第55話 山の灯 海の道
「そこへ置いて。助かったわ」
診療所の奥へ薬箱を運ぶと、女はさっそく蓋を開けた。名はエッダというらしい。窓際に並んだ空の瓶へ目をやってから、中の包みを一つずつ確かめ、ようやく肩を下ろした。
「待ってたんだ。この薬」
「ええ。次の荷車まで足りるか、心配していたところ」
寝台に腰掛けた男が、包帯を巻かれた手を上げた。
「これで明日は戻れるな」
「薬が来たからって、傷が塞がる日まで早まるわけじゃないわよ。クルト、あと二日は休むこと」
男の手が下がった。窓の外では、荷を引き上げる掛け声が響いている。クルトは名残惜しそうにそちらを見たが、エッダに睨まれると、諦めて上着を羽織った。
「岩鷲が出たって聞いたぞ。ラウルの荷を守ってくれたんだってな」
「ああ。袋と幌は、ちょっとやられたけど」
「中身が届きゃ十分だ。ありがとな」
差し出された無事なほうの手を、マシュウは握った。節が太く、爪の間に黒い粉が残っている。
「今夜は町に泊まるんだろ。飯を食う場所は決めたか?」
「まだだ。うまいところがあるなら教えてくれ」
「それなら任せろ」
クルトの顔が明るくなった。エッダが、酒は飲むなよ、と背中へ言い添えた。
*
「これで上がるのか?」
マシュウは、崖に沿って吊られた大きな籠を見上げた。
荷下ろしを終えた仲間たちと合流すると、クルトは階段を通り過ぎ、町の端にある乗り場へ案内した。太い綱の先に、鉄の枠と板床で作られた籠がぶら下がっている。中では、パンの籠を抱えた女が出発を待っていた。
「上の通りまでな。人は六人までだ。ボルグ、あんたは次にしてくれ」
「俺を二人分で数えるな」
「盾を下ろしてから言えよ」
乗り場の男たちが笑った。クルトが歩いて上へ先回りすることになり、マシュウたち五人はパン屋の女と乗り込んだ。男が横木を閉じて留め金を掛け、上へ合図を送る。
頭上で滑車が鳴った。
足の裏が、ぐっと押し上げられる。マシュウが枠を掴むと、乗り場がするすると下がっていった。すぐ横を岩肌が流れ、その向こうから屋根が一枚、また一枚と現れる。
「おお……!」
見下ろすと、さっき通った橋の全体が見えた。荷車の幌を繕うラウルまで、小さくなっている。リュカが隣で身を乗り出しかけ、女に袖を引っ張られた。
「帽子でも落としたら、帰ってこないよ」
「被ってないって」
「頭もね」
リュカは黙って足を引いた。笑いを堪えきれなかったレティシアが顔を背け、その肩が小さく揺れた。
ヴァレクは反対側の枠へ背を預けていた。上を見れば、岩壁を横切る狭い通路が何段にも重なっている。
「上から落とされたら、下の人は困るだろうね」
「試すなよ」
「僕、まだ何も言ってないけど」
マシュウが横目を向けると、ヴァレクは楽しそうに笑った。
籠が上の乗り場へ収まる。板床から石畳へ移った途端、焼けた肉の匂いが鼻へ飛び込んできた。店先の鉄板には、薄く切った肉と玉ねぎが山盛りになっている。
階段を上ってきたクルトが、息を整えながら手を振った。
「そこの角を曲がった店だ。俺たちの仕事上がりは、だいたいそこに集まる」
「先に一つ買ってもいいか」
マシュウが鉄板を指すと、ディーンがすでに銅貨を出していた。
*
夕方には、店の窓の外まで人の声で賑わっていた。
届いた道具を試した話。昨日掘り当てた鉱石の話。誰が狭い坑道で腹をつかえさせたかという話になると、ボルグまで大声で笑った。
クルトはこの町で、採掘をする班の一つをまとめているという。何度も腕を振って説明し、そのたびに卓の隣から、傷を開くぞ、と叱られていた。
「なあ、あれは何だ?」
マシュウは窓の外を指した。暗くなり始めた階段に、淡い黄色の点が並んでいる。人が通ると一つ隠れ、足が離れるとまた光った。
「灯石だよ。昼に日を浴びさせとくと、夜まで光る」
クルトが懐から、小さな欠片を出した。爪の先ほどの大きさだが、掌へ落とすと、指の間までほんのり明るくなる。
「この辺りじゃよく採れる。大きく割れたのは通りに使って、細かいのは店へ出すんだ」
「土産にいいな。どこで買える?」
「入口の道具屋。磨いたのが欲しけりゃ、その隣だ」
見知らぬ町に、欲しい物ができた。明日の朝、出発前に寄ってみよう。マシュウは石を返し、もう一度窓の外を見た。
昼間は岩と階段ばかりに見えた場所を、今は子供が駆け下りている。下の家から呼ぶ声がして、小さな影が手を振った。その横を、空の籠を背負った男がゆっくり上ってくる。
「今度は休みを長めに取って来いよ」
クルトの声に、マシュウは振り向いた。
「向こうの山には、底の見えねえ湖がある。天気がよけりゃ、山頂まで案内してやる」
「本当か?」
「ああ。俺の手が治ってからな」
リュカまで身を乗り出した。レティシアが湖の色を尋ね、ディーンは山に出る獲物を聞いた。ヴァレクも、強いのはいるの、と口を挟む。
クルトは一度に答えられないと笑い、卓の濡れたところへ指で山の形を描き始めた。
*
帰りの荷車には、鉱石の箱が積まれていた。
翌朝、店で選んだ三つの布袋を鞄へしまい、マシュウは町を出た。灯石の袋は小さかったが、歩くたび、鞄の中で軽く触れ合った。
帰路は大きな襲撃もなく、四日目の夕方、出発した城門が見えた。荷車を倉庫まで送り届けると、ラウルが受領書へ印をつけた。
「次も都合が合ったら頼むぞ。ガルドナだけじゃない、東にも南にも行くからな」
「遠いところか?」
「そりゃもう。退屈しないぞ」
マシュウが笑うと、ラウルも笑った。
その夜、ネラは灯石を両手で包み、指の隙間から漏れる光を覗き込んだ。エリオは窓辺の日の当たる場所へ置くと言い、フェリクスは杖のそばへ袋を置いた。
「橋から見た川、青かったぞ。下流のほうは、白くなってた」
「流れが急になる場所だな。どの辺りだ?」
広げられた地図へ、マシュウは椅子を寄せた。今度は川を辿る指が、途中で迷わなかった。
*
帰校して三日後の放課後、マシュウたちは冒険者ギルドへ向かった。
護衛の報酬で靴底を張り替え、旅で減った道具も補った。学園の授業を終えて革の上着へ着替えると、まだ歩いていない道のことが頭へ浮かぶ。今度はどこへ行けるだろう。
「マシュウ、こっち」
掲示板の前で、レティシアが手を上げていた。指先で押さえている依頼書には、海岸の崖を描いた小さな図が添えられている。
「遺物の回収か」
「潮が引いたときだけ入れる遺跡ですって。依頼人は、海沿いの測量組合」
彼女が示した絵を、マシュウは間近で見た。波打ち際の岩壁に入口があり、その上へ、水の届く高さが線で引かれている。入口は、満潮になるとすっかり沈む位置にあった。
「戻る時間を間違えたら、帰り道が海の底だな」
「ええ。だから道を確かめながら進む必要があるわ。潮まで私の魔法で止められると思わないでね」
「思ってないさ。水が来てから走り出すんじゃ遅い」
壁に残る海藻の高さや、引き返すための目印。頭の中で道具を数えていると、横からリュカが図を覗き込んだ。
「海か。俺、こんなところ歩いたことないぞ」
「山とは足元も違うわね。滑る岩もあるし、波で見えなくなる割れ目もある。現地で案内人に聞きましょう」
レティシアの指が、入口の奥へ延びる線をなぞった。次の線へ移る前に、少し止まる。
「ここ、水の通り道に見えない?」
マシュウが覗くと、通路の横に細い溝が描かれていた。線は奥の部屋を巡り、別の場所でまた海へ戻っている。
「中を見ないとわからないけれど、潮を使って何かを動かしていたのかもしれない」
いつもの授業で問題を解いているときとは、少し違う声だった。早く確かめたくて、足が先へ出そうになっている。マシュウも同じ図から目を離せなくなった。
「回収するのは?」
「青い輪が三つ重なった、真鍮の器具。昔の調査記録には、奥の台座にあったと書かれているそうよ」
「まだ残ってれば、だな」
「見つからなかった場合も報告する契約ね。ただ、戻るのが遅れても報酬は増えない」
「なら、急いで死ぬ必要もないね」
肩越しに声がした。ヴァレクが、マシュウと同じ図を眺めている。
「僕も行くよ。水の下にいたものが出てくるんでしょ。何が棲んでるのか、ちょっと気になる」
「まだ受けるって決めてないぞ」
「でも、行きたい顔をしてる」
否定しようとして、マシュウは口を閉じた。レティシアが小さく笑い、掲示板から依頼書を外す。
「ボルグに日程を相談しましょう。全員が揃う日と、潮の引く時間が合うか確かめないと」
紙が外れたあとも、マシュウの目には岩壁の入口が残っていた。今は波の下に隠れていて、決まった時刻にだけ、奥へ続く階段が顔を出す。
「今度は海の底か」
呟いてから、皆のあとを追った。依頼書を持つレティシアの足も、いつもより速かった。




