第64話 この身体を渡しても
マシュウの靴先で、石畳が裂けた。
爪先を引いたところへ、細い風が走る。飛竜の口は閉じていた。折れた左翼を引きずったまま、鱗の隙間を青白く光らせている。その光が背へ広がるにつれて、足元の石が震え始めた。
「首を下げろ! 今、仕留める!」
マシュウは地面を蹴った。グラウムの腕が下がり、飛竜の顎が沈む。レティシアの水がそこへ巻きついた。右拳へ炎を集め、焼けた喉へ踏み込む。
拳は届いた。裂けた傷から血が散り、太い首が後ろへ跳ねた。
その瞬間、飛竜の全身から風が噴き出した。
腕へ纏わせた炎が引き延ばされる。踏み込んだ足が石ごと浮いた。マシュウは左手を伸ばしたが、掴んだ石畳まで剥がれ、身体ごと後ろへ放り出された。
背中を打った。息が止まり、視界が揺れた。その向こうで、ネイレアの青い腕が大きく開く。
「レティシア、伏せて!」
水の壁が膨らんだ。飛んできた鉱石を受け止め、砕けた荷車を上へ弾く。その下でレティシアが杖を突き出した。壁から伸びた流れが、飛竜の右の翼へ絡みつく。
「ヴァレク、そっちを――」
「わかってる!」
黒い輪が狭まり、翼の爪が地面へ沈んだ。グラウムの足元で石が砕ける。二人の力に押さえられた飛竜は腹を落とし、それでも、折れた翼の下から風を噴き続けた。
マシュウは立ち上がった。脇腹が痛む。だが、まだ走れる。水の壁の脇へ出ようとしたとき、飛竜の尾が石床を叩いた。
水の下を、砕けた地面が走ってきた。
足場が跳ねた。レティシアの身体が浮き、崩れた荷台へ背中から落ちる。折れた板の端が脇へ食い込んだ。彼女が口を開いたが、声は出なかった。
「レティシア!」
マシュウは飛びつき、肩を抱いて引き起こした。外套の下が濡れている。水かと思って指を入れると、掌へ熱いものが広がった。
血だった。
レティシアはそこを押さえようとした。左腕が上がらず、右手から杖が滑る。マシュウが拾って握らせると、白くなった唇が動いた。
「まだ……水、を」
「喋るな。下がるぞ」
ネイレアが二人の前へ回った。髪から流れる水が石片を弾き、そのたびに青い姿が揺れた。レティシアを岩陰へ引きずり込む間にも、マシュウの腕を血が伝って落ちていく。
「ボルグ!」
「こっちだ! 壁沿いに来い!」
声のした方へ目を向けると、ボルグが盾を斜めに構えていた。その下で、額を割った冒険者を仲間が運んでいる。盾の補強に盛られた土は、既に半分近く削れていた。
飛竜が首を振り、水の帯を引きちぎった。
マシュウはレティシアを岩陰へ預け、火炎矢を撃った。炎が飛竜の頬で弾ける。続けて顎へ打ち込むと、こちらへ牙が向いた。
「リュカ、道を!」
「作ってる! そっちから回れ!」
岩壁沿いに、土の足場がせり上がった。下の階段は崩れていたが、鉱車の通る細道にはまだ繋がっている。リュカがその縁を押し固め、ディーンが張った綱へ冒険者を送っていた。
マシュウは飛竜を見据えたまま、横へ動いた。牙の届くところまで近づき、火を放ってすぐに離れる。裂けた口から血が噴く。左翼は折れたままだ。後脚で追おうとすれば、その翼が引っかかって巨体が傾く。
傷は効いている。今は、それでいい。
全員が壁際へ渡るまで、こっちを向かせておく。
「マシュウくん、伏せて!」
ヴァレクの声に、身体を沈めた。
頭上を尾が通り過ぎた。黒い輪がその先へ食い込み、軌道が下がる。それでも長い尾は止まらず、荷揚げ用の鉄柱へ激突した。
柱が折れ、綱が跳ねた。
足場を支えていたリュカの身体が引かれる。ヴァレクが手を伸ばし、重力で彼を地面へ引き留めた。もう片方の手で剣を振り、腰に繋がっていた紐を断つ。
その頭上へ、鉄柱が倒れてきた。
マシュウは叫んだ。ヴァレクが顔を上げたが、間に合わなかった。斜めに落ちた柱が左脚を地面へ押しつけ、鈍い音を立てた。
「が、ぁ……っ!」
ヴァレクの背が反った。剣を握っていた手が開き、石畳を掻く。マシュウは駆け寄って柱へ両手をかけ、持ち上げた。リュカがその肩を掴んで引き出す。
左脚が、不自然な向きに曲がっていた。
「こっち、運ぶぞ!」
リュカが脇へ腕を通した。ヴァレクは何か言おうとして、息を詰まらせた。立てない。それでも飛竜を見て、血のついた左手を持ち上げる。
「グラウム……頭、を……」
黒鉄の巨体が動いた。飛竜の鼻先が地面へ叩きつけられる。リュカがヴァレクを引く。その横へマシュウが入ろうとしたとき、右の翼が持ち上がった。
風に砕かれた石が、横から飛んできた。
リュカの身体が折れた。
腹を押さえた手の下から血が流れた。ヴァレクを支えていた肩が落ち、二人が一緒に崩れる。リュカは片手を地面へついたが、すぐに肘が曲がった。
「リュカ!」
マシュウは二人の前へ飛び込んだ。地面を擦って迫る翼の爪が見えた。右へ避けられる。足を蹴り出しかけて、背後で動かない二人を見た。
踵を止め、両腕へ炎を纏わせた。
爪を横から殴り、軌道を外へ押す。爪先は逸れた。だが、その根元が左腕へぶつかった。
骨が折れる音を、聞いた。
「ぐ、ああっ!」
腕が胸へ押し込まれ、息が潰れた。足が滑り、身体が飛ばされる。マシュウは右手で飛竜の翼を押し返し、どうにか二人の脇へ落ちた。
左腕が動かなかった。手首を持ち上げようとしても、肘から先がついてこない。歯の根が鳴るほどの痛みを噛み殺し、右手だけで身体を起こす。
リュカがすぐそばにいた。腹へ重ねた手が赤い。指の間から、止まらず血が洩れていた。
「押さえろ。手を離すな!」
言うと、リュカがこちらを見た。頷こうとした頭が、石畳へ落ちる。マシュウは彼の手の上へ右手を重ねた。
熱い。こんなに流れたら、駄目だ。
指へ力を込めると、リュカの唇が震えた。
「ま、だ……道……」
「いい。もういいから、俺を見ろ!」
リュカの目が揺れた。返事はなかった。さっきまで石を持ち上げていた手から、少しずつ力が抜けていく。
向こうで、ヴァレクが咳き込んだ。口元から赤いものが落ちた。腹を押さえて横を向き、それでも左手を飛竜へ向けようとする。浮かんだ黒い輪は、閉じる前に薄れた。
「マシュウ、くん……上……」
その声で、顔を上げた。
飛竜の首が、岩陰へ向いていた。レティシアが杖を支えに身体を起こしている。脇から腰へ流れた血で、衣服の色が変わっていた。
ネイレアが前へ立ち、水を集めた。
吐息が、そこへぶつかった。
水が大きく膨らんだ。レティシアの足が引きずられ、杖の先が石を削る。マシュウはリュカの手を傷へ押しつけ、立ち上がった。
間に合え。
裂けた水の間へ、身体を捻じ込んだ。
右拳の炎が風とぶつかる。胸を押し返されながらも、マシュウはレティシアへ肩を当て、岩の低い方へ押し倒した。二人の頭上で水が破れ、鋭い風が脇腹を裂いた。
全身が強張った。
何が起きたのか、すぐにはわからなかった。右の脇が熱い。そこへ肘を寄せると、服の下から血が溢れた。足から力が抜け、レティシアの横へ膝をつく。
「マシュ……」
レティシアがこちらへ手を伸ばした。その指が頬へ届く前に落ちた。目は開いている。けれど、呼んでも焦点が合わなかった。
マシュウは右手を伸ばしかけ、止めた。
リュカの血を押さえなければ。レティシアを運ばなければ。ヴァレクも、あそこから動けない。
片方の腕が、上がらない。
息を吸った途端、胸に激痛が走った。咳と一緒に血を吐き、石畳へ右手をついた。腹の下へ赤い滴が続けて落ちる。
「坊主! そこを動くな、今――」
ボルグの声が、轟音に呑まれた。
荷揚げ場の中央が崩れた。土で持ち上げかけた足場を風が削り、ボルグの盾ごと向こうへ押し戻す。ディーンが綱を投げたが、途中で煽られ、岩の向こうへ消えた。
飛竜の爪が、その間へ下りた。
逃げ道が見えなくなった。
マシュウは右腕で身体を引いた。膝を動かすたびに脇腹が開く。自分の血の上を這い、レティシアの前から、リュカとヴァレクのいる方へ身体をずらした。
せめて、三人より前へ。
それだけの距離なのに、右手が震えて、何度も滑った。
『ひでえ面だな、おい』
笑い声がした。
耳を塞ぐこともできない。胸の奥へ食い込み、内側から頭を揺する、あの声だった。
『まだ立つ気か。折れた腕ぶら下げて、何ができるってんだよ』
うるさい。
マシュウは右手を握り、炎を作ろうとした。火は灯った。だが、腕を持ち上げた途端に腹が引き攣れ、肘が落ちた。
地面で炎が散った。
『見ろよ。てめえがもたついてる間に、あのガキ、動かなくなったぞ』
リュカの指が、傷から滑り落ちていた。
マシュウは名前を呼んだ。喉に血が絡み、声にならなかった。リュカの胸が小さく動く。次の息までが、ひどく長かった。
レティシアも動かない。ヴァレクの左手が石畳を掻いたが、もう黒い輪は浮かばなかった。
『守るんじゃなかったのかよ。ああ?』
マシュウは唇を噛んだ。
『そいつらがくたばるまで、そこで這ってるつもりか。だったら最後まで見てろ。目ぇ逸らすんじゃねえぞ』
飛竜の口が開いた。
牙の間へ白い風が集まる。ネイレアがかき集めた水は、岩の前へ広がるより早く吹き散らされた。グラウムが腕を上げる。その指が曲がりきる前に、飛竜の首がこちらを向いた。
マシュウは右膝を立てた。身体を起こせなかった。力を込めた分だけ血が流れ、指先が冷えていく。
『寄越せ』
声が、低くなった。
『その身体、俺に寄越せ。てめえじゃ、もう誰も助けられねえ』
ヴァレクを焼いていた自分の指を思い出した。やめろと叫び続けても、拳は止まらなかった。血と焦げた臭いの中で、自分の口だけが楽しそうに笑っていた。
あれに、もう一度。恐怖で喉が詰まった。
背後から、レティシアの掠れた息が聞こえた。リュカの血が石の隙間へ流れている。ヴァレクは目を開けたまま、こちらを見ていた。
ここで終わらせたくない。マシュウは顔を上げた。
あいつを殺せ。俺の仲間には、手を出すな。
『注文つけてる場合か、クソガキ。さっさと名を呼べ!』
白い光が、飛竜の口いっぱいに膨れた。
マシュウは残った息を吸い込んだ。胸が軋み、腹から血が溢れた。それでも口を開き、喉を裂くほど叫んだ。
「焔龍顕現ッ!!」
胸の奥で、何かが喰いついた。
熱が身体を突き抜けた。背が反り、歯が勝手に噛み合う。吸おうとした息を喉ごと奪われ、右手が地面を掴んだ。
違う。立とうとしたのは、マシュウではなかった。
膝が伸びた。裂けた脇腹が引き攣り、血が足元へ落ちる。折れた左腕が揺れた。痛みは消えていない。悲鳴を上げようとした口から、低い笑いが漏れた。
『引っ込んでろ。もう、てめえの出る幕じゃねえ』
右手に細かな鱗が浮かんだ。髪が燃え上がり、長い炎となって背へ流れる。マシュウはリュカへ顔を向けようとした。首は、動かなかった。
目の前の飛竜だけを、瞳が捉え続けている。吐息が来た。
勝手に持ち上がった右手が、その真ん中へ突き出された。掌から噴き出した炎が白い奔流を押し潰す。衝撃で地面が砕けたが、身体は下がらなかった。
「その程度かよ」
自分の声だった。仲間の名前を呼ぶはずだった声で、身体を奪った何かが笑っていた。
右手が握られる。炎が風の中を食い破り、飛竜の顔へ届いた。閉じかけた顎の隙間へ赤い火が潜り込み、巨体が仰け反る。
マシュウの身体は、その悲鳴を聞いて笑みを深くした。
「口を閉じんなよ、蜥蜴」
血の流れる脇腹を押さえることもなく、足が前へ出た。
「腹の中まで、焼いてやる」




