↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
59/75

第57話 海底の主

 床の穴へ明かりを近づけると、小さな水車が見えた。


 溝《みぞ》から落ちる水を受け、羽根がゆっくり回っている。レティシアが流れを脇《わき》へ逃がすと、台座の上の輪も止まった。マシュウは真鍮《しんちゅう》の枠を支え、軸の継ぎ目を覗《のぞ》き込む。


「ここで外せる。リュカ、留め金を抜いてくれ」


 砂を除き、固着した金具を少しずつ動かした。軸が離れると、三つの輪を抱えた器具が持ち上がる。思ったより軽い。マシュウが差し出すと、レティシアは用意した布の上へ慎重に受け取った。


「組合で調べ終わったら、何に使っていたのか教えてもらいたいわね」


「帰ったら聞いてみようぜ。俺も気になる」


 彼女が頷《うなず》き、輪の間にも布を詰めていく。防水袋をリュカの背負い袋へ収めたところで、扉の向こうから、硬いものの割れる音がした。


 皆の手が止まった。


 もう一度。今度は何かを引きずる音が、階段の下から響いた。


 マシュウは灯りを低くし、鉄の支柱の間を抜けた。広間を見下ろした途端、鼻の奥へ生臭さが押し寄せてきた。


 通路脇へ寄せた礁蟹《リーフクラブ》が、水へ滑《すべ》り落ちようとしていた。


 その胴に、太い腕が巻きついている。


 赤褐色《せっかっしょく》の皮膚に、白い吸盤《きゅうばん》が二列。腕は蟹の殻《から》を締め砕きながら、水面の下へ引き込んでいた。マシュウが目で根元を追うと、崩れた柱の向こうに、馬車ほどもある丸い塊《かたまり》が浮いていた。


 黄色い目が、こちらを向いた。


「大海蛸《クラーケン》だ。水際から離れろ!」


 マシュウが告げる間にも、濡《ぬ》れた天井から太い腕が剥《は》がれた。真下にいるリュカへ、吸盤の列が落ちてくる。


「土隆《アース・リフト》!」


 ボルグが戦鎚《せんつい》で床を打った。石段の下から岩壁がせり上がり、腕を受け止める。激突した上端が砕けたが、壁は倒れなかった。リュカがその陰へ滑り込むと、マシュウは横へ踏み出し、左手を突き出した。


「火炎矢《ファイア・ボルト》!」


 赤い光が広間を走った。


 岩壁に乗った腕を貫き、その奥の腕まで穿《うが》つ。炎は二つの穴を抜け、丸い胴の縁《ふち》で爆《は》ぜた。黄色い目が見開かれ、焼けた腕がのたうつ。飛び散った水がマシュウの頬《ほお》に当たったときには、もう熱かった。


 効いている。マシュウは同じ傷へ、続けて炎を放った。


 クラーケンが身を捩《よじ》った。二発目は持ち上げた腕へ深く食い込み、三発目がその付け根を焼く。痛みに縮んだ巨体の周りで水が膨らみ、横一列の飛沫《しぶき》となって押し寄せた。


 その中に、石の塊が混じっていた。


「下がれ!」


 マシュウは左の石を避け、胸へ迫る一つを拳で砕いた。欠片《かけら》の向こうから、吸盤をこちらへ向けた腕が伸びてくる。大きく開いたその奥に、黒い嘴《くちばし》が見えた。


 引き込む気か。


 足を横へ送った瞬間、ヴァレクが前へ出た。


「重刃《グラビティ・エッジ》」


 長剣が振り下ろされた。刃に集まった重力が、伸びた腕を石床へ叩きつける。剣は肉を裂いてなお止まらず、その下の石にまで深い傷を刻んだ。


 切り離された先端を踏み越え、ヴァレクが顔を上げる。


「ずいぶん食いしん坊だね。僕たちまで欲しいの?」


 返事の代わりに、左右から腕が迫った。


 マシュウはヴァレクの背を押して一緒に身を沈めた。頭上で二本がぶつかる。その隙《すき》へ、レティシアが杖《つえ》を振った。


 水面から三本の槍《やり》が立ち上がった。先端が細く絞られ、続けざまに腕の内側へ突き刺さる。分厚い皮膚が裂け、白い吸盤が弾け飛んだ。


 マシュウが立ち上がると、濡れた槍はもう形を変えていた。


「蒼鞭《アズール・ウィップ》!」


 長い水の帯が二本の腕を絡《から》め取り、引き離す。開いた隙間《すきま》から、黄色い目が見えた。マシュウはそこへ火炎矢を撃ち込み、爆ぜる音に合わせて足場を蹴った。


 あと二歩で、拳が届く。


 クラーケンは、目の前で水中へ消えた。


 火炎矢を受けた腕だけが、煙を上げて沈んでいく。マシュウは着地した石の上で足を止めた。透明だった水が黒く染まり、底に積もった殻も、大きな魚の背骨も見えなくなる。


「墨《すみ》か。リュカ、袋を――」


「背中だ。弓も使える!」


 返ってきた声に頷き、マシュウは水面へ視線を戻した。退路の入口には、別の腕が張りついている。潜《もぐ》ったまま、こちらを逃がす気もないらしい。


 背後で水が渦を巻いた。振り向いたマシュウの耳へ、腹の底へ響くような音が届く。


 吸い込んでいる。


「水を吐く! そっちから離れろ!」


 黒い水柱が噴き出した。マシュウは横へ跳んだが、狙われたのは、その後ろにいるレティシアだった。


 彼女が杖を引き、水を斜めの壁へ持ち上げた。水柱がぶつかり、二つの流れが白く弾ける。勢いを曲げられた黒い水が側壁を削り、石片がレティシアの足元へ降り注いだ。


 細く息を吐く音がした。受け流しても、杖を支える腕が押されていた。


 クラーケンの胴が、また膨らんだ。


「させるか!」


 マシュウの火炎矢が、今度は水を吐く口へ突き立った。炎が内側で弾け、巨体が後ろへ反る。噴射は天井へ逸《そ》れ、降ってきた海水と貝殻が六人を叩いた。


 しかし、水面の下から伸びた腕が、リュカの足場へ巻きついていた。


 石が傾く。リュカは弓を持ったまま膝《ひざ》をつき、空いた手を石へ押し当てた。指の下から水底へ魔力が流れ、三本の尖《とが》った杭《くい》が、下から腕を刺し貫いた。


 傾いていた石が止まった。突き上がった杭には、最初の火炎矢で焼かれた腕が縫い留められている。


「ディーン! こっちは押さえた!」


 ディーンの剣の周りで、細かな飛沫が輪になった。風が刃に沿って絞られ、耳の奥へ鋭い音が刺さる。


「そのまま持たせろ!」


 剣を振り抜くと、半月状の風が刃を離れた。水面を割って走り、杭に留められた腕の焼けた傷へ食い込む。分厚い肉が切れ、締めつけが緩んだ隙に、リュカが隣の足場へ跳び移った。


「よしっ!」


 ディーンの声を、唸《うな》るような水音が呑《の》み込んだ。


 クラーケンが残った腕を広げていた。壁から剥がれた腕までがこちらへ向かう。隠れて待つのをやめた巨体が、大波を引き連れて迫ってきた。


 マシュウは退かなかった。足を置ける石は、もう少ない。左右には仲間がいる。ここで跳んでかわしても、後ろへ腕が通る。


「ボルグ! 足場をこっちへ伸ばしてくれ!」


「乗れ!」


 短い返事とともに、足元が持ち上がった。ボルグの土魔法が水底の岩をせり上げ、マシュウの前へ幅のある足場を作っていく。海水が両側へ落ちるより早く、その上を走った。


 左手から火炎矢を放つ。腕に穴が開いても、巨体は止まらない。空いた右拳を握ると、皮膚を撫《な》でていた炎が一気に膨れ上がった。


 打ち込もうとした鼻先へ、レティシアの水の鞭が走った。


「頭を上げさせる! その下へ!」


 太い水の帯が本体へ巻きつき、横へ引いた。突っ込んできた胴が傾き、嘴が空を噛《か》む。マシュウはその下へ沈み、右の拳を突き上げた。


 骨のない巨体が、拳に合わせて深く歪《ゆが》んだ。


 押し込んだ炎が赤く広がり、クラーケンを水面から弾き上げる。マシュウの肩まで震える手応えがあった。飛び散った水が頬を焼いたが、目は逸らさなかった。


 仕留めきれていない。


 沈みかけた胴の下で、まだ腕が動いていた。石の縁へ吸盤を掛け、深い場所へ身体を戻そうとしている。


「逃がしてあげないよ」


 ヴァレクの声が、水音の間を通った。


「黒枷《ブラック・バインド》」


 二本の腕の下で、水面が丸く凹《へこ》んだ。見えない重みが腕ごと水を押し下げ、水底へ叩きつける。しがみついていた石が割れた。クラーケンは残る腕で水を掻《か》いたが、押さえられた側へ引き戻された。


 その頭上へ、レティシアの水の槍が降った。


 一つは腕に砕かれ、二つ目が胴を穿つ。三つ目を避けた巨体の横から、リュカの矢が黄色い目を射抜いた。


 腕が、天井まで跳ね上がった。


 マシュウは走った。黒枷の及ぶ窪《くぼ》みを避け、せり上がった岩の端を蹴る。横から迫る腕を左拳で打ち払い、丸い胴の上へ跳び込もうとした。


 頭上から、太い影が落ちた。


「そのまま行って、マシュウくん!」


 ヴァレクが左手を開いていた。マシュウは足を緩めず、目の前の傷へ狙いを絞る。


「引掌《グラビティ・グラスプ》」


 落ちかけた腕が、横へ引き寄せられた。ヴァレクへ向きを変えたその腕に、ディーンの風の刃が重なる。裂けた先端が石床を叩き、二人が左右へ跳ぶのが視界の端に見えた。


 もう、目の前を遮《さえぎ》るものはなかった。


 マシュウは右拳へ魔力を叩き込んだ。炎が肘《ひじ》まで噴き上がり、近くの海水が音を立てて蒸発する。黄色い目が、こちらを見た。


「赫牙《イグニス・ファング》!」


 焼け裂けた傷へ、拳が突き刺さった。


 分厚い肉を打ち抜いた手応えの直後、炎が巨体の内側で爆ぜた。濡れた壁が赤く染まり、下顎《したあご》へ熱風がぶつかる。クラーケンは胴を折り曲げ、せり上がった岩へ叩きつけられた。


 マシュウは拳を引き抜き、後ろへ跳んだ。レティシアが押し寄せる波を横へ流し、ボルグの盾が飛んできた石片を受ける。


 腕は、まだ動いていた。全員で距離を取り、壁を叩く音が途切れるのを待った。やがて水を掻いていた先端が沈み、焦げた臭《にお》いの中に、六人の息遣いだけが残った。


 マシュウは構えを解いた。拳を覆う炎を消すと、暗さに慣れない目の奥へ、まだ赤いものがちらついていた。


     *


「……飯の前に思い出したくねえ顔だな」


 ディーンが剣についた黒い体液を払った。ボルグが鎚を下ろし、その肩を叩く。


「よく切った。全員、手足はついてるな?」


「こっちは平気だ」


 マシュウは答え、レティシアへ目を向けた。濡れた髪を耳へ掛けようとして、彼女は手が汚れていることに気づき、途中でやめた。


「よく頭を上げさせてくれたな。あれで打てた」


「あんな勢いで来るとは思わなかったわ。あなたが押し返してくれて、助かった」


 息を整えながらも、その顔には笑みがあった。マシュウも笑い返しかけたところで、ヴァレクが横から覗き込んできた。


「僕には?」


「見てたよ。最後の一本、お前がどけると思った」


「じゃあ、次も任せてよ」


 満足そうに笑ったヴァレクが、長剣を鞘《さや》へ収めた。


 リュカが背負い袋の留め具を確かめている。器具は無事だった。割れる音もしなかったという返事に、レティシアがようやく大きく息を吐いた。


 ボルグは懐中時計《かいちゅうどけい》を開き、帰りの通路を見た。


「長居はできん。証拠だけ採って出るぞ」


 マシュウとディーンが、死骸《しがい》から黒い嘴を外した。両手で抱えるほどの大きさだった。リュカが布で包み、ボルグの荷へ縛りつける。


 扉のところでは、マシュウとヴァレクで重みを受け持った。ボルグが二本の支柱を抜き、レティシアが桶《おけ》の水を逃がす。ゆっくり扉を下ろすと鎖が鳴り、青い光を満たした部屋が、再び石の向こうへ閉ざされた。


 帰り道では、壁につけた白い印がはっきり見えた。


 外へ近づくほど、波の音が大きくなる。入口をくぐると、昼の光に目が眩《くら》んだ。岩場の低いところには、もう白い泡が流れ込んでいたが、足を置く道はまだ続いていた。


 漁師の待つ場所へ上がったとき、約束の時刻までは二十分残っていた。


「おう、戻ったか。……何だ、その嘴は」


 ボルグの荷を見た漁師の顔から、笑みが消えた。布を少し開いて見せると、一歩近づきかけた足が止まる。


「あの中に、こんなのがいたのかよ」


「いた。次に案内するときも、水の深いところには気をつけてくれ」


 マシュウが言うと、漁師は何度も頷き、もう一度、崖《がけ》の下へ目を向けた。


 リュカは岩へ腰を下ろしていた。袋の中を確かめてから、遠くの海を眺め、濡れた前髪を掻き上げる。


「初めての海が、あれか……」


「嫌になったか?」


「まさか。今度は、もう少し上を見て歩きたいけどな」


 マシュウが笑うと、リュカも笑った。皆、潮と墨でひどい姿だったが、誰も欠けていない。持ち帰る袋には、青い輪も、主の嘴も収まっている。


 ディーンの腹が鳴った。


「……港へ戻ろうぜ。さっきから、焼けた臭いで腹減ってんだよ」


「飯の前に思い出したくないんじゃなかったか」


 マシュウが言うと、ディーンは返事の代わりに、先頭へ立って歩き出した。肩の揺れを見て、背後から笑いが追いかけた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。