第58話 戻ってきた教室
「傷も、これだけですか……」
測量組合の職員は、机に置かれた器具の周りを二度も歩いた。真鍮の枠へ顔を寄せ、三つの青い輪を覗き込む。ようやく差し出された受領書を、ボルグが受け取った。
レティシアは、器具が箱へ収められる前に口を開いた。
「調べ終わったら、何に使うものだったのか教えていただけますか」
「ええ。ご希望でしたら、記録の写しをお送りします」
「動かすところも見たいのですが」
職員が顔を上げた。レティシアは少し身を乗り出し、輪の下を指した。
「遺跡では、床下の水車と繋がっていました。水を流したとき、内側に青い模様が浮かんだんです」
そこまで聞くと、職員は閉じかけていた記録簿を開き直した。
結局、連絡先を書いた紙には、レティシアのほかにリュカとマシュウの名前も並んだ。ヴァレクはそれを横から見て、最後に自分の名前を書き足した。
「君が見に来るなら、僕も来ようかな」
「何の道具かわかったら、だぞ」
「うん。それまでに聞いといてね」
マシュウが言い返す前に、ヴァレクは筆を職員へ返してしまった。
港のギルドへ大海蛸の討伐を報告し、報酬を分けた頃には、潮に濡れた服も乾いていた。器具の重みが消えた背負い袋へ、リュカが買ったばかりの紙束を入れている。ディーンは屋台へ向かい、ボルグに帰りの時間を念押しされていた。
マシュウは硬貨の袋をしまい、海から吹いてくる風をもう一度吸い込んだ。
*
「その鞄、まだ海の臭いがする」
学園へ戻った翌朝、席へ着くなりイリスに言われた。マシュウが革の縫い目へ鼻を近づけると、たしかに潮の臭いが残っている。
「拭いたんだけどな」
「中も開けて乾かした?」
「干すときは開けた。帰りに閉じて、そのままだ」
「じゃあ、しばらく開けとけば。貝でも入れっぱなしにしてなきゃ、そのうち取れるでしょ」
言いながら、イリスは自分の机に広げた紙を寄せた。赤茶色の三つ編みが肩から落ちる。紙の端を押さえていたのは、小さな青い陶片だった。
「それ、海の土産?」
マシュウが尋ねると、彼女は陶片を持ち上げて笑った。
「違う。私が焼いたの」
窓へ向けて傾けると、濃い青だった表面に緑が浮いた。縁には細かいひびが走っていたが、イリスはそこを親指で撫で、大事そうに紙の上へ戻した。
「こっちの色だけ出したかったんだけど、思ったより火が強くて。土も変えて、もう一度やってみる」
「ここで焼けるのか?」
「街の窯を借りてる。空いてる場所に入れさせてもらうから、大きいものはまだ無理」
隣にいたオスカーが、紙へ書き込みながら口を挟んだ。
「それで今度は、窯を丸ごと見せてもらえる仕事を探してきたんだよ」
「ちゃんと報酬も出るでしょ」
「出るけど、君が最初に聞いたのは火入れの日だった」
「護衛の日と合うか、大事なことでしょ」
イリスは悪びれず、マシュウへ紙を向けた。
街から半日ほどの工房まで、鉱石と土を積んだ荷車を護衛する依頼だった。大きな街道から外れた先に林があり、そこで魔物が出ることがあるという。
「帰りの荷は?」
マシュウが尋ねると、オスカーの顔が明るくなった。
「焼いた器。行きより積み方に気を使うって話だ。道を確かめて、戻る時間も決めてから受けるつもり」
「車輪が深くはまる道なら、板を持っていったほうがいいぞ。器を積んでから車体を傾けると面倒だからな」
「それ、持ち物に足しておく」
オスカーの筆が動いた。その横でイリスが、帰りの荷を指で叩く。
「積み方は私も見られる。家でもよく手伝ってたから」
「君の家、器を作ってるのか」
「そう。まだ私には、このくらいの欠片しか任せてもらえないけどね」
陶片をつまんだ指には、小さな古い傷があった。彼女が机の上へ置くと、オスカーはそのすぐ脇へ日付を書き込んだ。
「マシュウ。次の休み、予定は決まってる?」
「まだだ」
「それなら、一緒にどうかな。前にも組んでみたいって話しただろ。今回は往復で一日。もう一人いると、荷から離れずに周りを見られる」
出発と帰着の欄を確かめようとしたとき、肩越しに声がした。
「じゃあ、僕も行こうかな」
ヴァレクが、マシュウの椅子の背へ手を置いていた。制服の襟から覗く火傷の痕に朝日が当たり、その顔にはいつもの笑みがある。
「マシュウくんとなら、荷車の護衛も楽しそうだし」
オスカーの筆が紙の上で止まった。浮かべかけていた笑顔が消え、依頼の写しを持つ指に力が入る。
「……まだ、誰と行くかを相談しているところなんだ」
「うん。だから、今言ったんだけど」
ヴァレクは隣の空いた椅子を引こうとした。オスカーが紙を手元へ戻す。紙の角が机に引っかかり、乾いた音を立てて折れた。
「僕は、君とは組めない」
近くで話していた生徒が、こちらを向いた。
ヴァレクの手が椅子の背に残ったまま、オスカーへ視線が移る。
「どうして?」
「昇星戦を見たからだよ」
マシュウは紙から顔を上げた。オスカーは唇を一度結び、それでも目を逸らさずに続けた。
「フェリクスが動けなくなってからも、君はやめなかった。途中で同じことを始められたら、僕には止められない」
「僕が、君に手を出すと思ってるの?」
「わからない。それが嫌なんだ」
言い終えた息が、少し震えていた。
マシュウの頭に、杖を握って立ち上がるフェリクスの姿が浮かんだ。椅子を押さえながら、次の一歩を待ったときの長さまで思い出す。向かいにいるヴァレクは、今は何の不自由もなく立っていた。
イリスが、折れた紙の角を押さえた。
「私も、オスカーが不安なまま出るのは嫌。三人目は、二人で決める」
ヴァレクは二人の顔を順に見たあと、椅子から手を離した。
「そっか。じゃあ、別々だね」
軽い声だった。オスカーは何か返そうとしたが、ヴァレクはもうマシュウのほうを見ている。
「僕たちは、何を探そうか」
「俺はまだ、何も決めてないぞ」
「うん。だから一緒に探そうよ」
返事を待つ間も惜しいように、ヴァレクは自分の席から依頼を書き写した紙を持ってきた。それをマシュウの机へ置き、ここは遠いかな、と一つの行を指でなぞる。
オスカーは、そんな二人を見ていた。
「君は……平気なの?」
小さな問いに、マシュウは首を横へ振った。
「フェリクスにしたことは、今でも腹が立ってる」
ヴァレクを見た。その笑みは消えなかったが、紙を指していた手は止まった。
「昨日、背中を任せたのも本当だ。助けられた。だからって、お前にまで同じようにしろとは言えない」
オスカーは俯き、握っていた紙をゆっくり広げた。折れた角を伸ばしてから、イリスへ向き直る。
「ごめん。勝手にもう一人、誘うところだった」
「相談の途中だったでしょ。これから決めればいいじゃない」
イリスは陶片を紙からどけた。オスカーが頷き、空いた場所へ人数を書き直す。
始業の鐘が鳴った。廊下から入ってきたダリウスを見て、皆がそれぞれの席へ戻っていく。マシュウも教本を出したが、隣から伸びた手が、別の紙を一枚載せた。
「海の遺跡、床の図を写し忘れてるわよ」
レティシアだった。昨日のうちに清書したらしく、水路と扉の位置が細い線で描かれている。
「助かる。返すのは昼でいいか?」
「ええ。濡らさないでね」
その声に、マシュウは鞄の口を少し広げた。隣でイリスが気づき、笑いを噛み殺した。
*
午後の実技で、オスカーの小盾が硬い音を立てた。
突き込まれた練習用の剣を受け、縁の金属を細く伸ばす。絡んだ剣を外へ押しやると、その肩越しにイリスの火炎矢が走った。細い炎は相手役の盾の脇を抜け、背後の標的だけを射抜いた。
「そこまで。交代だ」
ダリウスの声に、イリスが短杖を下ろした。焦げた標的を見て口元を緩めたが、オスカーへはすぐに眉を寄せる。
「今の、肩が出てた」
「そっちへ動くと思ったんだ。次は半歩、下がる」
「下がりすぎないでよ。あんたが遠いと、狙う穴が見えないから」
二人は立つ位置を確かめながら、次の組へ場所を譲った。マシュウは自分の番へ向かう途中、オスカーと目が合った。
「よく押さえたな」
「ぎりぎりだった。もう少し、楽に止めたいんだけどね」
小盾を持ち上げた腕には、力が入っていた。マシュウが頷いて通り過ぎると、背後ではもう、イリスが次の入り方を話していた。
放課後、教室で鞄を持ち上げたところへ、その二人が戻ってきた。
「工房の仕事、受けることにしたよ」
オスカーは帳面をしまいながら言った。
「あと一人は、これから声をかける。道のことも、ギルドで確かめてくるつもりだ」
「リュカにも聞いてみたらどうだ。地図、いろいろ持ってるぞ」
「聞いた。今度、見せてくれるって」
隣でイリスが、戸口のほうへ顎をしゃくった。リュカは同級生に囲まれ、港で食べた魚の大きさを両手で示していた。
マシュウの知らないところで、もう話は進んでいたらしい。
「じゃあ、いい仕事になるといいな」
「そっちも。また戻ったら話そう」
オスカーが手を上げ、イリスと一緒に教室を出ていった。イリスは途中で引き返し、机に残していた陶片を拾う。マシュウに見られていたと気づくと、片手を振って、待っているオスカーを追いかけた。
その背中を見送ってから、マシュウは借りていた図を取り出した。
「レティシア、これ――」
呼びかけたところで、アーヴィンが彼女の机へ歩いてくるのが見えた。手には、四つ折りにした紙がある。
「次の休み、空いているか。護衛で一人、探してる」
レティシアが筆を置いた。
「どこへ?」
「北の街道。薬草を積んだ荷車が二台だ。林から出てくる魔物を追い払いながら進む。君の水魔法を当てにしたい」
広げられた紙へ、レティシアが目を落とす。アーヴィンは机の上に指を二本置き、少し離して並べた。
「前の車に君、後ろにこっちの組がつく。襲われたら水で足を止めてほしい。そこへ槍を入れる。君が攻めるときは、こちらが荷を守る」
「相手によっては、水で押し返すより引き離したほうが早いわ」
「それも含めて、君と相談したい」
レティシアはもう一度、依頼の紙を読んだ。指先が出発予定の日付で止まる。
マシュウは借りていた図を、彼女の教本の上へ置いた。そこには、輪が三つ重なった器具の絵も描き足されていた。
「明日まで、考えさせて」
レティシアが言うと、アーヴィンは頷いた。
「わかった。返事を待ってる」
彼が離れたあとも、レティシアは紙を畳まなかった。海の遺跡を描いた図の隣へ置き、二つが重ならないよう、筆箱を端へ寄せた。




