第57話 海底の主
床の穴へ明かりを近づけると、小さな水車が見えた。
溝から落ちる水を受け、羽根がゆっくり回っている。レティシアが流れを脇へ逃がすと、台座の上の輪も止まった。マシュウは真鍮の枠を支え、軸の継ぎ目を覗き込む。
「ここで外せる。リュカ、留め金を抜いてくれ」
砂を除き、固着した金具を少しずつ動かした。軸が離れると、三つの輪を抱えた器具が持ち上がる。思ったより軽い。マシュウが差し出すと、レティシアは用意した布の上へ慎重に受け取った。
「組合で調べ終わったら、何に使っていたのか教えてもらいたいわね」
「帰ったら聞いてみようぜ。俺も気になる」
彼女が頷き、輪の間にも布を詰めていく。防水袋をリュカの背負い袋へ収めたところで、扉の向こうから、硬いものの割れる音がした。
皆の手が止まった。
もう一度。今度は何かを引きずる音が、階段の下から響いた。
マシュウは灯りを低くし、鉄の支柱の間を抜けた。広間を見下ろした途端、鼻の奥へ生臭さが押し寄せてきた。
通路脇へ寄せた礁蟹が、水へ滑り落ちようとしていた。
その胴に、太い腕が巻きついている。
赤褐色の皮膚に、白い吸盤が二列。腕は蟹の殻を締め砕きながら、水面の下へ引き込んでいた。マシュウが目で根元を追うと、崩れた柱の向こうに、馬車ほどもある丸い塊が浮いていた。
黄色い目が、こちらを向いた。
「大海蛸だ。水際から離れろ!」
マシュウが告げる間にも、濡れた天井から太い腕が剥がれた。真下にいるリュカへ、吸盤の列が落ちてくる。
「土隆!」
ボルグが戦鎚で床を打った。石段の下から岩壁がせり上がり、腕を受け止める。激突した上端が砕けたが、壁は倒れなかった。リュカがその陰へ滑り込むと、マシュウは横へ踏み出し、左手を突き出した。
「火炎矢!」
赤い光が広間を走った。
岩壁に乗った腕を貫き、その奥の腕まで穿つ。炎は二つの穴を抜け、丸い胴の縁で爆ぜた。黄色い目が見開かれ、焼けた腕がのたうつ。飛び散った水がマシュウの頬に当たったときには、もう熱かった。
効いている。マシュウは同じ傷へ、続けて炎を放った。
クラーケンが身を捩った。二発目は持ち上げた腕へ深く食い込み、三発目がその付け根を焼く。痛みに縮んだ巨体の周りで水が膨らみ、横一列の飛沫となって押し寄せた。
その中に、石の塊が混じっていた。
「下がれ!」
マシュウは左の石を避け、胸へ迫る一つを拳で砕いた。欠片の向こうから、吸盤をこちらへ向けた腕が伸びてくる。大きく開いたその奥に、黒い嘴が見えた。
引き込む気か。
足を横へ送った瞬間、ヴァレクが前へ出た。
「重刃」
長剣が振り下ろされた。刃に集まった重力が、伸びた腕を石床へ叩きつける。剣は肉を裂いてなお止まらず、その下の石にまで深い傷を刻んだ。
切り離された先端を踏み越え、ヴァレクが顔を上げる。
「ずいぶん食いしん坊だね。僕たちまで欲しいの?」
返事の代わりに、左右から腕が迫った。
マシュウはヴァレクの背を押して一緒に身を沈めた。頭上で二本がぶつかる。その隙へ、レティシアが杖を振った。
水面から三本の槍が立ち上がった。先端が細く絞られ、続けざまに腕の内側へ突き刺さる。分厚い皮膚が裂け、白い吸盤が弾け飛んだ。
マシュウが立ち上がると、濡れた槍はもう形を変えていた。
「蒼鞭!」
長い水の帯が二本の腕を絡め取り、引き離す。開いた隙間から、黄色い目が見えた。マシュウはそこへ火炎矢を撃ち込み、爆ぜる音に合わせて足場を蹴った。
あと二歩で、拳が届く。
クラーケンは、目の前で水中へ消えた。
火炎矢を受けた腕だけが、煙を上げて沈んでいく。マシュウは着地した石の上で足を止めた。透明だった水が黒く染まり、底に積もった殻も、大きな魚の背骨も見えなくなる。
「墨か。リュカ、袋を――」
「背中だ。弓も使える!」
返ってきた声に頷き、マシュウは水面へ視線を戻した。退路の入口には、別の腕が張りついている。潜ったまま、こちらを逃がす気もないらしい。
背後で水が渦を巻いた。振り向いたマシュウの耳へ、腹の底へ響くような音が届く。
吸い込んでいる。
「水を吐く! そっちから離れろ!」
黒い水柱が噴き出した。マシュウは横へ跳んだが、狙われたのは、その後ろにいるレティシアだった。
彼女が杖を引き、水を斜めの壁へ持ち上げた。水柱がぶつかり、二つの流れが白く弾ける。勢いを曲げられた黒い水が側壁を削り、石片がレティシアの足元へ降り注いだ。
細く息を吐く音がした。受け流しても、杖を支える腕が押されていた。
クラーケンの胴が、また膨らんだ。
「させるか!」
マシュウの火炎矢が、今度は水を吐く口へ突き立った。炎が内側で弾け、巨体が後ろへ反る。噴射は天井へ逸れ、降ってきた海水と貝殻が六人を叩いた。
しかし、水面の下から伸びた腕が、リュカの足場へ巻きついていた。
石が傾く。リュカは弓を持ったまま膝をつき、空いた手を石へ押し当てた。指の下から水底へ魔力が流れ、三本の尖った杭が、下から腕を刺し貫いた。
傾いていた石が止まった。突き上がった杭には、最初の火炎矢で焼かれた腕が縫い留められている。
「ディーン! こっちは押さえた!」
ディーンの剣の周りで、細かな飛沫が輪になった。風が刃に沿って絞られ、耳の奥へ鋭い音が刺さる。
「そのまま持たせろ!」
剣を振り抜くと、半月状の風が刃を離れた。水面を割って走り、杭に留められた腕の焼けた傷へ食い込む。分厚い肉が切れ、締めつけが緩んだ隙に、リュカが隣の足場へ跳び移った。
「よしっ!」
ディーンの声を、唸るような水音が呑み込んだ。
クラーケンが残った腕を広げていた。壁から剥がれた腕までがこちらへ向かう。隠れて待つのをやめた巨体が、大波を引き連れて迫ってきた。
マシュウは退かなかった。足を置ける石は、もう少ない。左右には仲間がいる。ここで跳んでかわしても、後ろへ腕が通る。
「ボルグ! 足場をこっちへ伸ばしてくれ!」
「乗れ!」
短い返事とともに、足元が持ち上がった。ボルグの土魔法が水底の岩をせり上げ、マシュウの前へ幅のある足場を作っていく。海水が両側へ落ちるより早く、その上を走った。
左手から火炎矢を放つ。腕に穴が開いても、巨体は止まらない。空いた右拳を握ると、皮膚を撫でていた炎が一気に膨れ上がった。
打ち込もうとした鼻先へ、レティシアの水の鞭が走った。
「頭を上げさせる! その下へ!」
太い水の帯が本体へ巻きつき、横へ引いた。突っ込んできた胴が傾き、嘴が空を噛む。マシュウはその下へ沈み、右の拳を突き上げた。
骨のない巨体が、拳に合わせて深く歪んだ。
押し込んだ炎が赤く広がり、クラーケンを水面から弾き上げる。マシュウの肩まで震える手応えがあった。飛び散った水が頬を焼いたが、目は逸らさなかった。
仕留めきれていない。
沈みかけた胴の下で、まだ腕が動いていた。石の縁へ吸盤を掛け、深い場所へ身体を戻そうとしている。
「逃がしてあげないよ」
ヴァレクの声が、水音の間を通った。
「黒枷」
二本の腕の下で、水面が丸く凹んだ。見えない重みが腕ごと水を押し下げ、水底へ叩きつける。しがみついていた石が割れた。クラーケンは残る腕で水を掻いたが、押さえられた側へ引き戻された。
その頭上へ、レティシアの水の槍が降った。
一つは腕に砕かれ、二つ目が胴を穿つ。三つ目を避けた巨体の横から、リュカの矢が黄色い目を射抜いた。
腕が、天井まで跳ね上がった。
マシュウは走った。黒枷の及ぶ窪みを避け、せり上がった岩の端を蹴る。横から迫る腕を左拳で打ち払い、丸い胴の上へ跳び込もうとした。
頭上から、太い影が落ちた。
「そのまま行って、マシュウくん!」
ヴァレクが左手を開いていた。マシュウは足を緩めず、目の前の傷へ狙いを絞る。
「引掌」
落ちかけた腕が、横へ引き寄せられた。ヴァレクへ向きを変えたその腕に、ディーンの風の刃が重なる。裂けた先端が石床を叩き、二人が左右へ跳ぶのが視界の端に見えた。
もう、目の前を遮るものはなかった。
マシュウは右拳へ魔力を叩き込んだ。炎が肘まで噴き上がり、近くの海水が音を立てて蒸発する。黄色い目が、こちらを見た。
「赫牙!」
焼け裂けた傷へ、拳が突き刺さった。
分厚い肉を打ち抜いた手応えの直後、炎が巨体の内側で爆ぜた。濡れた壁が赤く染まり、下顎へ熱風がぶつかる。クラーケンは胴を折り曲げ、せり上がった岩へ叩きつけられた。
マシュウは拳を引き抜き、後ろへ跳んだ。レティシアが押し寄せる波を横へ流し、ボルグの盾が飛んできた石片を受ける。
腕は、まだ動いていた。全員で距離を取り、壁を叩く音が途切れるのを待った。やがて水を掻いていた先端が沈み、焦げた臭いの中に、六人の息遣いだけが残った。
マシュウは構えを解いた。拳を覆う炎を消すと、暗さに慣れない目の奥へ、まだ赤いものがちらついていた。
*
「……飯の前に思い出したくねえ顔だな」
ディーンが剣についた黒い体液を払った。ボルグが鎚を下ろし、その肩を叩く。
「よく切った。全員、手足はついてるな?」
「こっちは平気だ」
マシュウは答え、レティシアへ目を向けた。濡れた髪を耳へ掛けようとして、彼女は手が汚れていることに気づき、途中でやめた。
「よく頭を上げさせてくれたな。あれで打てた」
「あんな勢いで来るとは思わなかったわ。あなたが押し返してくれて、助かった」
息を整えながらも、その顔には笑みがあった。マシュウも笑い返しかけたところで、ヴァレクが横から覗き込んできた。
「僕には?」
「見てたよ。最後の一本、お前がどけると思った」
「じゃあ、次も任せてよ」
満足そうに笑ったヴァレクが、長剣を鞘へ収めた。
リュカが背負い袋の留め具を確かめている。器具は無事だった。割れる音もしなかったという返事に、レティシアがようやく大きく息を吐いた。
ボルグは懐中時計を開き、帰りの通路を見た。
「長居はできん。証拠だけ採って出るぞ」
マシュウとディーンが、死骸から黒い嘴を外した。両手で抱えるほどの大きさだった。リュカが布で包み、ボルグの荷へ縛りつける。
扉のところでは、マシュウとヴァレクで重みを受け持った。ボルグが二本の支柱を抜き、レティシアが桶の水を逃がす。ゆっくり扉を下ろすと鎖が鳴り、青い光を満たした部屋が、再び石の向こうへ閉ざされた。
帰り道では、壁につけた白い印がはっきり見えた。
外へ近づくほど、波の音が大きくなる。入口をくぐると、昼の光に目が眩んだ。岩場の低いところには、もう白い泡が流れ込んでいたが、足を置く道はまだ続いていた。
漁師の待つ場所へ上がったとき、約束の時刻までは二十分残っていた。
「おう、戻ったか。……何だ、その嘴は」
ボルグの荷を見た漁師の顔から、笑みが消えた。布を少し開いて見せると、一歩近づきかけた足が止まる。
「あの中に、こんなのがいたのかよ」
「いた。次に案内するときも、水の深いところには気をつけてくれ」
マシュウが言うと、漁師は何度も頷き、もう一度、崖の下へ目を向けた。
リュカは岩へ腰を下ろしていた。袋の中を確かめてから、遠くの海を眺め、濡れた前髪を掻き上げる。
「初めての海が、あれか……」
「嫌になったか?」
「まさか。今度は、もう少し上を見て歩きたいけどな」
マシュウが笑うと、リュカも笑った。皆、潮と墨でひどい姿だったが、誰も欠けていない。持ち帰る袋には、青い輪も、主の嘴も収まっている。
ディーンの腹が鳴った。
「……港へ戻ろうぜ。さっきから、焼けた臭いで腹減ってんだよ」
「飯の前に思い出したくないんじゃなかったか」
マシュウが言うと、ディーンは返事の代わりに、先頭へ立って歩き出した。肩の揺れを見て、背後から笑いが追いかけた。




