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第54話 谷風の街道

「よし、出すぞ!」


 ボルグの声に、三台の荷車が動き始めた。朝靄の残る城門を抜けると、車輪の音が石畳から土へ変わる。マシュウは先頭の荷車の横を歩きながら、肩に掛けた荷物の位置を直した。


 今日は夕方の鐘が鳴っても、学園へ戻らない。そう思うだけで、門の外の景色がいつもより広く見えた。


「随分、機嫌がいいね」


 ヴァレクが隣へ来た。黒い革の上着の襟から、火傷の跡が覗いている。長剣を吊った腰にも、歩く足にも、不自由そうなところはなかった。


「知らない道を歩くのは、好きだからな」


「僕も、今回の旅は楽しみだよ。四日間も一緒だし」


「そのぶん働けよ」


「君もね」


 後ろでは、レティシアが御者と話していた。リュカは最後尾から見える森を眺め、早くも地図を取り出している。ディーンに、歩きながら読むと転ぶぞ、と肩を押されていた。


 今回、学園から引率を任されたのはボルグだった。学生四人の参加は認められ、護衛にはディーンも加わっている。先頭を御するラウルという男が、振り向いて太い眉を上げた。


「若いのが多いと賑やかでいいな。前の護衛は、おっさんばかりでなあ」


「一番うるさかったのは、お前だろうが」


 ボルグに言い返され、ラウルが声を上げて笑った。商いのたびにこの道を通るらしく、どこの水場なら馬を休ませやすいか、どの宿の煮込みがうまいか、話が次々に出てくる。


 マシュウは歩幅を合わせ、先に延びる道を見た。地図を囲んだ夜、フェリクスが教えてくれた川が、この先にある。橋から見える色を覚えて帰ろうと思った。


     *


 最初の夜は、街道沿いの野営地で過ごした。


 マシュウが石で囲った火へ鍋を掛ける頃には、馬も水を飲み終えていた。風上へ荷車を寄せ、焚き火から火の粉が飛ばない側へ寝床を作る。レティシアが干し肉を刻み、ディーンが鍋を覗き込んだ。


「まだか?」


「さっき入れたばかりだろ。薪をもう一本くれ」


 渡された薪を折って火へ足すと、ボルグが荷物から小さな包みを出した。中には、細く切った乾燥茸が入っていた。


「半分入れろ。残りは帰りだ」


「全部のほうが、うまいだろ」


「帰りに薄い汁すすっていいならな」


 ディーンが包みから手を引っ込めた。ヴァレクがその様子を見て笑い、空いた椀をマシュウの隣へ置く。


 湯気の向こうで、リュカが昼間見た獣の足跡を指で描いていた。レティシアも身を乗り出し、木陰で見かけた小さな魔物のことを尋ねている。マシュウは肉の柔らかさを確かめ、皆の椀へ順に注いだ。


 腹を満たして寝床へ入ると、遠くで虫が鳴いていた。夜番の二人が交わす小声と、薪の爆ぜる音が聞こえる。外で眠る夜の匂いに、マシュウは目を閉じた。


     *


 翌日の昼前、森が切れた。


 マシュウは思わず足を止めた。道の左手が、深い谷へ落ちている。底を流れる川は白い糸のように細く、向かいの岩壁には幾筋もの滝が光っていた。


「……すげえな」


 風が下から吹き上がり、上着の裾を持ち上げた。見上げた先では、岩肌を削った道が折り返しながら高みへ続いている。その途中に、細い橋が何本も架かっていた。


「ガルドナは、あの奥だ」


 ラウルが鞭の柄で指した。地図の線が、目の前で道になっている。マシュウは笑い、止まっていた足を動かした。


 荷車一台と、人が脇を歩けるだけの幅だった。岩壁側へ寄せた車輪が、小石を踏むたびに軋む。マシュウは荷台から飛び出しかけた袋を押し戻し、そのとき、袋の上を横切った影に顔を上げた。


 灰色の翼が、空を滑っていた。


 一羽ではない。岩壁に紛れていた影が続けて離れ、谷へ大きな弧を描いていく。最後尾で、ボルグの盾が持ち上がった。


「岩鷲《ロックイーグル》だ! 御者は車を寄せて止めろ!」


 ラウルが手綱を引いた。マシュウは先頭の馬の横へ出て、谷を見下ろす。翼を広げれば人の背丈を優に超える灰色の鳥が、下から吹く風に乗って迫っていた。


 あの回り方は知っている。上の影に気を取られると、腹の下から爪が来る。


「下にも二羽いるぞ!」


 叫ぶと同時に、頭上の一羽が翼を畳んだ。


 鋭い鳴き声が耳を刺す。二台目の幌が、爪で大きく裂かれた。レティシアが御者を引き寄せ、その頭上へ水を走らせる。横殴りの流れに翼を打たれた岩鷲が、荷台から弾かれた。


 白い腹が見えたところへ、リュカの矢が入った。岩鷲は宙で一度身を捩り、谷へ落ちていく。


 マシュウは馬の鼻先から手を離し、荷車の前へ出た。下から来た一羽が、顔の高さまでせり上がっていた。黒い爪が開く。首を引いてかわすと、背後の木枠へ爪が食い込んだ。


 離す前に、片脚を掴んだ。


 翼が激しく顔を叩く。羽毛越しの硬い胸へ拳を打ち込み、動きの止まった身体を道の外へ放る。灰色の翼が岩壁に当たり、折れた羽が風に散った。


「先頭は無事だ!」


 振り向いたマシュウの視界で、最後尾の盾が跳ねた。嘴を受けたボルグが一歩踏ん張り、盾の縁で鳥の首を押し上げる。その下から振られた戦鎚が、胸を潰した。


 重い音に、御者が肩を竦めた。ボルグは岩鷲を谷側へ蹴り落とし、もう一度盾を上げる。


「頭を出すな! まだ来る!」


 ディーンが走った。倒れかけた御者を荷車の陰へ押し込むと、車輪の軸を足場に跳び上がる。風が灰色の髪を逆立て、その剣が、背後へ回り込んでいた一羽の翼を斬った。


 岩鷲が荷台へ落ちた。暴れる爪を避け、ディーンが喉へ刃を押し込む。


「こっちは片づいた!」


 その声に重なって、先頭の荷台で綱が切れた。


 谷側からせり上がった最後の一羽が、乾燥肉を詰めた袋を引き抜いていた。大きく羽ばたくたび、残った綱が荷物を引っ張る。薬箱まで傾いたのを見て、マシュウは荷台へ駆け寄った。


 鳥を追って、箱から手を離すわけにはいかない。胸で薬箱を受け止め、引きずられる綱を小刀で断つ。軽くなった岩鷲が、袋を掴んだまま高く上がろうとした。


「それ、僕たちが届ける荷物なんだよね」


 ヴァレクが谷の縁へ立っていた。差し出した左手が下がると、羽ばたいていた岩鷲も沈んだ。逃れようと翼を打つが、上がれない。袋の底が、道の高さへ戻ってくる。


「マシュウくん、受け取れる?」


「寄越せ!」


 薬箱を荷台へ戻して身を乗り出した。袋を抱え、引き寄せる。嘴が目の前へ迫ったが、その首をヴァレクの剣が横から断った。


 爪が外れた袋を胸へ収め、マシュウは道へ戻った。すぐ後ろを灰色の身体が落ちていく。ヴァレクは剣の血を払い、こちらの抱えた荷を見た。


「晩ご飯も入ってたかな。それ」


「爪の穴が開いちまった」


「中身は残ってるだろう」


 ラウルが御者台から降りてきた。袋の傷を確かめ、ほどけた口を結び直す。それから、マシュウの肩を大きな手で叩いた。


「助かった。これが届くのを待ってる連中がいるんだ」


 マシュウは頷き、袋を荷台へ押し上げた。谷の風は相変わらず強かったが、灰色の翼はもう見えなかった。


     *


 幌の裂け目を縛り、荷を積み直して、車列は再び動き始めた。


「四羽、谷に落ちたな」


 荷台に残った一羽を見ながら、ディーンが言った。マシュウは締め直した綱を引き、苦笑する。


「拾いに行くか?」


「行くかよ。帰るころには食われてる」


「残ったそいつで我慢しろ。嘴と爪は売れる」


 ボルグに言われ、ディーンはさっそく小刀を抜いた。先ほどまで剣を握っていた手が、今は羽毛を器用にかき分けている。


 隣へ来たヴァレクへ、マシュウは顔を向けた。


「さっきは助かった。荷物ごと落ちるかと思ったぞ」


「君が箱を押さえたから、僕は鳥を見ていられたんだよ」


 言いながら、ヴァレクは自分の剣へ視線を落とした。


「今度はもう少し近くまで下ろせる。君が殴るなら、そのほうがいいでしょ」


「ああ。頼む」


 返事をすると、ヴァレクの口元が緩んだ。その顔を横目に、マシュウは先の道へ目を戻した。今の仕事では、確かに息が合っていた。


 最初の橋を渡ると、谷の向こうから金槌の音が聞こえ始めた。もう一つ曲がり角を越えたところで、リュカが先頭へ駆けてくる。


「見えたぞ、町だ!」


 赤茶けた岩壁に、いくつもの屋根が張りついていた。家々を結ぶ階段の下には別の家があり、窓から渡された綱で、籠が上の通りへ引き上げられている。崖の中腹を走る細い軌道では、鉱石を載せた小さな車が音を立てていた。


 町の入口でラウルが手を上げると、作業着の人々が顔を向けた。


「薬も来たのか?」


「来たぞ! 肉も道具も、ちゃんとな!」


 荷車へ人が集まり始めた。さっき抱えた袋が、二人がかりで下ろされていく。マシュウも手を貸そうと近づくと、薬箱を受け取った女がこちらへ笑いかけた。


「上まで運んでくれる? 診療所、あの階段の先なの」


「わかった。何箱だ?」


「三つ。急がなくていいからね」


 マシュウは箱を重ねて抱え、石の階段へ足を掛けた。焼きたてのパンの匂いが、細い路地から流れてくる。屋根の隙間には、ここまで渡ってきた橋が小さく見えた。


 この町へ、荷物を届けに来た。


 腕の中で箱を抱え直し、マシュウは待っている人のいる階段を上った。

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