第65話 怒りの炎
ボルグは、盾を持ち上げたまま動けなかった。
炎が背へ流れている。つい先ほどまで、血の中を這っていた少年の髪だった。頬から首筋へ浮いた鱗が赤く照り、横顔の中で、縦に裂けた瞳孔が飛竜を追っている。
マシュウだ。
そうわかっているのに、名前が出てこなかった。唇を吊り上げたその顔を見て、盾の陰にいた冒険者が一歩退いた。呼びかけようとした口が、開いたまま止まっている。
「霊融……なのか」
誰かが、掠れた声で言った。
ディーンは剣を握り直そうとして、指を滑らせた。瓦礫の向こうでは、レティシアが顔をわずかに上げていた。炎の髪を見た途端、その目が大きく開く。何かを言いかけた唇は、震えただけだった。
血を吐く音がした。
ヴァレクだった。咳に肩を揺らし、石畳へ赤いものを吐き出している。潰れた左脚は動かない。片肘で身体を支えようとして失敗し、それでも、顔だけは炎へ向けた。
血のついた歯が見えた。口元が広がる。痛みに歪んでいた顔へ、満面の笑みが浮かんだ。目尻まで嬉しそうに細めたその表情に、そばの術師が息を呑んだ。
「……そう、だよ」
ヴァレクはまた血を吐いた。拭いもせず、笑ったまま息を継ぐ。
「それが……見たかったんだ、マシュウくん……」
飛竜が吼えた。開いた右翼から風が噴き出し、石畳の破片が宙へ巻き上がる。ボルグが盾を構え直すより早く、マシュウの右腕に炎が集まった。
「焔龍爪!」
振り抜かれた腕から、三本の爪が伸びた。少年の身体よりも大きい、炎の龍爪だった。風の壁へ突き刺さり、押し留められたかに見えた次の瞬間、爪の先がその向こうへ抜けた。
飛竜の顎から首へ、三筋の傷が走った。捲れた鱗の間から血が噴き、その血ごと炎が巻き上げる。巨体が横へ傾き、頭が荷揚げ場を削って滑った。ボルグの足元まで、石を砕く振動が伝わってくる。
さっきまで、誰も押し返せなかった相手が。
盾を握る手が汗で滑った。ボルグはそれを握り直し、炎の向こうで横たわる三人を見た。今なら届く。動け、と自分の脚を叱りつけた。
「ディーン! 綱を張り直せ!」
怒鳴りながら盾を下ろす。止まっていた術師の肩を掴み、血の中へ倒れている三人を指した。
「先に腹をやられた坊主だ! 俺が運ぶ。押さえる手を離すな!」
土を崩れた足場へ押し上げる。今度は、風に削られなかった。飛竜の首がマシュウを追い、噴き出す風ごと、荷揚げ場の向こう側へ押し返されていた。
ボルグは足場を渡った。背後から術師と二人の冒険者が続く。リュカを抱え上げると、腹へ当てられた布がたちまち赤くなった。
「おい、目を開けろ。リュカ、聞こえてるか!」
返事はなかった。ボルグは抱える腕に力を込め、張られた綱へ肩を寄せた。ディーンが身を乗り出し、二人を壁際へ引き寄せる。
レティシアの脇へ布を押し当てた冒険者が、助けを呼んだ。ネイレアの青い手がその布へ重なった。もう一人が、ヴァレクの曲がった脚へ添える板を差し入れている。
その間にも、石を砕く音は止まらなかった。
*
右腕を振り抜いた感触が、肩へ残っていた。
炎の爪がほどけ、赤い火の粉となって落ちていく。マシュウは、その中から現れた自分の指を見ていた。今の魔法を使おうと考えた覚えはない。どれだけの魔力を注いだのかさえ、わからなかった。
折れた左腕は垂れたままだった。踏み出すたびに揺れ、痛みが頭の奥へ突き刺さる。それでも足は止まらず、口からは、低い笑いが漏れていた。
飛竜が頭を起こした。首の傷から煙を噴き、残った右翼で石畳を強く叩く。風が地面を走った。飛び退こうとしている。マシュウにも、その動きは読めた。
「逃がすかよ。焔龍獄!」
右手が開いた。
溢れた炎が石畳を這い、飛竜の後脚へ絡みついた。尾のように長く伸びた炎の先が持ち上がり、牙の並んだ龍の頭を形作る。赤い胴が巨体を一巡し、翼の付け根をまとめて締め上げた。
羽ばたきかけた右翼が止まった。飛竜が首を反らし、全身から風を噴き出す。炎の龍の輪郭が激しく揺れたが、その顎は胴へ食い込んだまま離れない。
マシュウの身体は、開いていた右手を握った。
炎が締まった。鱗が焼ける音とともに、飛竜の後脚が折れ曲がる。持ち上がりかけた腹が地面へ叩きつけられ、吐き出された息が石の粉を吹き散らした。
「そうだ。そこで這ってろ」
自分の声が、愉快そうに言った。
足が地面を蹴った。飛竜が首を回すより早く、その肩へ着地する。右手が炎の輪の上から右翼を掴み、鱗へ指を食い込ませた。
あの翼だ。
リュカを引き裂いた石を飛ばし、ヴァレクの脚を奪い、レティシアの水を吹き散らした。腹へ重ねたリュカの指から血が洩れていた。名前を呼んでも、もう顔を上げなかった。
折れろ。
胸の奥から湧いたその願いを、マシュウは否定できなかった。
片足が翼の根元を踏みつけた。右腕が引かれる。飛竜は身体を捩ろうとしたが、焔龍獄の胴が焼けた鱗へさらに深く食い込んだ。
「ほら。さっきみてえに振ってみろよ」
翼の根元が曲がった。曲がってはいけない方へ、ゆっくりと。
飛竜が噛みつこうとした。炎の龍が首をもたげ、その鼻面へ牙を立てる。悲鳴を聞きながら、マシュウの身体は、踏みつけていた足へさらに力を込めた。
根元の鱗が剥がれ、血が噴いた。翼膜が裂け、引き延ばされた筋の奥で白い骨が折れる。それでも残った肉を、胴を蹴り離す勢いで引き千切った。
右翼が、抜けた。
もぎ取られた翼が投げ捨てられ、石畳を跳ねた。大きく開いた翼膜が、血で濡れた地面へ覆いかぶさる。飛竜は炎の輪の中で暴れ、翼のない肩を何度も持ち上げようとしていた。
マシュウの喉から笑いが漏れた。
笑うたびに、裂けた脇腹が引き攣れた。痛みで息を止めようとしても、身体は言うことを聞かない。炎を握る右手も、次の一歩を踏み出す脚も、まだ声の主のものだった。
尾が横から迫った。
飛び越えた身体が、着地と同時に踵を落とした。尾の付け根で硬いものが砕け、先端が一度跳ねたきり動かなくなる。飛竜が身を起こそうとすると、拘束していた炎の龍がその胴を横へ引き倒した。
骨の折れていた左翼が、巨体の下敷きになった。
マシュウには、その根元が見えた。レティシアの水で体勢を崩し、ヴァレクの重力で押さえ、仲間とともに折った翼。首へ刻まれた傷にも、リュカの矢と、自分たちの魔法が残っている。
みんなで、あそこまで追い詰めた。
こいつはもう飛べない。終わらせろ。早く仲間のところへ――。
「三人目、通すぞ! 下から板を支えろ!」
ボルグの声が聞こえた。
マシュウは振り向こうとした。リュカたちを運んでいる。無事に向こうへ渡れたか、確かめたい。けれど首は動かず、倒れた飛竜へ視線を据えたままだった。
「まだ吐けるだろ」
その声に応えるように、飛竜の喉が膨らんだ。傷ついた首の鱗の間で、青白い光が瞬く。開いた顎の奥に風が集まり、石畳を削りながら引き込まれていった。
右手が、その口へ突っ込まれた。
圧縮された風が腕を裂こうとした。鱗を覆う炎が弾け、赤と白の光が牙の間から噴き出す。その中で、指は下顎の縁を掴んだ。
「その口で、よくもやってくれたなあ」
膝が鼻先へ打ち込まれた。頭が横倒しになり、その上へ足が乗る。上顎を地面へ踏みつけたまま、右腕が下顎を引き上げた。
口の端が裂けた。
血が腕へ降りかかる。飛竜の後脚が石畳を掻いたが、胴を巻く炎から逃れられない。首を振るたび裂け目が頬の奥へ伸び、やがて顎の片側が鈍い音を立てて外れた。
溜め込んでいた風が横へ噴き抜けた。崩れた倉庫の壁が砕け、梁が谷へ落ちていく。マシュウの身体は、裂いた口を放さず、その喉の奥を覗き込んだ。
「今度は、てめえが喰らう番だ」
マシュウは、胸の奥が焼けるのを感じた。
炎が喉を上ってくる。吸おうとした息が勝手に止まり、顎が開かされた。自分の腹から、聞き覚えのある魔法の名が吼えるように飛び出した。
「焔龍咆ッ!!」
口から噴き出した炎が、飛竜の喉へ突き刺さった。
中心が白く輝く、太い炎の奔流だった。飛竜が吐き返した風が正面からぶつかり、一瞬、二つの光が牙の間で膨れ上がる。
押し切れ。
マシュウは、炎の向こうを睨んでいた。レティシアの血に染まった服が、動かなかったリュカの胸が、頭から離れない。二度とあいつらへ、その牙を向けるな。
炎が風を呑み込んだ。
太い首が内側から赤く透けた。悲鳴は途中で潰れ、後脚が跳ねる。顎を握る右手は離れず、喉へ押し込まれた炎が、胴の中まで一息に貫いた。
首の傷から火が噴いた。次いで翼を失った付け根からも噴き上がり、腹の底で何かが弾ける。飛竜の身体が大きく反り、重い音を立てて落ちた。
それでも、炎は止まらなかった。
マシュウの胸に、リュカの冷え始めた指の感触が蘇った。もっと焼けという思いが湧く。その奥で、もういい、早くあいつらのところへ戻してくれと叫んだ。
声にはならなかった。
ようやく炎が細まり、自分の口が閉じた。焼け崩れた顎を放すと、飛竜の頭が地面へ転がる。胴へ巻きついていた炎の龍もほどけ、傷口に残った火だけが細く揺れていた。
片翼を失い、もう片方も潰れた巨体は、動かなかった。
「……くたばったか」
不満そうな声がした。
助かったのだと、マシュウは思った。あの牙は、もう仲間へ届かない。身体の力を抜こうとしたが、拳は握られたままだった。
膨れ上がった怒りの出口を探すように、喉が低く鳴った。
そのとき、右の指先から火が剥がれた。
「……あ?」
手が目の前へ持ち上がった。鱗の間で赤い光が細くなり、背を流れていた炎の髪が縮んでいく。
「ちっ。もう切れやがった」
声の主が舌打ちした。握り直した拳へ火が戻ることはなく、最後の鱗が皮膚へ沈む。
身体を起こしていた力が、消えた。マシュウは膝をついた。脇腹が引き裂かれるように痛み、左腕の重さに身体が傾く。倒れかけて出した右手が、今度は自分の意思で地面を捉えた。
戻った。
そう思った途端、肘が崩れた。
*
ボルグは、炎が消えるのを見て走った。背後の冒険者も続いてきた。誰も勝鬨を上げなかった。もぎ取られた翼を避け、裂けた顎を見ないようにしながら、血の中へ倒れた少年へ膝をつく。
ボルグは裏返りかけた身体を支えた。左腕には触れず、脇腹へ布を当てる。血は、まだ流れていた。
「聞こえるか。マシュウ」
少年の瞼が動いた。瞳孔は丸く戻っていた。こちらを見ようとして、うまく目が合わない。血に濡れた唇が開いた。
「みん……な」
「ああ。三人とも運んだ。今、手当てしてる」
それを聞いて、少年の指がわずかに動いた。ボルグの袖を掴もうとして、その手前で落ちる。
「生き、て……」
「生きてる。お前もだ。だから、目ぇ閉じるな」
脇腹を押さえる手へ、別の術師の掌が重なった。淡い光が布の下へ染み込み、止まらなかった血の流れが少しずつ鈍る。
「運んでくれ。このまま術を続ける」
ボルグは頷いた。差し出された担架へ少年を移す。その下で、まだ石畳は熱を持っていた。
綱を張った通路の向こうから、エッダが指示を飛ばしている。
「そっちは頭を支えて! 手が足りない、動ける人はこっちへ!」
リュカのそばには二人がつき、腹の布を押さえ続けていた。レティシアは冒険者の上着をかけられ、呼吸を確かめられている。曲がった脚を板で固定されたヴァレクが、担架の上から、運ばれてくるマシュウへ目を向けた。
もう声は出さなかった。血で汚れた唇の端だけが、嬉しそうに上がっていた。
ボルグは担架を下ろし、マシュウの顔を見た。ついさっき飛竜の顎を引き裂いた顔から、笑みは消えていた。苦しげに眉を寄せ、仲間の声を探すように、薄く目を開いている。
救われた。ボルグはそのことを疑わなかった。
それでも、傷へ添えられた少年の右手がわずかに動いたとき、自分の肩が強張るのを、止められなかった。




