第62話 ガルドナからの依頼
「ガルドナ行きの荷は、全部止めろ」
ギルドへ入ったマシュウは、ボルグの声に足を止めた。
ネラと街へ出かけてから二日後の午後だった。授業を終え、革の上着へ着替えて来たところだ。隣のレティシアも、掲示板へ向けていた足を受付へ戻した。
ラウルが椅子に座っていた。泥のついた外套を膝へ広げ、職員に右腕を洗ってもらっている。薬箱を届けたとき、マシュウの肩を叩いてくれた腕だった。
「何があった?」
近づくと、ラウルが顔を上げた。
「……おう。お前らか」
笑おうとした口が歪んだ。布へ水が絞られる間、彼はじっと床を見ていた。
「飛竜だ。ガルドナの荷揚げ場へ下りてきやがった」
ヴァレクの指が、長剣の柄の上で止まった。リュカは開きかけた鞄を閉じ、ラウルの前へ屈む。
「クルトたちは?」
「俺が町を出たときは生きてた。上の連中を下ろすのを手伝ってたよ。だが、途中の階段が崩れちまってな」
マシュウの頭に、灯石の並ぶ階段が浮かんだ。あそこを子供が駆け下りていた。荷を背負った男が通り、窓から家族が呼んでいた。
「岩鷲のときとは違う。弓を射かけても下がらねえ。口を開いたと思ったら、荷車が横っ飛びに吹っ飛んだ」
「吐息に魔力が乗ってるのか」
マシュウが尋ねると、ラウルは頷いた。
「車輪が岩に刺さってた。あんな風、見たことがねえ」
ボルグが受付の台へ書状を置いた。ガルドナの支部から届いた、合同討伐の要請だった。
「地元の連中は避難と迎撃で手いっぱいだ。こっちからも隊を出す。俺がまとめる」
「俺も行く」
マシュウが言うと、ボルグは書状から顔を上げた。
「魔物を倒すだけの仕事じゃねえぞ。人を逃がす最中に来るかもしれん。追うなと言ったら、そこで止まれ」
「わかってる。町を空にしてまで追いかけたりしない」
ボルグが頷き、職員へ人数を伝えた。
レティシアは台の上の略図へ目を落としていた。下の通りから坑道へ、避難先を示す線が引かれている。
「水を使える人は、ほかにもいるの?」
「現地にいる。だが、傷の手当てに回ってる者も多い」
「なら、私も前へ出るわ。人が通る間、攻撃を遮る人が必要でしょう」
リュカも、その横へ自分の地図を広げた。余白に、クルトから教わった食事処が小さく描いてある。彼はそこへ触れかけた指を戻し、階段と通りを確かめた。
「崩れた場所を教えてくれ。通れなくなってる道へ、人を連れていきたくない」
「お前、あのとき描いてたのか」
ラウルの声に、リュカは頷いた。さっきまで膝へ落ちていた男の手が、紙の上へ伸びた。
ヴァレクがマシュウの隣へ来た。
「今度は、随分大きいのが飛んでるみたいだね」
「お前も来るつもりだろ」
「もちろん。あの鳥のときより、引きずり下ろし甲斐がありそうだ」
笑った頬に火傷の跡が引きつれた。マシュウはその顔を見てから、長剣へ視線を落とす。
「降ろす場所は選べよ。町の上じゃ困る」
「君が殴りやすいところにするよ」
*
学園へ届け出たあと、その日のうちに出発した。
救援隊は十六人。ボルグのほかにも四つ星の冒険者が加わり、弓と魔法を使う者、盾を持つ者で組を作っていた。ディーンは前を調べる役を受け、先頭の馬車へ乗り込んだ。
マシュウたちの引率を引き受けたボルグへ、ダリウスが門で言葉を交わした。出発前に生徒四人の顔を見て、現地でも隊を離れるなと念を押す。その声に頷いて、マシュウは馬車へ上がった。
灯石を買いに行った道を、今度は荷物を減らした馬車で急いだ。一晩を街道で過ごし、翌日には谷へ入った。以前、岩鷲に襲われた曲がり角に、灰色の羽が引っ掛かっていた。
その先で、先頭の馬車が止まった。
「ここから歩きだ。馬を下げろ」
ボルグの声に従い、地面へ下りる。街道の谷側が、荷車の幅ほども崩れていた。残った道の端に車輪が一つ転がり、折れた軸が空へ突き出ている。
ディーンが岩陰から戻ってきた。灰色の髪に白い粉がついていたが、剣はまだ抜いていない。
「町まで通れる。上は見たけど、今はいなかった」
「岩の上だけじゃ足りねえ。谷の下も見ろ」
ボルグが盾を持ち直した。マシュウも下へ目を向ける。吹き上がる風は前と変わらない。あれに乗れば、大きな身体でも崖に隠れて近づける。
町が見えても、金槌の音は聞こえなかった。
軌道の途中で鉱石の車が止まり、吊り下げられた籠が風に揺れている。窓には板が打ちつけられ、通りを走る人は皆、上空を気にしていた。
入口の先で、エッダが二人の男に指示を出していた。寝台ごと運ばれている老人の毛布を押さえながら、こちらへ顔を向ける。
「ボルグ! 来てくれたのね」
「避難先は?」
「下の古い坑道。上の診療所は使えないわ。屋根を半分持っていかれた」
エッダはマシュウにも気づいた。何か言おうとしたが、寝台が揺れたので、すぐそちらを支え直す。
マシュウは前側の脚を受け取った。坂で傾かないよう持ち上げると、老人の呻きが少し収まった。
「どこまで運ぶ?」
「そこの岩の張り出したところへ。あとは中の人が受け取るから」
寝台を運び込むと、暗がりにいくつも灯石が置かれていた。子供を抱いた女や、荷物を膝へ載せた人々が、入口を見つめている。
「上には、まだいるのか?」
「最後の組を下ろしてる。クルトが迎えに行ったわ」
外へ戻ると、ボルグは現地の冒険者と配置を決めていた。弓手が屋根のある通路へ入り、盾を持つ者が避難路に並ぶ。レティシアは共同の水槽へ駆け、リュカは閉ざされた階段の先を見上げていた。
上の乗り場に、クルトの姿があった。
籠へ人を乗せ終え、留め金を確かめている。前に巻いていた手の包帯は、もうなかった。こちらに気づくと片手を上げ、それから足元へ何か怒鳴った。
滑車が回り始めた。
その音を、警鐘が遮った。
*
谷から、岩と同じ色をした翼がせり上がった。
マシュウは籠から目を離し、半歩、通りの中央へ出た。灰褐色の鱗に覆われた胴が、向かいの屋根を隠していく。翼の骨が透けるほど薄い膜の先に、鉤状の爪がついていた。
大きい。広げた翼が、家を二軒まとめて覆っていた。
「弓、構えろ! 籠を下ろせ、急げ!」
ボルグの声とともに矢が放たれた。風を纏った一本が翼の端を貫き、血が細く散る。飛竜の頭が、射手のいる通路へ向いた。
顎の下が膨らんだ。
「伏せろ!」
マシュウが叫んだ直後、窓の板がまとめて弾け飛んだ。
白く濁った空気の塊が、通路の外壁へ叩きつけられた。石片が吹き上がり、地面を転がってくる。ボルグの前に土の壁がせり上がり、それへ砕けた瓦が次々と突き刺さった。
射手たちは伏せていた。倒れた仲間を引き、奥へ下がっている。マシュウは逃げ遅れた男の襟を掴み、壁の陰へ放り込んだ。
耳が痛い。息を吐こうとした口へ、砂が入った。
これが、荷車を飛ばした風か。
見上げると、飛竜はもう横へ流れていた。長い尾が上の乗り場を打ち、綱を支える木組みが砕ける。クルトが身を投げ出したすぐ脇を、太い横木が落ちていった。
籠が傾いた。
中から悲鳴が上がり、子供の腕が鉄の枠へしがみつく。マシュウは走り出していた。階段は途中で崩れ、籠のある高さまで続いていない。
「リュカ、壁に足場を!」
「今作る!」
岩壁が盛り上がった。一つ目を踏み、二つ目へ跳ぶ。三つ目がせり出すより早く、頭上で綱が切れた。
落ちる。
腹の底が冷えた瞬間、籠が岩壁へ激しく擦れた。鉄枠から火花が散り、落下が鈍る。
「飛ぶなら今だよ、マシュウくん!」
下でヴァレクが左手を向けていた。重力に引かれた籠が、壁へ押しつけられている。鉄が悲鳴を上げ、板床の端が割れた。
マシュウは二つ目の足場を蹴った。
枠を掴むと、籠が大きく揺れた。泣いている子供と、その母親。奥には男が二人いる。曲がった留め金を引き千切り、横木を外した。
「一人ずつだ! そこの段へ降りろ!」
リュカの作った足場が、籠の横まで伸びていた。子供を抱いて岩の段へ移し、母親をその隣へ下ろす。下からディーンが上がってきて、二人の手を取った。
「下じゃねえ、次の足場だけ見ろ! 俺に合わせろ!」
男の一人が、籠から抜け出したところで膝をついた。マシュウが腕を掴んで引き寄せる。最後の男は足を挟まれ、動けずにいた。
「抜くぞ。歯、食いしばれ」
板を持ち上げた。釘が抜け、男が叫ぶ。その身体を肩へ担いだとき、辺りが暗くなった。
翼の影だった。
振り向けば、開いた爪が迫っていた。男を担いだままでは、大きく跳べない。右手を向けるより先に、下から水の帯が走った。
「マシュウ、そのまま下りて!」
水が爪へ絡みつき、横へ引いた。飛竜の脚が軌道を外れ、籠の端を掠める。マシュウは足場へ移り、空いた右手を突き出した。
「火炎矢!」
炎が、伸びてきた首へ突き立った。鱗の間から火が噴き、飛竜が顔を背ける。熱風に目を細めながら、マシュウは男を担ぎ直して足場を駆け下りた。
あと二段。ディーンが下から手を伸ばしている。
飛竜が翼を打った。
顔を叩く風に、男の上着が激しく鳴った。マシュウは身体を低くして踏みとどまり、最後の段から飛び下りる。待ち構えていた二人へ男を渡し、すぐに上を見た。
籠の中は空だ。
「ヴァレク、離せ!」
下に人がいないのを確かめて、ヴァレクが手を下ろした。壁を擦っていた籠が落ち、鉄枠が石畳へぶつかる。潰れた音が通りに響いた。
間に合った。
マシュウは息を吐き、喉に入った砂を吐き出した。子供の泣き声が坑道のほうへ遠ざかっていく。レティシアは水を引き戻し、こちらへ駆け寄ってきた。
「クルトは?」
「上の岩陰。今、別の人が迎えに行ったわ」
彼女の指す先で、クルトが手を振った。その姿を確かめ、マシュウは拳を握り直した。
飛竜は向かいの荷揚げ場へ降りていた。
爪が石を削り、翼の端が倉庫の屋根に乗る。先ほど炎を当てた首は焦げ、鱗の隙間から血が流れていた。それでも、こちらを見据える眼には衰えがない。
顎の下で、再び空気が渦を巻き始めた。
あの口が、今度は避難路を向いている。
マシュウが手に炎を灯すと、レティシアが一歩前へ出た。杖を握る指は白かったが、その先は真っ直ぐ飛竜を捉えていた。
「今度は、私が止める」
彼女の足元で、水が青く光った。
「来て、ネイレア」
水槽から立ち上がった流れが、レティシアの背後へ集まった。青い腕が伸び、水滴の間から女性の姿が現れる。長い髪は腰の辺りで幾筋もの水流へほどけ、宙に浮く足の下へ青い輪が広がった。
「精霊……あの娘が、契約者なのか」
近くの術師が声を震わせた。矢を番え直していた男も、見開いた目を精霊へ向ける。半歩下がった肩が、隣の盾持ちへぶつかった。
ネイレアの指がレティシアの左手へ触れた途端、水槽の水が一斉に浮いた。
飛竜が吐息を放った。
レティシアが杖を振り上げる。通りを覆うほどの水が立ち上がり、白い風を受け止めた。壁が大きくたわみ、彼女の靴が石畳を削る。それでも、杖は下がらなかった。
押し返された風が、飛沫を巻き上げて空へ抜けた。
マシュウは顔にかかった水を拭った。背後の避難路には、石一つ飛んできていない。先ほどは風だけで崩れた通りに、今も二人が立っていた。
「マシュウ、行ける?」
レティシアの声に、拳へ炎を纏わせた。
「ああ。前を開けてくれ」
青い壁の端がめくれた。その向こうで、飛竜が血のついた牙を剥いている。マシュウは水が開いた道へ踏み込み、石畳を蹴った。




