第52話 英雄の名が残る場所
扉を開けた途端、焼いた肉と革油の匂いが流れてきた。
「だから、その傷は運んでる途中についたんだって!」
「売り物を運ぶのも仕事のうちだ。次は布を敷け」
朝からよく通る声だった。マシュウは笑いそうになりながら、背負った荷物を持ち直した。厚手のシャツに短い革の上着、腰には小刀と水袋。制服を脱いで歩くと、足取りまで違ってくる。
受付の奥では、剃り上げた頭の男が、灰色の髪の少年へ硬貨を渡していた。男の椅子には傷だらけの大盾が立てかけられ、戦鎚が足元に置かれている。少年は後ろへ反った小さな角を持つ魔族で、革の上着には不揃いな縫い目があった。
「ディーン、数えてからしまえ」
「数えてる。話しかけるな、わからなくなる!」
少年の指が硬貨の上を戻った。マシュウの隣で、リュカが吹き出す。背の弓が扉へ当たりかけ、手で押さえた。
「賑やかね」
レティシアも中へ入ってきた。膝丈の青い上着に革の長靴を合わせ、杖を手にしている。その後ろから、黒い革の上着を着たヴァレクが顔を出した。腰の長剣を軽くずらし、当然のようにマシュウの隣へ収まる。
「今日は何を倒しに行こうか、マシュウくん」
「まず依頼を見る。肉が売れる相手だといいな」
「君、昨日も肉の話をしてたね」
「金になるし、飯にもなるだろ」
昨日、いつもの四人で昼を食べたとき、ネラには土産を頼まれた。荷物には、四人で分けられるくらいのものを入れる余裕も残してきた。
マシュウは壁一面の依頼書へ目を向けた。橋の修繕を手伝う仕事、薬草の採集、商隊の護衛。討伐依頼の前では、二人の冒険者が地図を広げて話し込んでいる。
百年前も、こうして朝の仕事を選んでいた。報酬で何日食えるか考え、街道の距離を測り、ときには隣から手が伸びて、欲しかった依頼書を取られた。
紙の前へ進もうとしたところで、ダリウスに呼ばれた。
「登録を済ませた者から、受けたい依頼を選べ。最初の討伐には審査員が同行する。そこで実力を見てもらい、星の認定を受ける」
引率された同級生たちが受付へ分かれていった。オスカーはすでに帳面を開き、イリスと報酬の欄を覗き込んでいる。
「お前ら、学園の一年か」
硬貨をしまった少年が近づいてきた。胸元で金属のプレートが揺れ、二つの星が光った。
「ディーン・ロウ。俺は二つ星だ。学校には行ってねえ。早く自分で稼ぎたかったからな」
「マシュウだ。よろしく」
握った手には、剣の柄でできた硬いところがあった。ディーンはマシュウの手も見てから、少し口元を緩めた。
「あのおっさんがボルグ・ハーゲン。今日は、お前らの審査もやるってさ」
ボルグが大盾を持ち上げた。黒い顎髭の下、首から下げたプレートには四つの星が並んでいる。
「六つまであるんだ。俺も、いずれそこまで行く」
ディーンが自分のプレートを指で弾いた。百年前に等級を示していた文字が、今は星に変わっている。マシュウは二枚のプレートを見比べてから、奥の壁へ視線を移した。
依頼書の上に、大きな絵が掛かっていた。倒れた黒い龍と、その前に立つ一人の冒険者。傍らには、五つの紋章が描かれている。
あのときの空は、こんなに明るくなかった。
煙が空を塞ぎ、息を吸うだけで喉が焼けた。落ちていく黒龍の首を見ながら、もう腕一本持ち上げられずにいた。
「アルドリック・ハイゼンだ。かっこいいだろ」
ディーンの声に、マシュウは顔を向けた。
「……あの人の名前か」
「知らなかったのか? 黒龍を倒した冒険者だぞ。当時のSランク。俺も、あの人みたいになりたくてさ」
もう一度、絵を見た。勝利を描いた明るい色の中に、百年前の光景が重なる。
アルドリック・ハイゼン。
胸の中で繰り返すと、ようやく、あの戦場にいた一人の男と名前が結びついた。
「ここへ来る奴は、よくその話をする」
ボルグがそばへ来た。片耳の縁が欠けているのが、間近ではっきり見えた。
「俺も若い頃は、あの人みてえになれると思ってた」
「諦めたのか?」
ディーンが尋ねると、ボルグは鼻で笑った。
「まだ四つだ。先は長えよ」
太い指が胸の星を撫でた。ディーンは嬉しそうに笑い、絵へ向き直った。マシュウもその横顔を見て、口元を緩めかけた。
「首を落として終わりじゃねえからな。五つも心臓を抜き取って、王様たちに預けてさ。俺なら、運んでるだけで参りそうだ」
笑いかけたまま、息が止まった。
「……心臓?」
自分の声が、思ったより低く響いた。隣に来ていたレティシアが、こちらを見る。
「黒龍には五つの心臓があったの。倒したあとでアルドリックが気づいて、すべて取り出したと伝わっているわ」
「残ってるのか。今も」
「ええ」
レティシアは絵の脇に並ぶ紋章へ目を向けた。
「一つ一つに途方もない魔力があって、持っているだけで瘴気を吸っているように感じたそうよ。何かに呼びかけられるような衝動もあったと記録されている」
マシュウは紋章を見つめた。あの瘴気の感覚を抱えたまま、五つもの心臓を運んだのか。
首が落ちれば終わりだと思っていた。自分が百年後の草原で目を開けたあとも、あの男には抱えなければならないものが残っていたのだ。
「それを、五つの国に?」
「彼が最も信頼する五王国へ、一つずつ。当時の国王たちに、誰にも見つけられず、誰にも触れられないようにしてほしいと託したの。この国も、その一つよ」
呼び声や食器の音が、急にはっきり耳へ戻った。受付では冒険者が報酬を受け取り、扉の向こうでは荷車が石畳を軋ませている。
この国のどこかに、黒龍の心臓がある。
「場所は?」
「公にはされていないわ」
レティシアの答えに、マシュウは頷いた。あんなものを、誰かが気軽に持ち出せる場所へ置いていいはずがない。
「気になるの?」
「ああ。あの人が、倒したあとに何をしたのかもな」
マシュウは絵を見上げた。百年間、名前を語られ、今も同い年ほどの少年に憧れられている。自分は、その名前さえ知らなかった。
胸の内で、もう一度その名を呼んだ。アルドリック。あんたのおかげで、今ここで飯を食って、仕事を選べるんだな。
*
「東の果樹園。鎧猪の群れだ」
ボルグが机へ依頼書を置いた。選んだのはマシュウたちだった。収穫を前に果樹が倒され、働く者が畑へ入れなくなっている。討伐した獲物は、別に買い取ってもらえるらしい。
「果樹園の裏手が森になってる。追い込む方向を間違えると、被害を増やすぞ」
「森へ戻る道を空けて誘い出そう。畑の中で追い回すよりいい」
マシュウが地図の端を指すと、リュカが横から覗いた。
「ここの斜面なら、木が少ない。弓も通せる」
「下に水路があるわね。そちらへ逃げた分は、私が止めるわ」
レティシアの指が地図を辿った。ヴァレクは隣で依頼書を読み、マシュウへ笑いかける。
「僕は君についていくよ。猪が逃げられないようにすればいい?」
「止めたら、さっさと仕留めろよ」
「君も一緒に来てくれるなら、ね」
ボルグが四人を順に見た。
「現場を見て、変える必要があれば変えろ。ディーンも一緒だ。今日はこいつの腕も見てやってくれ」
「俺の紹介、ついでみたいにするなよ」
ディーンが剣帯を引き上げた。マシュウは笑いながら立ち上がる。
「よろしくな。先に倒しても、文句言うなよ」
「こっちの台詞だ」
差し出した拳に、硬い拳が当たった。
*
街を出てしばらく歩くと、甘い果実の匂いに、土を掘り返した臭いが混じり始めた。
柵が折れていた。その向こうで一本の木が揺れ、実が続けて落ちる。マシュウは手を上げ、仲間の足を止めた。
「いるぞ」
枝の下から、灰色の甲殻が覗いた。泥に汚れた鼻先が持ち上がり、二本の牙がこちらを向く。背後の茂みでも、葉が大きく揺れていた。
先頭の一頭が土を蹴った。
折れた柵を踏み潰し、巨体が斜面を駆け上がってくる。ディーンが風を足元へ集めた横で、マシュウは前へ出た。
「正面は――」
声を聞きながら、低く迫る鼻先へ踏み込む。振り上がる牙を身体の脇へ通し、顎の下に右拳を打ち上げた。
硬い手応えが肘まで返った。猪の前脚が浮き、巨体が横倒しに地面へ叩きつけられる。土と落ち葉が跳ね、足元まで転がってきた果実を、マシュウは靴先で止めた。
背後でディーンの足音が止まっていた。
「右にもいる。頼めるか?」
振り向くと、少年は倒れた猪からこちらへ目を移した。開いていた口を閉じ、剣の柄を握り直す。
「……当たり前だ!」
風が落ち葉を巻き上げた。飛び出すディーンの横を抜け、マシュウも次の牙へ向かって地面を蹴った。




