第61話 ふたりで歩く帰り道
「お待たせ」
門のそばまで来てから、ネラは息を整えた。最後の廊下だけ走ってしまった。昨夜縫い直した袖をさりげなく引くと、石壁にもたれていたマシュウが顔を上げる。
「早かったな。まだ来ないと思ってた」
「あんたのほうが早いじゃない」
「教室に残ってると、誰かと話し込むからな」
彼は壁から背を離した。鞄も練習道具も持っていない。今日はこのまま、自分と出かけるために待っていたのだ。
ネラは胸の辺りがくすぐったくなり、先に門をくぐった。
「じゃ、行こ。売り切れてたら困るし」
「そんなに人気なのか?」
「知らない。初めて行くもん」
「お前もかよ」
二人で笑って、街へ続く坂を下った。
西の通りは、夕飯の買い物をする人で混んでいた。店先へ積まれた果物の間を抜けると、甘く焦げた匂いが流れてくる。ネラが足を速めるより先に、隣のマシュウが同じ方向を向いた。
焼き菓子の店は、入口の脇に小さな売り台を出していた。丸い菓子がいくつも並び、奥では店の女が焼き上がったばかりの天板を置いている。
「これ、何が入ってるんですか?」
「そっちは蜂蜜と胡桃。今出したのは梨だよ。まだ熱いから、気をつけてね」
蜜で光る胡桃も、薄い皮の間から覗く梨も、捨てがたかった。ネラは値札を見て、手の中の銅貨を数える。二つとも食べたいが、夕飯が入らなくなるほど買うつもりはない。
「どっちにする?」
マシュウに聞かれ、もう一度、端から眺めた。
「……決まんない」
「じゃあ一つずつ買って、半分にするか」
顔を上げると、彼はもう梨のほうを指していた。
「それなら両方食えるだろ」
「いいの? 半分じゃ足りなくない?」
「夕飯も食う」
「あ、それは私も」
店の女が笑って、二種類の菓子を包んだ。ネラが自分の分を払い、マシュウが残りを出す。紙越しにも温かく、早く開けたくなった。
店の奥の席は埋まっていた。女に尋ねると、裏通りを抜けた先の川沿いなら座れると教えてくれた。
「橋の手前に柳があるだろ。あの辺りが空いてるよ」
礼を言って店を離れたところへ、荷車が通ってきた。道を譲る人の流れに押され、マシュウとの間に大きな籠が割り込む。
「あ、こっち」
ネラは空いている手で、彼の袖を掴んだ。細い路地へ引っ張ってから、昨日あれほど気にしていた相手に、何も考えず触れた自分に気づく。
慌てて離すと、マシュウは菓子の包みを持ち上げた。
「助かった。潰すところだった」
「……そっちの心配?」
「せっかく買ったんだからな」
ネラは笑い、彼の一歩先を歩いた。さっき掴んだ袖の感触が、まだ指に残っていた。
*
柳の下へ腰を下ろすと、川の上を荷船がゆっくり通った。積まれた木箱の間で、犬が丸くなって眠っている。店の呼び声はここまで届かず、水音と、遠くで誰かが板を叩く音が聞こえた。
マシュウが膝に紙を広げ、梨の菓子を割った。皮がさくりと崩れ、中から白い湯気が上がる。
「うわ。おいしそう」
ネラは受け取った半分を、少し持て余した。熱い蜜が紙の底に溜まっている。指先を菓子へ向け、細い風を送った。
湯気が横へ流れる。浮きかけた紙の端を押さえると、隣でもマシュウが自分の菓子を差し出してきた。
「こっちも頼む」
「一回、銅貨一枚」
「自分で冷ます」
「そこは頼んでよ」
引っ込めかけた手を呼び戻し、二人の間へ風を通した。マシュウの前髪が揺れる。少し強すぎたので弱めると、今度は菓子の表面だけを湯気が滑った。
「よし。食べていいよ」
マシュウがひと口食べた。すぐにもう一度、手元へ目を落とす。その顔を見て、ネラもかじりついた。
薄い皮が歯の下でほどけ、柔らかい梨が舌に触れた。甘いのに、あとに少し酸味が残る。口を閉じたままマシュウを見ると、彼もこちらを見ていた。
「これ、当たりだな」
ネラは頷いた。飲み込む前に笑ってしまいそうだった。
胡桃のほうも分けた。こちらは蜜が濃く、噛むたびに香ばしい。どちらがうまいかで少し揉めてから、ネラは梨、マシュウは胡桃に決まった。
「意外。あんた、何でも同じ顔して食べるから」
「そんなことねえよ。食堂の煮豆、皿の底に残る汁が好きだ」
「あれ? 私にはちょっと甘すぎる」
「パンにつけるとちょうどいいんだよ」
何度も一緒に食事をしているのに、知らなかった。ネラは自分の胡桃の菓子を見下ろし、まだ手をつけていない角を割った。
「じゃあ、こっちあげる。梨、ひと口ちょうだい」
「いいぞ」
差し出された梨は、自分が渡した分より少し大きかった。指摘しようとして顔を見ると、マシュウは交換した胡桃を嬉しそうに食べている。ネラも何も言わずに口へ入れた。
川面で光が揺れた。向こう岸を歩く人の袖が、乾いた風に膨らんでいる。
「こういうの、昼から考えちゃった」
ネラは紙についた菓子のかけらを指で集めた。
「何買おうかなとか、どこで食べようかなとか。最後の授業、終わるの遅かった」
「わかる。俺も、鐘が鳴る前に教本しまいかけた」
「先生に見つかった?」
「まだ一行残ってるって言われた」
ネラは声を立てて笑った。自分ばかり、朝から落ち着かなかったのだと思っていた。
「そんなに焼き菓子、食べたかったんだ」
「それもあるけど。お前と街へ出るの、楽しみだったからな」
指先から、拾ったかけらが落ちた。
マシュウは自分の紙を畳んでいる。こちらが黙った理由に、気づいた様子はなかった。
「二人で歩くのって、あんまりなかっただろ」
「……そうだね」
何か、返さなければ。嬉しいと言えばいいだけなのに、今それを口にしたら、どれくらい嬉しかったかまで伝わってしまいそうだった。
ネラは最後の梨を食べた。さっきより甘く感じて、ちゃんと味わえなかったのが少し悔しい。
「私さ。前の教室、ちょっと便利だったなって思う」
「便利?」
「隣を向けば、あんたがいたじゃない。今日の実技でこんなことがあったとか、先生の話がわかんなかったとか。忘れる前に言えたから」
今は夕飯の頃には、話したかったことが一つ二つ抜けている。ほかの誰かと話している彼を見ると、あとでいいかと思うこともあった。
「今のクラスにも、よく話す子はいるよ。この間なんか、実技のあと誰の靴かわかんなくなって、みんなで履き直したんだから」
「どうやったらそうなるんだよ」
「泥だらけだったの! 洗って並べてたら、途中から全部同じに見えてきて」
マシュウが肩を揺らした。ネラも笑ったが、そこで話を終わらせず、紙を持つ手を膝へ下ろした。
「でも、あんたにも聞いてほしかった」
川を見たまま言った。遠くで荷船が橋をくぐっていく。隣から返事が来るまでが、思ったより長く感じられた。
「聞くよ。今みたいに話してくれれば」
「いつも、練習してるじゃない」
「途中でも声かけろって。話しながら休めばいいだろ」
「休み時間じゃ足りなかったら?」
「今日みたいに出かけるか」
ネラはようやく彼を見た。マシュウは本当に、それでいいと思っている顔だった。こちらの気持ちの全部は、たぶんわかっていない。それでも、またこうして会うことを、少しも面倒だと思っていない。
「じゃあ、また誘うよ」
「おう。俺も誘う」
「……今の、忘れないからね」
「そんな忘れっぽくねえよ」
マシュウが笑った。ネラは紙を畳み、縫い直した袖の上へ手を重ねた。昨日、思い切って誘ってよかった。
*
帰りは、来たときより通りが混んでいた。閉め始めた店の前へ荷物が出され、その間を仕事帰りの人々が通っている。
ネラはマシュウの袖へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「ねえ、手、貸して」
「包みか?」
「違う。こっち」
差し出された手を取った。指のつけ根に触れた瞬間、胸がどんと鳴る。さっき袖を引いたときとは違った。自分で言って、自分から握っている。
「はぐれたら面倒だから」
「ああ。じゃあ、こっち通るぞ」
マシュウが握り返し、人の少ない側へ進んだ。強く引っ張ることはなく、ネラが荷物を避けると、その分だけ歩く速さも緩む。
紙包みを持つほうの手に、力が入った。彼の隣は何度も歩いてきたのに、今はどこを見ればいいかわからない。
通りを抜けた先で、二人は足を止めた。坂を上がれば学園で、川沿いを回れば、少し遠くなる。
「もう、空いたな」
マシュウの指が緩んだ。
ネラは離さなかった。彼がこちらを見るのがわかり、繋いだ手をほんの少し引いた。
「こっちから帰ろ」
「遠回りだぞ」
「知ってる。まだ夕飯まで時間あるでしょ」
マシュウは坂の向こうの空を見てから、頷いた。
「あるな。じゃあ、歩くか」
再び握り直された手が温かかった。ネラは顔を上げ、彼の隣へ並ぶ。今度は人混みも荷車もなく、二人の前には川沿いの道が長く続いていた。
「さっきの靴の話なんだけどさ」
「まだ続きがあるのか?」
「ある。最後に二足残ったんだけど、両方右だったの」
マシュウが吹き出した。ネラも笑いながら、その次に話したいことを思い出した。今日はまだ、聞いてもらう時間があった。




