第53話 初仕事の分け前
横薙ぎの牙を跳び越すと、眼下で灰色の甲殻がうねった。マシュウは着地と同時に左手を伸ばし、肩の継ぎ目へ火炎矢を撃ち込んだ。
炎が奥へ突き抜け、鎧猪の巨体が土を削って倒れる。焼けた臭いを背に振り向くと、右手ではディーンが低く身を沈めていた。
剣が前脚を薙ぐ。猪が膝を折った瞬間、ディーンは吹き上がる風に背を押され、その横をすり抜けた。甲殻の下へ刃を滑り込ませ、喉を深く切り裂く。
「よしっ……!」
剣を抜いた彼の向こうで、果樹が大きく揺れた。枝をへし折って二頭が駆け出し、斜面を下っていく。水路の手前にはレティシアがいた。
「こっちへ来るわ!」
マシュウが走り出すより早く、彼女の杖が振られた。水路から持ち上がった水が、猪の足元へ横殴りにぶつかる。泥が跳ね、二頭の足が縺れた。
それでも、片方が強引に頭を上げた。水を蹴散らし、レティシアへ牙を向ける。
リュカの矢が、その耳の付け根へ突き立った。
猪が傾く。もう一頭が脇を抜けようとしたところへ、土の杭がせり上がった。曲がった鼻先を、今度は細く絞られた水が貫く。倒れた二頭の間で水がほどけ、斜面を流れ落ちた。
「助かったわ」
「そっちこそ。あんなに止めてくれりゃ、狙いやすい」
次の矢をつがえるリュカに、レティシアが頷いた。マシュウは走る向きを変え、木々の奥へ目を凝らす。まだ葉が揺れていた。低い鼻息とともに、腹の下まで泥をこびりつかせた大きな一頭が現れる。
その隣から、もう一頭。
「マシュウくん、好きなほうをどうぞ」
横へ来たヴァレクが、長剣を抜いた。マシュウは大きいほうを指し、そのまま前へ出る。
「じゃあ、こっちだ」
「そう言うと思った」
笑い声の直後、小さいほうの猪の頭が地面へ沈んだ。踏ん張る脚の下で土が窪み、牙が深く食い込む。ヴァレクはその脇へ歩み寄ると、持ち上がった首へ剣を突き下ろした。
大きいほうは止まらなかった。肩ほどもある背を揺らし、折れた枝を巻き込みながら迫ってくる。顎の下には、前の二頭にはなかった厚い甲殻が見えた。
マシュウは右拳を握った。顎を狙うより、額へ。分厚い甲殻ごと打ち砕ける手応えが、握り込んだ指にあった。
踏み込んだ靴が、土を噛む。牙が腿の外を掠めた瞬間、額へ拳を叩き込んだ。
乾いた破裂音が響いた。甲殻が陥没し、鼻先が地面へ落ちる。後ろ脚が浮いた巨体は、マシュウの脇を転がり、斜面に深い跡を残して止まった。
指を開いても、痛みはなかった。以前なら腕を痛めかねなかった硬さを、今は拳が突き破っている。マシュウは手についた欠片を払い、木々の間へ顔を向けた。
鼻息は、もう聞こえない。葉擦れの向こうで、小鳥が鳴いた。
「……それ、いちばんでかい奴だぞ」
ディーンが近づいてきた。砕けた額を見て、こちらの右手を見る。何か言いかけて唇を噛むと、剣についた血を払った。
「次は俺にも残せよ」
「遅れなきゃな」
「言ったな、お前」
マシュウが笑うと、ディーンも歯を見せた。その肩越しで、ボルグが盾を下ろしている。戦いの間に果樹園の出口へ回り、道を塞いでいたらしい。
「七頭か。まだ奥を確かめるぞ。リュカ、足跡を見ろ。ほかは二人ずつで回れ」
ヴァレクが、すぐにマシュウの隣へ来た。
「はい、僕たちは決まり」
「返事くらい待てよ」
「嫌だって言う間に、取っておきたくてね」
血を拭った剣をしまい、ヴァレクは先に木の下をくぐった。マシュウは呆れながら、その後を追った。
*
新しい足跡は七頭分で途切れていた。倒れた猪の息も一頭ずつ確かめ、ボルグが安全を告げると、門の外で待っていた果樹園の主人が駆け込んできた。
「もう入っていいのか? 本当に?」
「ああ。倒れかけてる木には、近づくなよ」
マシュウが答えると、男は根元を掘り返された木へ走った。低い枝を引き寄せ、実を一つずつ確かめていく。潰れたものを見つけるたび顔を曇らせたが、やがて、枝を持つ手を止めた。
「……間に合った。今日から、摘める」
門のほうへ振り向き、働き手たちを呼んだ。籠を抱えた人々が入ってきて、猪を避けながら木の下へ散っていく。さっきまで獣が荒らしていた場所へ、人の声が戻ってきた。
マシュウも腰の小刀を抜いた。リュカと一緒に血抜きを済ませ、甲殻の端へ刃を入れる。皮を傷つけないよう刃先を送っていると、横からディーンが覗いた。
「慣れてんな。こういうのも、学校でやんのか?」
「入る前からやってた。売るとき、傷だらけだと安くなるからな」
「それ、今朝も聞いた」
離れたところで、ボルグが鼻を鳴らした。ディーンは聞こえないふりで猪の脚を持ち上げる。
「こっち押さえとく。早く済ませて、飯にしようぜ」
貸してもらった荷車へ獲物を積み終える頃には、日が高くなっていた。主人が戻ってきたのは、綱を締めている最中だった。両手に、熟した実を詰めた小さな籠を下げている。
「これは持っていってくれ。依頼料とは別だよ。皆さんで分けてくれればいい」
差し出された籠を受け取ると、甘い匂いが鼻をくすぐった。ネラの顔が浮かび、マシュウは思わず笑った。
「助かる。土産を頼まれてたんだ」
「それなら、もっと詰めよう」
「いや、これでも十分――」
止める前に、主人は摘み手のところへ駆けていった。レティシアがこちらの籠を覗き込み、一つ手に取る。
「どうしたの。困った顔をして」
「帰りのほうが荷物が増えるとは思ってたけどな」
彼女は笑い、持ちきれなくなりそうな分を、自分の荷物へ移してくれた。
*
ギルドへ戻ると、獲物は裏の買い取り場へ運ばれた。計量台へ肉が載せられるたび、ディーンが身を乗り出す。最後に告げられた額を聞いて、ようやく満足そうに頷いた。
報酬を分けたあと、マシュウたちは受付の前へ呼ばれた。
四枚のプレートが並んでいた。自分の名前の下には、三つの星が刻まれている。
「マシュウ、レティシア、ヴァレクは三つ星。リュカは二つ星だ」
ボルグが一枚ずつ渡した。受け取った金属は、ひんやりと重い。マシュウは指で星をなぞり、首へ紐を掛けた。
「お前ら三人は、まだ余力を残してたな。上の認定を狙うなら、次はもっと手強い獲物を見せてもらう。あの猪じゃ、底まで測れねえ」
「だったら、次の依頼は大事ね」
レティシアはプレートを握り、壁の依頼書を見た。ヴァレクは星よりも先に、隣のマシュウの胸元を覗き込んでくる。
「お揃いだね」
「名前は違うぞ」
「そこは見ればわかるよ」
その横で、ディーンが自分の二つ星を服の中へ押し込んだ。マシュウと目が合うと、隠すのをやめて引っ張り出す。
「……くそ。初日で抜かれた」
「さっきの剣、よかったぞ。脚を斬ってから回るの、速かった」
「それで満足すると思うなよ。次も一緒に来い。今度は、お前をびっくりさせてやる」
悔しそうな顔で言われ、マシュウは笑った。ディーンの肩へ拳を軽く当てると、同じ強さで返ってきた。
「なら、ちょうどいい仕事がある」
ボルグが受付から一枚の依頼書を取った。鉱山町ガルドナへ向かう荷車の護衛だった。乾燥した食料、薬、採掘道具。運ぶ品の下に描かれた略図には、曲がりくねった道と、いくつもの橋がある。
「出発は五日後だ。往復で四日。学園へは、引率をつけた遠征実習として話を通してある。来るなら、俺からダリウスに名前を出す」
「ここ、崖か?」
マシュウが図を指すと、ボルグは頷いた。
「町ごと岩壁に張りついてる。初めて行くなら、下ばかり見るなよ。上にも、飯を狙ってる奴がいる」
リュカが身を乗り出した。ディーンも地図を覗き込み、レティシアは運ぶ品と道の長さを確かめている。マシュウの頭には、まだ見たことのない岩壁と、その間を渡る橋が浮かんでいた。
「行く。俺も入れてくれ」
*
夕方、中庭へ戻ると、ネラとエリオが向かい合って足を動かしていた。ネラの伸ばした手を、エリオが横へ抜けてかわす。勢い余って足を揃えかけたところへ、長椅子からフェリクスの声が飛んだ。
「そこで止まったら、次が来るぞ」
「わかってる……!」
マシュウが籠を持ち上げると、最初にネラが気づいた。
「おかえり! それ、お土産?」
「ああ。仕事をしたら、もらえた」
長椅子の脇へ籠を置くと、三人が覗き込んだ。フェリクスが大きな実を選び、エリオが四人分を水場へ洗いにいく。ネラは、その間にもマシュウの胸元の星を数えていた。
「三つもついたんだ」
「次は、泊まりで町まで行く。崖の上にあるんだってさ」
話を聞いたフェリクスが、膝の本を閉じた。
「名前は?」
「ガルドナ。依頼書の控え、もらってきた。道も描いてある」
差し出すと、ネラが横から覗き込んだ。水場から戻ったエリオも実を配り、肩を寄せる。マシュウはひと口かじってから、地図の細い線を指で辿った。
今度は、帰ってきたらここがどんな道だったか話せる。紙の端を押さえる三人の手を見ながら、出発の日を思って胸を弾ませた。




