残っていた。
「ああ」
毛布を握っていた指を開いた。
八回という数は、口にしなかった。
*
ボルグは寝台の横へ腰を下ろし、革袋を置いた。
「水だ。飲めるか」
「少しなら」
差し出された杯を受け取り、唇を濡らした。喉を通る冷たさが心地よく、続けて飲もうとすると、ボルグに手を添えられた。
「慌てんな。エッダに俺まで怒られる」
マシュウは杯を下ろした。ボルグの指が一瞬止まり、それから、いつものように杯を受け取った。
その間が、気になった。
「飛竜は」
「死んでる。今日から片づけだ。翼一枚動かすだけでも、ひと仕事になってる」
「……そうか」
「下へ逃げた連中も、家へ戻れるか見に行ってる。クルトは昇降籠を直す相談だ。あの野郎、寝ろと言っても聞きやしねえ」
誰かに似ている、と言いたげに見られたので、マシュウは寝たまま両肩を少し動かした。左腕に響き、すぐやめる。
ボルグは笑わなかった。膝へ肘を置き、しばらく、布に巻かれた腕を見ていた。
「怖かったか」
マシュウが尋ねると、視線が上がった。
「飛竜のことじゃねえよな」
「ああ」
ボルグは頬を掻いた。取り繕う言葉を探す様子はなく、やがて低く答えた。
「怖かった」
マシュウは黙って聞いた。
「お前が笑ってたからな。腕が折れて、腹から血を流して、それでも楽しそうに翼を引き千切ってた。近づいたら、俺にもあの手が伸びるんじゃねえかと思った」
自分の右手へ目が落ちた。
「でもよ、リュカを抱えて走ってる間、あの火が消えるなとも思ってた。お前が止まれば、次はこっちだ。こいつを運び切るまで頼むってな」
ボルグは、隣の寝台を見た。
「だから礼は言う。助かった。俺も、あそこにいた連中もな」
マシュウはすぐに返事ができなかった。代わりに、杯を置いた台へ右手を伸ばした。水を飲みたかったのではない。自分の指を動かして、何かに触れておきたかった。
「俺は、後ろも見られなかった」
ボルグがこちらへ目を戻した。
「声は聞こえてた。三人を運んでるって。でも、そっちを向こうとしても、身体が動かなかった」
「……そうか」
「あの姿のときは、俺が動かしてるんじゃない。次に見ても、気軽には近づかないでくれ」
ボルグの手が膝の上で止まった。問いかけるように口が開き、マシュウの左腕へ目を移してから閉じる。
「わかった。覚えとく」
短い返事だった。
その大きな手が、今度は途中で止まらず、右肩へ置かれた。
「今のお前には、触っていいんだな」
「……ああ」
「なら、まず身体を治せ。話はちゃんと座れるようになってからだ」
肩を軽く叩かれた。ボルグは立ち上がると、入口から顔を覗かせたディーンへ、こちらへ来いと顎を動かした。
「坊主どもを見ててくれ。俺はもうひと働きしてくる」
「俺もずっと働いてんだけど」
「知ってる。終わったら飯代は持つ」
「今の、忘れんなよ」
ディーンはそう返して、片手に下げていた地図筒を持ち上げた。
*
「それ、俺の……」
寝台から声がした。
リュカが目を開けていた。顔色はまだ悪く、腕を持ち上げかけて、腹へ戻す。マシュウは名前を呼ぼうとしたが、リュカの方が先にこちらを見た。
「生きてたか」
「お前もな」
二人で見合った。それだけで笑いそうになり、先にリュカが眉を寄せた。
「笑わせんな。腹にくる」
「何も言ってねえだろ」
ディーンが地図筒を寝台の脇へ置いた。
「落ちてた道具、拾える分は拾った。弓はあとで見てくれ。こっちは蓋が閉まってたから、中までは汚れてねえと思う」
リュカは筒へ指を触れた。確かめるように撫で、しばらく、そのままにしていた。
「籠の人たちは?」
「四人とも下りた。あの子供、お前らに礼を言いたがってたぞ」
リュカの口元が緩んだ。筒から手を離し、枕へ頭を戻す。
「……そっか」
「そう。だから次は君たちが、ちゃんと帰らないとね」
入口から、ヴァレクの声がした。
冒険者二人が担架を運び込んできた。固定された左脚は布の上へ伸ばされ、ヴァレク自身も、身体を起こせず横たわっている。それでもマシュウと目が合うと、いつものように笑った。
「やっと話せる。二日も待ったんだよ、マシュウくん」
「お前だって、昨日までまともに起きてなかっただろ」
ディーンに言われ、ヴァレクは気にせずこちらを見続けた。
「ねえ。最後の炎、どこまで覚えてる?」
「お前の脚を診る方が先だって、さっきも言ったでしょう」
担架の後ろからエッダが来た。傷の処置をするため、こちらの広い場所へ移してきたらしい。ヴァレクは不満げに息を吐いたが、脚へ手が触れると顔を強張らせた。
そのそばで、リュカが口を開いた。
「あの柱のとき、助かった。ありがとな」
ヴァレクが目だけを向けた。
「君、あとで僕も引っ張り出してくれたでしょ」
「だからって、礼くらい言うだろ」
「じゃあ、どういたしまして」
さらりと答えて、視線がマシュウへ戻った。
「それで、さっきの続きなんだけど」
「お前、少し黙って診てもらえ」
マシュウが言うと、ヴァレクはようやく口を閉じた。笑みは残っていたが、脚の布を外される間、指は担架の端を強く握っていた。
「……うるさいと思ったら、ここにいたのね」
仕切りの向こうからレティシアが言った。エッダが布を少し寄せると、向こうの寝台が見えた。左腕を吊り、枕に背を預けている。杖は、すぐ横へ立てかけられていた。
マシュウを見る目が細くなった。
「顔色、ひどいわよ」
「そっちもな」
「知ってるわ」
言い返した唇が、少し震えた。彼女は目を伏せ、膝へ置いた右手を握り直す。
「あなた、血の上を這ってたでしょう」
マシュウは黙った。
「呼ぼうとしたの。もう動かないでって。でも声が出なくて、そのうち、あなたまで見えなくなって」
言葉が切れた。レティシアは息を整え、もう一度顔を上げた。
「助けてくれて、ありがとう」
「俺も、お前の水に助けられた」
「最後は、破られたわ」
「それまで何回、守ったと思ってる」
レティシアは、しばらくマシュウを見ていた。やがて杖へ右手を伸ばし、柄に巻いた布を指で押さえた。
「……次は、最後まで守る」
「俺も、もう少し早く逃げ道を作る」
リュカが言った。ヴァレクが横から何かを言いかけ、脚の痛みに息を詰める。エッダに睨まれると、今度は諦めて目を閉じた。
マシュウは三人の顔を見た。
地面へ伏せていた顔も、血の気を失っていた唇も、今は動いている。文句も、礼も、次の話も、自分へ届く。
ここへ戻りたかった。
あの炎の中で、ずっと。
「ディーン。紙、あるか」
「報告なら、ボルグが書いてるぞ」
「そうじゃなくて。学園に、手紙を出したい」
ディーンは頷き、荷物の中から紙を出した。筆と、下へ敷く薄い板も借りる。身体を起こせないマシュウのため、板を置く高さを直してくれた。
最初に、ネラ、フェリクス、エリオの名前を書いた。
何から伝えるか、少し考えた。飛竜の大きさも、壊れた町のことも、書こうと思えばいくらでもあった。
けれど、最初の一文は決まっていた。
――四人とも生きてる。
続けて、大怪我をして治療を受けていること、すぐには帰れないことを書いた。無傷だったふりはできない。顔を合わせたら、ネラにはきっと怒られる。
それでも、帰ったらまた四人で飯を食おうと書いた。
「俺にも、一枚くれ」
リュカがディーンを呼んだ。
「爺ちゃんに。ガルドナの続きを、まだ書いてなかった」
マシュウは筆を止め、隣を見た。リュカは紙を受け取り、地図筒の蓋へ指を添えていた。震える手をディーンに支えてもらいながら、自分で開けようとしている。
残り八回という数は、胸の奥にあった。
それを使わずに、次の町へ行く。そのために何ができるかを、身体が治ったら、この三人と考えよう。
マシュウは紙へ目を戻した。帰ってからの約束を、もう一行だけ書き足した。




