第59話 レティシアの選択
木剣が、胴当ての脇を叩いた。
レティシアは息を詰め、下げかけた杖を止めた。水の帯がロルフの肩へ届く直前、ほどけて地面へ落ちる。跳ねた雫が、二人の靴を濡らした。
「一本」
ロルフは木剣を引いた。袖で顎の汗を拭いながら、まだ踏み込める位置に足を残している。
「今ので捕まえたと思ったわ」
「思っただろうね。だから、杖が下がった」
レティシアは唇を結んだ。
放課後の訓練場には、まだ何組かの生徒が残っていた。隣の区画から火花の弾ける音がする。こちらの地面だけが、何度も流した水で黒く濡れていた。
ロルフの剣を水で押さえた。そのまま腕まで巻き込めるはずだった。けれど彼は柄を引き、水を引き寄せたところへ風を当てた。割れた流れを抜けてきた剣先を、レティシアは間近で見ることになった。
「もう一度」
「その前に休む。僕は、君ほど何度も魔法を使えない」
言い終えると、ロルフは木剣を脇へ抱えて水筒を取りに行った。レティシアも杖を下ろし、区画の端へ歩く。鞄から布を出した拍子に、折り畳んだ紙が一枚落ちた。
アーヴィンから渡された、護衛依頼の写しだった。
「仕事か?」
「誘われたの。次の休みに、北の街道へ」
レティシアが紙を広げると、ロルフは水筒の栓を閉め、横から目を通した。
「薬草を二台。……僕が通っていた道だ。途中の橋は狭いぞ」
「知っているの?」
「家から学園へ来るときにな。荷車二台は並べない。対岸で待つ馬車があれば、渡る前に見える」
レティシアは余白へ橋のことを書き留めた。アーヴィンに伝えれば、役に立つだろう。魔物が出たとき、どちら側へ荷車を寄せるかも決めておける。
「受けるんだろう?」
「まだ返事をしていないわ」
「条件が悪いのか」
「いいえ。戦い方も相談できるし、私が攻めるときは荷を守ってくれると言っていた」
口にすると、ますます断る理由が見つからなかった。
アーヴィンの槍は鋭い。水で敵の体勢を崩し、そこへ雷を伴う一撃を通せば、かなりの相手を倒せるだろう。彼と組んで覚えられることは多いはずだ。
レティシアは紙を畳み直した。その下から、海の遺跡を描いた図が覗いた。
「それも、別の依頼か?」
「これは終わったものよ」
図を引き出すと、端に乾いた潮の跡が残っていた。水路を写した細い線。吊り桶へ繋がる溝。自分で描いたものなのに、目で辿ると、また奥の部屋まで歩けるような気がした。
「ここの扉、水の重みで開くの。桶が下がると、鎖の反対側で石が持ち上がって」
レティシアは指を滑らせた。
「奥に硝子の窓があったわ。その向こうが海で、部屋の中まで青くなっていた」
「水の中に部屋が?」
「ええ。そこに、青い輪が三つ重なった器具が残っていたの。あれも水車で動いていた。何を調べる道具だったのかは、まだわからないけれど」
ロルフが図へ顔を寄せた。窓の位置を尋ねられ、丸い部屋の外側をなぞる。説明しているうちに、レティシアは布を持ったままだったことも忘れていた。
「もう一度行くのか?」
「……行けるなら、見てみたいわね」
今度は道具の置かれた台座だけでなく、窓の外も、壁に刻まれた線も確かめたい。あのときは、水が満ちる前に戻ることで頭がいっぱいだった。
「道具は持って帰れたんだろう」
「組合に預けたわ。動かすときには呼んでもらうつもり」
「君が返したくなくなる前に、受け取れてよかったな」
「依頼品を持ち逃げすると思われているの?」
「説明が長くなりそうだとは思った」
レティシアは言い返そうとして、職員の前で水路の話を続けた自分を思い出した。ロルフが口の端を上げたので、濡れた布を彼の袖へ押しつける。
「休憩は終わり。もう一本、付き合って」
「次は僕からだ。さっきの風を試したい」
ロルフは布を受け取り、区画へ戻った。
レティシアは二枚の紙をしまい、杖を持ち直した。目の前の相手が、剣を下段へ構える。風が足元の砂を薄く巻き上げた。
こちらが何をするかを、彼も待っている。
その顔を見ながら、レティシアは水を引き寄せた。
*
帰りの鐘が鳴る頃には、制服の裾まで湿っていた。
最後の一本は取った。ロルフが剣へ風を集めるのを見て、水を腕へ巻く代わりに、その足元へ薄く流した。踏み込みをずらした一歩へ杖を合わせると、彼は悔しそうに剣を引いた。
「次は、あのくらいじゃ止まらない」
別れ際の言葉を思い出し、レティシアは少し笑った。自分も同じことを言いかけたばかりだった。
部屋へ戻り、机の上へ二枚の紙を並べる。北の街道の依頼書には、明日までに返事をしなければならない。
もう一枚の図に描いた水路を、筆の軸で辿った。
自分が流れを作り、皆で扉を支えた。リュカが殻を除き、ディーンが砂を掻き出して、ようやく通れる隙間ができた。
扉が上がったとき、誰より先に奥を覗こうとしたのは、自分だった。
レティシアは筆を止めた。
セヴランと戦ってから、次に何を覚えれば届くのか、そればかり考えていた。杖を掴まれた感触は、まだ手に残っている。あれほど水を使ったのに、剣を抜かせることもできなかった。
もう一度、挑む。その気持ちは変わっていない。
けれど海の底で扉が開いたときには、彼のことを思い出さなかった。自分の水が仕掛けを動かしたことが嬉しくて、奥に何があるのか知りたくて、足が前へ出た。
大海蛸に襲われたときも、必死で見ていたのは、その場の仲間だった。
頭を上げさせる。その下へ。
叫ぶと、マシュウが水の帯の下へ飛び込んだ。通ると信じて出した合図へ、あの拳が応えた。続けてヴァレクが腕を押さえ、リュカの矢が目を射抜いた。
もう一度、あの連中と戦いたい。
その思いを認めると、次々に試したいことが浮かんだ。
水の壁を攻撃の直前に開いたら、マシュウはそこを通せるだろうか。ヴァレクが押さえる位置を知っていれば、もっと大きく敵を動かせる。リュカの矢を、自分の水で遮らずに済む角度も探したい。
ただ同じ依頼を受けるだけでは、確かめられないことだった。口に出して頼まなければ、次もそれぞれに戦って、終わってしまう。
レティシアは紙を一枚出し、明日の放課後に確かめたいことを書き始めた。
*
「今回は、見送らせて」
翌朝、レティシアはアーヴィンへ依頼の写しを返した。
彼は受け取りながら、追記された橋の図へ目を落とす。
「調べてくれたのか?」
「ロルフが道を知っていたの。橋の先は見通しがいいそうよ。詳しくは本人にも聞いてみて」
「わかった。助かる」
紙を折り直したアーヴィンが、顔を上げた。
「別の仕事に決めたのか」
「仕事はまだ。でも、先にあの四人で試しておきたいことがあるの。海では合わせられたけれど、同じことをもう一度できるか、確かめていないから」
「マシュウたちとか」
レティシアは頷いた。
「ええ。次も、あの組み合わせで行きたい」
言うと、アーヴィンは教室の奥へ一度目を向けた。ヴァレクがマシュウの机へ身を乗り出し、何か話している。その隣では、リュカが自分の地図帳を取り返そうとしていた。
「なら、次に組めるときに頼む」
「こちらこそ。戻ったら、どんな相手だったか聞かせて」
「手合わせで見せたほうが早いかもしれないな」
「楽しみにしているわ」
アーヴィンは短く笑い、ほかの生徒の席へ向かった。レティシアも鞄を持ち直し、教室の奥へ歩いた。
「今日の放課後、三人とも時間はある?」
マシュウが顔を上げた。
「ある。何かやるのか?」
「合わせたい魔法があるの。次の冒険で、私が先に仕掛けるときのために」
ヴァレクが、マシュウへ向けていた椅子を少し回した。
「へえ。どんなの?」
レティシアは昨夜の紙を広げた。水の壁と、その向こうの標的を簡単に描いてある。
「これを開くわ。マシュウには、その隙間から撃ってほしい。リュカは横から。ヴァレクには、標的を動かしてもらいたいの」
「止まってる相手じゃ、つまらないものね」
「いきなり変な方向へ飛ばさないでよ」
「変な方向って、どっち?」
聞き返したヴァレクは、もう楽しそうだった。レティシアが目を細める横で、リュカがようやく地図帳を引き寄せる。
「先に、俺の矢が通る高さを決めさせろ。水の向こうじゃ、見えなくなる」
「それを確かめたいの。海では、あなたがどこから狙っているのか見失ったから」
「俺も、お前の水に弾かれそうで一本待った」
レティシアは顔を上げた。
そのことは知らなかった。リュカは図の端へ指を置き、自分が立っていた場所を示す。マシュウも覗き込み、少し位置をずらしたほうがいいか、と問いかけた。
言ってよかった。
そう思いながら、レティシアは三人の指の間へ、新しい線を書き足した。
*
放課後、許可を取った射撃区画へ四人で入った。
ヴァレクが掌を上げると、木の標的が台から浮いた。人の胴ほどの円板が、砂地の上をゆっくり横へ流れる。リュカは左へ回り、矢をつがえた。
レティシアは水を持ち上げた。薄い壁が標的の前に立ち、木目が揺らいで見える。
「最初はゆっくり動かして」
「このくらい?」
「ええ。……今、開くわ」
壁の中央へ穴を作った瞬間、火炎矢が通った。円板の真ん中に、小さな焦げ跡がつく。水を戻したときには、マシュウの手はもう下がっていた。
「もう少し速くしようか、マシュウくん」
「その前に、俺にも射たせろ」
リュカが弓を持ち上げた。ヴァレクは円板を元の位置へ戻しながら、首を傾げる。
「速いと困る?」
「お前の頭の上に置いても当てるぞ」
レティシアは笑いそうになり、水の壁へ目を戻した。
「今度は二人で。先にリュカ。マシュウは、そのあと」
「了解」
リュカが腰を落とした。円板が動き始めると、レティシアは弓先の向きを確かめてから、横へ水を割った。
矢が抜けた直後、開いた穴を中央へ送る。赤い光がその中を通り、矢の刺さった円板を揺らした。
「今のなら見える」
リュカが弓を下ろした。
マシュウも左手を開き、レティシアへ顔を向ける。
「俺のところは、もう少し狭くていい。あれだけ開いてりゃ通せる」
「動いていても?」
「試してみようぜ」
レティシアは頷き、水を引き寄せた。ヴァレクが次の円板を、さっきより低い位置へ浮かべる。リュカが足を動かし、マシュウもそれに合わせて立つ位置を変えた。
水の壁の向こうで、木の標的が揺れていた。
レティシアは三人を見てから、杖を振った。




