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第60話 地図の向こう

「これ、本当に世界地図?」


 イリスの指が、紙の上で止まった。


 机を二つ使って広げた地図には、山と川、それに街の名前が描かれていた。けれど、線のある場所は全体の四分の一にも届かない。残りは日に焼けた紙が広がり、端にだけ、古い筆跡で『世界地図』とあった。


「まだ途中なんだよ」


 リュカは丸まりかけた隅《すみ》を押さえた。


「爺《じい》さんが、若い頃に描いたやつだ」


 海の遺跡から戻り、レティシアたちと練習を始めて数日が過ぎていた。工房への護衛を終えたイリスとオスカーが、借りていた道の写しを返しに来たところだった。


 器は一つも割れず、イリスは欲しかった土を手に入れた。オスカーは次の運搬の相談まで受けたらしい。返された紙には、二人の歩いた道が短く書き足されていた。


 それをしまうとき、下にあった古い地図を見つけられたのだ。


「おじいさんも冒険者だったんだね」


 オスカーが覗《のぞ》き込んだ。リュカは頷《うなず》き、地図の北端へ指を置いた。


「ここまでは行ったって。帰ってきてから家族を養う仕事に就《つ》いて、それっきり。ずっと、続きを描きたかったらしい」


 イリスが、紙の継ぎ目を見つけた。古い地図の外側へ、まだ白い紙が縫《ぬ》いつけられている。その上を走る線は、濃く、新しかった。


「こっちは、あんた?」


「ああ。爺さんが歩いてないところへ、初めて行けた」


 港までの道。岬《みさき》を回る海岸。遺跡へ下りた場所。


 その一つ一つが、祖父の地図の外にあった。


 幼い頃、リュカはこの紙を床へ広げてもらうのが好きだった。森の中で夜を明かした話。吊《つ》り橋の上で荷物を落とした話。地名を指せば、祖父はどこからでも話を始められた。


 けれど、白いところを指すと困った顔をした。


『そこは知らん。行けなかった』


 何も描かれていない海の辺りを、大きな指が撫《な》でた。


『ここまで歩いてな。船に乗って、その向こうまで描くつもりだったんだが』


『じゃあ、俺が行ってくる』


 そう言うと、祖父は笑って、リュカの頭をくしゃくしゃにした。


『お前はまず、一人で裏山から帰れるようになれ』


 あのときは腹が立った。帰れる、と言い張って、翌日の狩りには父より早く起きた。


「まだ、村にいるの?」


 イリスの声で、リュカは紙から顔を上げた。


「いる。こいつの写し、送ろうと思って」


 机の脇《わき》には、宛先《あてさき》を書いた封筒《ふうとう》があった。中へ入れるはずの紙には、道だけでなく、港の船や屋台の位置まで描き込んである。


 オスカーが、その端を見て眉《まゆ》を寄せた。


「これは、何を倒したの?」


「魚。食った」


「……この脚みたいなのは?」


「尾びれ」


 イリスが横から見て、こらえきれずに吹き出した。


「これ送ったら、おじいちゃん心配するよ。こんなの食べて大丈夫だったかって」


「焼く前は、もっと魚だったんだよ」


「焼いたあとの魚も、だいたい魚でしょ」


 オスカーまで顔を伏せたので、リュカは絵の上へ手を置いた。描き直すか迷ったが、これを消すと、夕飯を食べた日のことまで薄くなる気がした。


 祖父にも食べさせたかった。皮の焦げたところへ塩を振ると、白い身から湯気が立った。家で食べていた川魚とは、匂いも脂《あぶら》も違ったのだ。


「横に名前を書けばいいじゃない」


 イリスが言った。


「それで、うまかったって書いとけば」


 リュカは手をどけ、筆を取った。


 魚の名前と、その下に『骨は多い。うまい』と書く。もう少し考えてから、『今度、干したやつを買って帰る』と足した。


「全部、埋めるつもりなの?」


 オスカーの問いに、リュカは顔を上げた。


 彼が見ていたのは魚ではなく、机から垂れ下がる白い地図だった。


「できるところまでな。爺さんに、こんな場所があったって見せたい」


 そこで言葉を切り、港の先へ目を向けた。


「でも、海を見たらさ。向こうに何があるのか、俺も知りたくなった」


「ずいぶん遠くまで行くんだね」


「お前の商隊に乗せてくれよ。道なら調べる」


「荷車の行ける道にしてね」


 オスカーは笑ったが、リュカが差し出した手は、しっかり握り返してきた。


 イリスも返したばかりの地図を取り、工房までの道を指した。


「こっちは私たちが見てきた分。おじいちゃんに送るなら、使っていいよ」


「おう。誰が歩いたかも書いとく」


 紙の端へ二人の名前を足した。自分とは違う道を歩いてきた友達の話を、祖父はどんな顔で聞くだろう。


 封をする前に、リュカは手紙へ一行書き加えた。


『今度帰ったら、地図を広げるから、話を聞いてくれ』


 放課後、街へ出る荷便に手紙を預けた。受付の人が封筒へ印を押す音を聞いてから、リュカは空になった手を、少し軽くなった鞄《かばん》へ戻した。


     *


「明日も、練習?」


 夕食の卓《たく》で、ネラは何でもないように尋ねた。


 向かいでマシュウがパンをちぎっている。隣のエリオは教本をしまい、フェリクスは椅子《いす》の脇へ立てた杖《つえ》が倒れないよう、位置を直していた。


「昼はエリオと。放課後は、まだ決めてない」


「ごめん。先に頼んじゃった」


「なんで謝るの。私は聞いただけ」


 ネラは汁物へ匙《さじ》を入れた。聞いただけにしては早口になった気がして、口をつける。思ったより熱かった。


「今日、実技で一度も相手に背中を取られなかったんだ」


 エリオが、しまった教本へ手を置いた。


「でも、避けてるだけになっちゃって。自分から行くと、また足が止まる」


「じゃあ明日は、俺が避ける番だな」


「本当に当てにいくよ」


「そのほうが練習になるだろ」


 エリオが笑い、明日の昼、ともう一度確かめた。


 約束は、こうしてすぐ決まる。


 ネラは匙を置いた。自分も頼めばいい。前は、教室で隣を向いて言うだけだった。今は会う時間を合わせないと、話したいことを次の日へ持ち越してしまう。


「私も、できるようになったことあるんだけど」


 マシュウがこちらを見た。


「風を撃ったあと、同じところに立ってないようにしたの。そしたら相手の横へ――」


「行きすぎて、線の外へ出たんだろう」


 フェリクスが口を挟《はさ》んだ。


「それは最初の一回!」


「二回と聞いたぞ」


「誰から?」


「君から」


 マシュウが笑った。ネラは睨《にら》みかけたが、彼がパンを置いて身を乗り出したので、言い返すのをやめた。


「そのあと、どうしたんだ?」


「歩幅を小さくした。風を強くするより、先にそこを変えたほうがよさそうだったから」


「相手はついてきたか?」


「一回だけ、見失ってくれた」


「なら、その一回を明日もやってみろよ」


 ネラは頷いた。褒めてもらうために始めた練習ではない。それでも、途中で口を出さずに最後まで聞いてくれたのが嬉《うれ》しかった。


「今度の昇星戦《しょうせいせん》、もう一回あんたと同じところまで行くからね」


「来いよ。待ってる」


「待ってるって言い方、ちょっと腹立つ」


「じゃあ俺も上がる。追いかけてこい」


「もっと腹立つ!」


 声を上げると、今度はエリオまで笑った。フェリクスは呆《あき》れた顔をしていたが、口元が少し上がっていた。


 食事を終え、マシュウが立ち上がった。フェリクスの盆《ぼん》を持ち上げかけて、本人に止められる。


「皿だけ頼む。私は向こうまで歩く」


 椅子の背を支えにして立ち、杖を取る。前より立ち上がるのが速くなったが、最初の一歩にはまだ時間がかかった。


 ネラは先へ行く生徒へ少し待ってもらい、通路を空けた。フェリクスは彼女へ頷き、エリオと一緒に歩き出す。


「戻ったら、その本を見せてくれ。君の書いた式、途中が抜けていた」


「頭の中では、そこも計算したんだけど」


「それを紙へ書けと言っている」


 二人の声が、ゆっくり遠ざかった。


 ネラは空の盆を持ったまま、マシュウが皿を重ねるのを見た。


 放課後は、まだ決めていない。


 今、聞かなければ。


「ねえ。明日さ、街へ行かない?」


 マシュウが顔を上げた。


「いいぞ。何か買うのか?」


「うん。……焼き菓子。西の通りに、売ってる店があるんだって」


「ああ、エリオが言ってたやつか。フェリクスの歩きやすい――」


「明日は、二人で」


 言ってから、自分の声に驚いた。


 マシュウも口を閉じた。ネラは盆の縁《ふち》を握り直した。言い直して、みんなでもいいよと付け足したくなる。その前に、もう一度口を開いた。


「私と、あんたで行きたい」


 マシュウは彼女を見てから、頷いた。


「わかった。放課後、門のところでいいか?」


「……うん」


「じゃあ、明日は空けとく。練習に誘われても、先に約束があるって言っとくな」


 彼は盆を持ち直した。何か特別なことを言われた顔ではなかった。いつものように約束をして、それを守るつもりでいる顔だった。


 ネラの胸は、まだ速く鳴っていた。


「時間、忘れないでよ」


「忘れねえよ。お前、腹減ると怒るだろ」


「減ってなくても怒るよ」


「知ってる」


 笑った背中を、空いている手で一度叩《たた》いた。マシュウは振り返ってまた笑い、そのまま食器の返却台へ向かった。


 ネラはその後ろについて歩いた。明日、何を着よう。制服のままでいいだろうか。考え始めた途端、今まで気にならなかった袖《そで》のほつれが目についた。


 前を行くマシュウは、もうフェリクスたちへ声をかけている。


 まだ、こちらの顔を見なくていい。


 ネラは熱い頬《ほお》を片手で押さえた。部屋へ戻ったら、袖を縫い直そう。明日は、今より少しだけきれいな格好で、彼の隣を歩きたかった。

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