第63話 二人の契約者
飛竜の顎が、石畳ごと噛み砕いた。
跳ねた石が頬をかすめる。マシュウは身を沈めたまま首の横へ抜け、踏み込んだ足で地面を噛んだ。まだ口が閉じきっていない。その下へ、炎を纏った拳を突き上げる。
硬い手応えが、肩まで返ってきた。鱗が割れ、飛竜の頭が跳ねた。開いた口から唾液と石のかけらが飛び散る。マシュウは引いた拳をもう一度握り、浮いた喉へ踏み込もうとした。
足元の影が動いた。
翼の爪だ。横へ跳ぶと、さっきまで立っていた石畳が捲れ上がった。地面へ触れた左手を支えに身体を返し、追ってくる顎から離れる。
速い。あの巨体で、二撃目がもう来るのか。
マシュウは左手へ炎を作った。撃つより早く、背後から水が首へ巻きついた。レティシアが杖を横へ引き、飛竜の牙を逸らす。
「そのまま、もう一度!」
「わかった!」
水の帯の下へ潜り込む。先ほど焼いた首の傷が見えた。右拳を引いた瞬間、飛竜の翼が大きく開いた。
風が腹へぶつかった。
踵が浮く。マシュウは石の継ぎ目へ足を掛け、身体を低くした。目の前を長い尾が薙ぎ、倉庫の角が砕け散る。
届かない。爪が地面を離れ、飛竜が跳び上がった。レティシアの水を引きずったまま、屋根より高く昇っていく。首の傷から落ちた血が、マシュウの手の甲へ散った。
「離れろ、下に残るな!」
ボルグの声が飛んだ。盾を構えた冒険者たちが、崩れた壁から負傷者を引きずり出している。飛竜はその頭上を通り過ぎ、谷へ身を投げた。
逃げたのかと誰かが叫んだ。
「違う、回ってくるぞ!」
マシュウは荷揚げ場の端へ走った。谷底へ落ちた灰色の背が、崖に沿って傾いている。あそこから上がれば、こちらの弓手を横から襲える。
飛竜の翼へ、何本もの矢が向かった。二本が膜を裂いたが、残りは突風に弾かれ、岩壁へ散る。翼の付け根で、鱗の間が一瞬だけ青白く光った。
「右だ! 岩の陰から来る!」
通りへ向けて叫び、左手を突き出した。
「火炎矢!」
炎が谷を横切った。飛竜が首を曲げ、傷のある側を庇う。狙いを変えてもう一発撃つと、今度は翼の端へ穴が開いた。
それでも、止まらない。谷風を腹へ受け、巨体がせり上がった。翼の爪が屋根を掠め、瓦が弓手たちへ降り注ぐ。土の壁が頭上へ張り出し、その下へ皆が駆け込んだ。
マシュウは歯を食いしばった。傷は与えられる。だが、こうも飛び回られては、追い払うたびに町が削られていく。
「……好きに飛ばれるの、腹が立つね」
隣で、ヴァレクが空を見上げていた。
差し出した左手の先に、黒い輪が浮いている。飛竜の身体がわずかに沈んだが、翼が打たれると再び持ち上がった。ヴァレクは細めていた目を開き、口元へ笑みを戻した。
「グラウム。出番だよ」
足元の石畳へ、幾つもの黒い輪が走った。
輪の中央から、人の倍ほどもある影が立ち上がる。黒鉄色の身体に、膝へ届きそうな長い腕。その足が地面へ触れる前に、小石が真下へ沈んだ。顔にあたる場所で、白い二つの光が開く。
「おい……まさか、こっちも」
近くの冒険者が、ヴァレクから離れた。盾の縁へ指を食い込ませたまま、黒い巨体を見上げている。
「精霊が、二体……?」
年配の術師が呟いた。水の精霊とグラウムの間で視線を止められず、唇がわずかに震えていた。さっきまで声を張っていた男が、続く言葉を飲み込んでいる。
ヴァレクは振り向かなかった。
グラウムの長い指が、飛竜へ向いた。マシュウはその腕を知っていた。あの下で、砂から顔を上げることさえできなかった。今、白い目が捉えているのは、空を舞う灰色の翼だった。
「黒枷」
ヴァレクが手を下ろした。
飛竜の腹が、がくりと沈んだ。
翼が空を叩く。ひと打ちごとに屋根の残骸が舞い上がったが、巨体は上がらなかった。脚が縮まり、長い尾が空中を掻き回す。
グラウムの足元で石が砕けた。黒い指がさらに曲がり、飛竜の首まで下がる。
「落ちるぞ!」
誰かの叫びに、マシュウは通りを振り返った。このままでは、盾を並べた場所へ落ちる。
「ヴァレク、もう少し谷側へ!」
「わかってるよ。レティシア、そっちから押せる?」
「合わせなさい!」
レティシアが杖を振った。ネイレアの髪が幾筋もの水流へほどけ、彼女の頭上を越えていく。飛竜の腹へ太い流れが食い込み、巨体を横へ押した。
翼が水を裂く。飛び散った流れは地面へ落ちず、ネイレアの腕に導かれて再び絡みついた。首、腹、翼の付け根。三か所を押さえられた飛竜が、耳を刺す声で吼える。
「荷揚げ場を空けろ!」
ボルグが盾で合図した。冒険者たちが左右へ走り、マシュウも割れた石の上へ跳ぶ。
飛竜が落ちた。
石畳が波打ち、積まれていた鉱石が崩れた。腹を打った巨体が跳ね、その衝撃が足の裏から脊を突き上げる。マシュウは崩れる石を蹴って、灰色の首へ走った。
顎が上がった。牙の間で白い風が渦を巻く。
「そいつは、もう見たよ」
ヴァレクが踏み出し、剣を持たない手を横へ払った。グラウムの腕も動く。首が谷側へ引かれ、吐き出された風が岩壁を抉った。
石の雨が降るより早く、マシュウの拳が首の横へ届いた。
鱗が砕ける。打ち込んだ炎が傷口で弾け、飛竜の頭が石畳へ叩きつけられた。もう一撃入れようとしたところへ、後脚が振り上がる。
腹の下に残れば潰される。
マシュウは踏みとどまりかけた足を引いた。そこへリュカの矢が飛び込み、曲がった脚の内側へ突き立った。爪が下りるのが遅れ、その隙に首の前から抜ける。
「助かった!」
「まだ来る!」
リュカの声で振り向くと、尾が低く走っていた。マシュウは跳び、ヴァレクは横へ身を投げる。逃げ遅れた槍使いの前へ、ボルグが盾を据えた。
地面から伸びた石が、盾の下半分を包んだ。
尾がぶつかると、盾の縁が歪んだ。ボルグの歯の間から声が漏れ、両足が石ごと後ろへ押される。それでも、槍使いの前は空けなかった。
「下がれ! 俺の後ろへ!」
槍使いが転がり込む。ボルグは尾を受け流すように盾を傾け、空いた手の戦鎚を振り下ろした。ぶつかった場所の鱗が欠け、尾が石床を跳ねた。
マシュウはボルグの横へ戻った。
「腕は?」
「痺れただけだ。前を見ろ」
飛竜の翼が持ち上がっていた。グラウムに押さえられながら、爪のついた先端を地面へ突き立てる。その爪を支えに、腹が少しずつ浮いた。
ただ、羽ばたいているのではない。石を掴み、腕のように身体を持ち上げている。
ヴァレクが舌打ちした。黒い輪が狭まり、飛竜の足元で石が割れる。だが、岩を掴んだ爪は離れなかった。翼膜の内側へ風が膨らみ、絡みつく水まで押し広げていく。
「マシュウ!」
レティシアが呼んだ。
「左の翼、付け根を狙える?」
「首が邪魔だ。噛みついてくる!」
「私が引きつける。上がったところへ入って!」
ネイレアの手が、レティシアの肩へ重なった。
「水を集めて。首に巻いた分は、私が支えるわ」
レティシアが頷く。青い光が杖を包み、その先で水が渦を巻いた。できあがった太い槍が、飛竜の顔へ走った。
牙で噛み砕こうとした顎の間へ、水が潜り込んだ。飛竜が大きく首を振る。口の端が裂け、赤く染まった流れが噴き出した。
狙える。マシュウが一歩出した瞬間、飛竜の左脚が踏み出した。石畳を剥がしてこちらへ押しつけ、首を庇いながら身体を回す。翼の付け根が、また向こうへ隠れた。
「くそっ、回らせるな!」
リュカが弓を背へ戻し、石畳へ手をついた。
飛竜の脚の前で石がせり上がった。爪がぶつかり、一段目が砕ける。リュカは手を離さず、歯を食いしばって次の石を押し上げた。
「そこ、どけるなよ!」
ディーンが駆け抜けた。崩れた段を足場に跳び、風を纏った剣を振る。矢の刺さっていた脚の内側が裂け、飛竜の膝が落ちた。
リュカはその膝の脇へ石をせり上げた。足首を両側から挟み、飛竜が向きを変えるたびに石を押し足す。
腕が震えていた。地面に置いた指先が、白くなっている。
「長くは無理だ! 早く!」
マシュウは走った。
レティシアの水が首を引き、グラウムが背を押さえている。脇から雷の矢が飛び込み、傷ついた翼膜を焦がした。飛竜がそちらへ顔を向けかけたとき、ヴァレクがその鼻先へ滑り込んだ。
「よそ見しないでよ」
長剣が、開きかけた口の端へ入った。
血が跳ねる。飛竜の目がヴァレクを捉え、喉の奥に白いものが灯った。そこから離れろ、と叫びかけたマシュウより先に、ヴァレクが笑った。
「そう。僕を見て」
刃を引き、谷側へ跳ぶ。
飛竜の首が追った。その下をマシュウが駆け抜ける。目の前に、左翼の付け根があった。分厚い鱗の列が、翼を開くたびにずれている。
あと一歩。
翼の爪が地面を離れ、こちらへ向いた。
マシュウは止まらなかった。ヴァレクの左手が動くのが見えたからだ。黒鉄の腕が下がり、振り上げられた爪が石畳へ引き戻される。
「そこ、君が殴りたいところでしょ」
「ああ!」
マシュウは腰を落とし、右拳へ魔力を注いだ。炎が肘まで噴き上がる。近くの水が蒸気へ変わり、飛竜の鱗が赤く照らされた。
「赫牙!」
拳が、翼の付け根へ食い込んだ。厚い鱗が割れ、その奥で硬いものが折れた。腕を押し返す重さへ踏み込み、さらに炎を叩き込む。火が骨に沿って走り、翼膜へ赤い筋を広げた。
飛竜の絶叫が、耳の奥を刺した。
振り下ろされた首をかわし、マシュウは横へ抜けた。左の翼が追ってきたが、途中で折れ曲がる。爪が身体を支えきれず、巨体が荷揚げ場へ傾いた。
石畳が砕けた。張りつめていた水の帯が緩み、リュカが地面から手を離す。ディーンがその肩を掴んで引き、転がってきた鉱石から離れた。
マシュウは飛竜の前へ回った。翼は下がっている。何度持ち上げようとしても、焼けた付け根が折れ、先端が地面を擦る。飛竜の眼がこちらへ向き、牙の間から血が垂れた。
「追えるか、坊主!」
ボルグが盾を上げ直した。歪んだ縁へ、土が盛り上がって張りついていく。
「行ける!」
答えると、ヴァレクが隣へ来た。剣を握り直しながら、まだ起き上がろうとする飛竜を眺めている。
「いい音したね。もう片方も、やる?」
「次は首だ。逃がさないでくれ」
「任せてよ」
レティシアの前へ水が戻り始めた。ネイレアが肩に触れ、彼女は深く息を吐いて杖を構える。後ろではリュカが弓を取り直し、ボルグの声に冒険者たちが間隔を広げた。
飛竜はまだ立っていた。折れた翼を引きずり、後脚で地面を掻いている。マシュウは炎を握り直した。今度は、上へ逃げられる間合いではない。
そのとき、足元の小石が跳ねた。
飛竜の口は閉じていた。吐息も、まだ来ていない。それなのに、折れた翼の下から風が這い出し、石畳を削り始めていた。




