第5話 身分不問
説明会の部屋には、まだ空席があった。前の列には背もたれのある椅子が並び、後ろでは、若者たちが長椅子に詰めて座っている。マシュウが空いているほうへ進みかけると、入口に立つ制服姿の生徒が腕を出した。
「前方は貴族の方々のお席です。平民は後ろへ」
マシュウはその腕を見てから、生徒の顔へ視線を上げた。受付の案内には、そんな区別は一言も書かれていない。問い返しかけたところで、後ろから来た少年の胸の飾りを見た生徒が、さっと腕を引いて腰を折った。
「どうぞ。お待ちしておりました」
声の高さまで変わったのを聞き、マシュウは鼻で笑った。家紋をつけた服一枚で、今まで塞いでいた道を開ける。その光景には、嫌というほど覚えがあった。
「……くだらねえ」
隣のエリオが顔を向けたが、マシュウはそれ以上言わず、後ろの長椅子へ座った。いきなり席で揉めるつもりはなかったものの、膝に置いた案内を開く気にもなれなかった。
前方の扉から、制服姿の青年が入ってきた。入口にいた生徒は慌てて駆け寄り、半歩後ろへ従った。青年の袖には銀糸の家紋があり、その指先が、相手の腕章を軽く弾いた。
「ライネル。まだDクラスか。家の者に何と言っているんだ?」
「……次の試験では、必ず」
「その話は前にも聞いた。これを持っておけ。勝手に置いて埃をつけるなよ」
脱いだ外套を押しつけると、青年は返事も待たずに部屋を出た。ライネルは扉が閉じるまで頭を下げていたが、顔を上げた途端、すぐ脇で資料を配っていた生徒へ外套を投げた。
「持っていろ」
「これを配り終えてからでも――」
「今だ。エーベルト公爵家の品だぞ。落としたら、君の家で弁償できるのか?」
生徒は慌てて外套を受け止めた。その拍子に紙束が崩れ、何枚もの資料が通路へ散らばったが、ライネルは拾おうともせず、相手の足元を見下ろしていた。
「鈍いな。魔力がBでも、これくらいのことができないのか」
マシュウは立ち上がり、転がるように滑ってきた紙を拾った。屈んだ生徒の腕から落ちかけた外套も受け、机の上へ資料を戻してから、ライネルへ顔を向けた。
「自分で預かった物くらい、自分で持てよ」
ライネルが眉を動かした。マシュウの上着から靴まで見て、その口元に薄い笑いが浮かんだ。
「受験生か。誰に向かって口を利いているのかわかっているのか?」
「見てたぞ。さっきの奴には何も言えなかったくせに、こいつには威張るんだな」
「貴族に対して、その口の利き方は何だ」
低くなった声を聞いた瞬間、外套を掴む指に力がこもった。血の匂いまで蘇り、目の前の制服に、泥一つついていなかった軍服が重なった。
黒龍討伐より前の戦場で、指揮を執った貴族がいた。高台に敵が潜んでいると斥候が報告しても、進路を変えるべきだと古参の兵が訴えても、その男は退けた。判断の根拠を求められるたびに、誰が命令する立場なのかを怒鳴るばかりだった。
『進め。貴様らが私に指図するな』
命令に従って谷へ入った隊列へ、両側から矢と魔法が降った。前で倒れた者を避ける場所もなく、負傷者を抱えようと止まった者まで撃ち抜かれた。マシュウは仲間の腕を肩へ回して走ったが、背中へしがみついていた指は、途中から動かなくなった。
あの男が指揮を任されたのは、戦場を知っていたからではなかった。身分だけで上へ立ち、撤退さえ決められないまま、多くの同胞を死なせた。出発前に隣で飯を食っていた連中の顔も、背負った身体が重くなっていった感触も、今なお忘れられなかった。
「家の名前を言えば、てめえの無能まで帳消しになると思ってんのか」
思った以上に低い声が出た。ライネルが半歩下がり、資料を配っていた生徒が、慌ててマシュウの腕へ手をかけた。
「頼む。やめてくれ。実家が、この人の家から畑を借りてるんだ」
掴まれた腕へ目を落とすと、指が震えていた。マシュウは奥歯を噛みしめた。ここで殴るのは簡単だった。だが、この生徒は明日もここへ通い、その家族は畑で暮らしていかなければならない。
百年も経って、まだこれなのか。強い者の前では口を閉じ、その鬱憤を、逆らえない相手へぶつける。戦場であれほどの命を奪った仕組みが、子どもを教える場所にまで、当たり前の顔で居座っていた。
マシュウはライネルへ外套を差し出した。
「受け取れ。こいつには、まだ配る物がある」
ライネルは外套を引ったくるように掴んだ。そのとき近づいてきた教員が、二人の間に目を走らせた。
「受験生は着席しなさい。説明の妨げになります」
マシュウだけを見てそう告げると、教員は前方へ戻った。ライネルには何も言わない。その背中を睨みながら席へ戻ると、エリオが膝の上で両手を握っていた。
「公爵家って、すごく大きな家だよ。ここには王子殿下も、侯爵家の令嬢もいるし……気をつけたほうが」
「王子だろうが何だろうが、できもしないことで威張っていい理由にはならねえよ」
エリオにぶつける話ではなかった。マシュウは息を吐き、声を落として「悪い」と付け足したが、怒りは喉の奥に残ったままだった。
前方に立った教員が、集まった者たちへ学園の方針を語り始めた。
「本学園は、身分を問わず、学ぶ意志のある者へ門戸を開いています。生まれによって学びの機会を奪うことはありません」
さっきマシュウだけを咎めた口が、澄ました調子で平等を語っていた。前には貴族用の空席が残り、後ろでは、遅れて来た平民の少年が座れずに立っている。マシュウは少し脇へ寄って場所を空け、少年が腰を下ろすのを待った。
続いて、魔力測定、筆記、実技を経てクラスが決まると説明があった。Sクラスは全五学年を合わせて十人だけで、魔力のランクが、そのまま所属クラスになるわけではないという。
先ほどのBランクの生徒は、資料を配る仕事へ戻っていた。あれだけの魔力があっても、生まれた家のために頭を下げなければならない。マシュウはその姿を目で追い、案内の端を握り潰しかけた手を開いた。
*
願書と支援の申請を済ませ、魔力測定の列へ並んだあとにも、同じことが起きた。刺繍のある服を着た少女が付き添いと現れると、係の教員が列を離れて出迎え、そのまま室内へ案内した。
「列の最後は、あっちだぞ」
マシュウが言うと、教員の笑顔が消えた。
「侯爵家のご令嬢です。君はそのまま待っていなさい」
「さっきの身分不問って話は、もう終わったのか?」
廊下が静まった。教員は答えずに室内へ戻り、並んでいた者たちも目を逸らした。マシュウは扉を睨んだあと、腕を組んだ。誰の家だろうと、待っていた連中の時間まで奪っていいわけがなかった。
測定室からは、A、C、Bと結果を告げる声が聞こえてきた。貴族の受験生の多くはC以上で、能力を備えた者が多いことは確かなようだった。それならなおさら、その力で評価を受ければいい。家柄を盾に他人を押しのける姿を見るたび、胸の奥が煮えるようだった。
ようやく名前を呼ばれ、マシュウは水晶の置かれた机へ進んだ。指示に従って掌を載せ、魔力を流し込むと、内側へ赤い光が広がっていった。
「魔力Cランク。手を離してください」
返された紙を見たマシュウは、書かれた文字を指でなぞった。火が強くなったことはわかっていたが、こうして結果を示されると、怒りで固まっていた頬が少し緩んだ。
廊下へ出ると、エリオが顔を覗き込んできた。
「どうだった?」
「Cだ。前はEだったんだが、二つも上がってた」
「そっか。それなら、残りの試験も頑張ろう」
マシュウは頷き、用紙に記された日程を確かめた。学びたいと思ってここへ来た気持ちは変わらない。だが、家柄だけを理由に頭を下げるつもりもなかった。誰に物を教わるにせよ、自分の判断まで丸ごと預けてはいけない。その代償を、死んだ同胞たちの顔とともに覚えていた。




