第56話 潮の下の扉
波が退くと、海の底に階段が現れた。
白い泡が石の縁を滑り落ち、その先に、もう一段見えてくる。マシュウは岩場から身を乗り出した。崖の根元に開いた暗い穴まで、削れた段が続いている。
「あそこを歩くのか」
隣でリュカが言った。潮風に乱れた髪を押さえながら、岩と入口を交互に見ている。
「さっきまで魚が泳いでたぞ」
「まだいるだろ。ほら、あの窪み」
マシュウが指すと、取り残された小魚が銀色の腹を返した。リュカが笑いかけたところへ波が砕け、二人の靴先を濡らした。
依頼を受けた一行が海岸へ着いたのは、次の休みの朝だった。学園には二日間の校外実習として届けを出し、前夜は港町で泊まった。同行するボルグとディーンも、もう荷物を背負い直している。
「引き返す時刻は守ってくれよ」
ここまで案内した漁師が、入口より手前の低い岩場を指した。
「穴が塞がる前に、そこの道が沈む。戻ってきたら海だった、じゃ迎えに行けねえからな」
「二時間以内に、ここまで戻る」
ボルグが懐中時計を閉じた。マシュウも頷き、潮の流れを確かめてから岩場へ下りた。
濡れた石が、靴底の下で硬く冷たい。波が洗う場所を避け、ざらついた面へ足を置く。すぐ後ろをレティシアが続き、入口の両脇を興味深そうに眺めていた。
「図にあった溝ね」
指された先に、手首ほどの幅の水路が走っていた。天然の割れ目とは違い、曲がるところにまで角がある。海へ戻る水が、その底を細く流れていた。
「奥まで残ってるといいな」
「ええ。行きましょう」
穴をくぐると、潮騒が低くこもった音へ変わった。
*
ランタンの明かりが、濡れた壁を照らしていた。
通路は大人三人が並べるほど広く、天井には貝がびっしり張りついている。足元には割れた石板が重なり、その隙間へ水が吸い込まれていた。
マシュウは曲がり角の乾いた壁へ、白い印をつけた。先で光るものを見つけ、足を止める。
広間だった。
崩れた柱の間に海水が溜まり、壁の高い穴から差す光が揺れている。向こう側には上り階段があり、そこまでは水から頭を出した石を渡っていけそうだった。
「待て。その石、動いた」
リュカの声に、マシュウは上げかけた足を戻した。
奥の岩が、ほんの少し沈んだ。水面の下で細いものが折れ曲がる。濁った水越しにそれが脚だとわかったとき、左右の岩まで一緒に持ち上がった。
「礁蟹だ。壁際へ寄れ!」
大きな鋏が水を裂いた。
マシュウは前へ跳んだ。伸びた鋏の上を踏み越え、付け根へ拳を落とす。厚い殻が陥没し、砕けた欠片が頬をかすめた。
手応えはあった。そのまま押し込むと、折れた関節から鋏が垂れ下がった。
残った一本が横から来る。身を沈めた頭上で、鋏が閉じた。石を噛み砕く音が耳に響き、マシュウは水を蹴って腹の下へ潜り込んだ。
そこへ、膝を狙う脚が突き立った。
「っと!」
踵を返してかわした。細い脚の先が、石板を穿つ。あれを足の甲へ受けたら、靴ごと穴が開く。マシュウは伸ばした左手で脚を払い、右の拳を柔らかな腹へ叩き込んだ。
礁蟹の身体が浮いた。水が跳ね、黒い腹が大きく凹む。
続けて打とうとしたところで、巨体が横へ滑った。残った鋏を壁へ食い込ませ、自分の身体を引きずっている。壁の下に空いた穴へ、半ばまで潜り込まれた。
「そっちへ入れるな!」
ボルグが盾を構えて回り込んだが、狭い水際では届かない。リュカの放った矢が、穴へ消える脚の継ぎ目に刺さった。脚が折れても、礁蟹は止まらなかった。
マシュウは濡れた前髪を払った。穴の奥には、まだ動く鋏が見える。顔を突っ込んで追うには狭すぎる。
「引きずり出そうか」
ヴァレクが隣へ来た。左手を上げようとしたところで、レティシアが杖を水へ差し入れた。
「待って。そこの水を見て」
礁蟹が入った穴へ、泡が吸い込まれている。少し離れた壁の下から、同じ泡がこぼれた。
「繋がってるのか」
「出てきたところをお願い」
レティシアが杖を引いた。広間の水が帯になって持ち上がり、離れたほうの穴へ勢いよく飛び込んだ。
壁の奥で鈍い音がした。水が逆巻き、入口から脚がはみ出す。それでも礁蟹は踏ん張り、爪を石へ食い込ませていた。
「そんなところに、隠れていられると思って?」
レティシアの足が一歩前へ出た。
水がさらに細く絞られた。吹き込まれる水音が高くなった途端、折れた鋏もろとも巨体が穴から吐き出された。
マシュウは、もう踏み込んでいた。
裏返った腹へ右拳を突き上げる。拳が深く沈み、礁蟹の背が石床へ叩きつけられた。持ち上がった脚が二度、空を掻く。三度目は動かなかった。
しばらく水音だけを聞いてから、マシュウは拳を引いた。
「助かった。殻をこじ開けずに済んだ」
「私も、中に何があるのか見たかったもの」
レティシアは穴へ目を向けた。水が引くにつれ、その奥に、滑らかに削られた石の曲面が見えてくる。
「そいつが塞いでいたのね」
ヴァレクが、足元に転がった鋏を靴先で返した。
「僕の出番がなくなっちゃったな」
「じゃあ、そいつを道の端へ寄せてくれ」
「仕留めたの、君なのに?」
口ではそう言いながら、ヴァレクは左手を下げた。死骸が水の上を引きずられ、通路の脇へ収まった。
*
「これは……図の向きが逆ね」
広間の上り階段を越えたところで、レティシアが立ち止まった。
正面には一枚岩のような扉があり、左右の壁へ水路が枝分かれしている。写しの図では、左の水路だけが太く描かれていた。けれど彼女は、右の暗がりへランタンの光を向けた。
「左は水を逃がすほう。石の底が、出口へ向かって下がっているわ」
リュカがしゃがみ、指先で溝をなぞった。顔を上げ、奥へ続く暗がりと見比べる。
「右へ水を入れれば、扉の裏へ流れるな」
マシュウは扉の下へ指を掛けた。少し持ち上げると、壁の中から鎖の鳴る音が返ってくる。それ以上押す前に手を離した。
「何か繋がってる。引きちぎると、戻せなくなるぞ」
「待って。たぶん、壊さずに開けられる」
レティシアが右の水路へ手を差し入れた。しばらく探り、崩れた石の下から、緑色に錆びた金属の端を示す。
「この石、どけてもらえる?」
頼まれた石を持ち上げると、その下には深い窪みがあった。底に溜まった砂をディーンが小さな鍬で掻き出す。現れたのは、壁から吊られた四角い金属の桶だった。
縁を押すと、扉の上で鎖が動いた。
「ああ、水の重さで下げるのか」
マシュウが言うと、レティシアが頷いた。
「潮が満ちれば、この水路へ水が入る。桶が下がって、向こうの扉を引き上げる仕組みね。今は水路が塞がっているけれど……」
「水なら、下にたっぷりあるな」
「そういうこと」
答えた顔に、はっきり笑みが浮かんだ。
レティシアが階段へ杖を向けると、下の広間で水が持ち上がった。段を一つずつ乗り越え、透明な流れが足元を通っていく。さっき礁蟹を押し出したときとは違い、石の縁から雫一つこぼれなかった。
桶へ水が注がれた。重みを増した桶がゆっくり下がり、扉の下に細い隙間が開く。
「動いたぞ」
リュカが顔を寄せた途端、鎖が鳴って止まった。
扉は、膝の高さまでしか上がっていない。レティシアが水を止める。もう桶はいっぱいだった。
マシュウはランタンを低く持ち、扉の下を覗き込んだ。床の溝へ、白い殻が厚く詰まっている。扉の端が、それに乗り上げていた。
「噛んでるな。俺が上げる」
「二人でやろうよ」
ヴァレクが隣へ膝をついた。マシュウの返事を待たず、扉へ掌を添える。
マシュウは両手を掛けた。腰を落とし、息を吐きながら押し上げる。重力が上へ働き、腕に乗った重みが軽くなった。石の擦れる音とともに、扉が上がっていく。
「そのままだ。支えを入れるぞ」
ボルグが持参した鉄の支柱を差し入れた。リュカとディーンが挟まった殻を除き、もう片側にも支柱を立てる。マシュウはゆっくり手を離し、扉が落ちないことを確かめた。
「戻るときも、ここは通れる」
ボルグは支柱を叩いてから、時計へ目を落とした。
「半分近く使った。奥を確かめたら回収して戻るぞ」
皆が頷いた。マシュウは手についた砂を払い、レティシアへ顔を向ける。
「先に見るか?」
彼女は一瞬こちらを見て、それから嬉しそうに扉の下をくぐった。マシュウも続いて身体をかがめる。
中は、青かった。
丸い部屋の天井には、厚い硝子を嵌めた細長い窓が並んでいた。その上を海水が洗い、差し込む光が、壁も床もゆっくり撫でている。部屋の真ん中には、背の低い台座があった。
そこに、三つの輪が重なっていた。
青い輪を支える真鍮の枠。その下へ、床の溝から細い水が注いでいる。さっき扉を開けるために流した水だった。
一番外の輪が、わずかに動いた。
レティシアが息を呑んだ。もう一つの輪も、遅れて傾く。壁に散っていた光が輪の内側へ集まり、揺れる青い模様を描き出した。
「まだ、動くのね……」
その声に、マシュウも頷いた。依頼書の小さな絵には、水も光も描かれていなかった。
レティシアが台座へ近づきかけ、立ち止まった。
「待って。これ、下の水路にも繋がっているわ」
彼女の視線を追うと、台座の裏から細い軸が延びていた。軸は石床の穴へ潜り、その奥で、何かがゆっくり回っていた。




