第50話 花火の夜
「肉の焼ける匂いがするね」
腕の手当てを受け、衛兵に話を終えて詰所を出たところで、ヴァレクが足を止めた。通りの向こうで、串を並べた店から煙が上がっている。
マシュウが黙って見返すと、彼は杖をついたまま楽しそうに笑った。
「帰りに何か買ってくれる約束だったよね、マシュウくん」
「覚えてる。……一本ずつだぞ」
「僕が選んでいい?」
返事を待たずに歩き出した背中を、マシュウは追いかけた。店先へ着くと、ヴァレクは焼けた串を一本ずつ見比べ、いちばん肉の大きなものを指した。
包帯の下では傷が脈打っていた。財布も軽くなった。それでも、受け取った肉を噛むと、ようやく腹が減っていたことに気づいた。
「それで足りるの?」
「誰かが高いのを選んだからな」
「言ってくれれば、僕が買うのに」
「今日は俺が出すって言っただろ」
ヴァレクは串を口元で止めた。それから、焦げ目のついた肉をゆっくり齧った。噛むと頬の傷が引きつるらしく、一度だけ眉を寄せたが、口元には笑みが残っていた。
「じゃあ、今日はこれでいい」
傍らを、手をつないだ親子が通り過ぎた。祭りの飾りを指す子供の声を聞きながら、マシュウも残りの肉を食べた。もう、通りに悲鳴はなかった。
*
商人の背後にいた者の名を聞いたのは、三日後だった。
「オブスキュラ。金と護衛を出していた組織だと、商人が話した」
ダリウスが街の詰所から持ち帰った知らせに、マシュウは眉を寄せた。聞き覚えのない名だった。
「別の街でも、犯罪に関わってその名が出ている。だが、誰が束ねているのかも、全体がどれほどのものかも、つかめていない」
あの水鳥を見上げていた客の顔が浮かんだ。トマの握った金も、天幕の下から引きずり出した女の身体も、マシュウは覚えている。その向こうに、まだ顔も知らない誰かがいる。
「トマの金は、戻るのか?」
「帳面と照合の済んだ分から返している。あの少年にも、昨日返したそうだ」
胸につかえていたものが、少し下りた。ダリウスはそれを見届けると、書類を畳んだ。
「商人も護衛も拘束されている。後は街の捜査に任せろ。君たちの話は、必要なところへ伝えてある」
マシュウは頷いた。窓の向こうから、誰かが荷物を落とした音と、ネラの笑い声が聞こえてきた。
今日は、四人で出かける日だった。
*
「だから、膝の上へ全部載せるな!」
医務室を出たフェリクスが、椅子の上で声を張った。ネラが水筒と敷物を順に置き、その上へ鞄まで重ねようとしている。
「両手が空いたら、買い食いしやすいと思って」
「私がしにくくなるだろう!」
「お前もする気か」
マシュウが笑うと、フェリクスはこちらを睨んでから、水筒だけを残して荷物を押し返した。膝には薄い掛け布があり、右足はまだ楽な角度で伸ばしている。
許されたのは、花火を見て帰ってくるまでの外出だった。マシュウは椅子の後ろに回り、押し手へそっと指をかけた。
「途中で痛くなったら言えよ」
「わかっている。君こそ、急に走るな」
「走らねえって」
「この前、荷車に追いついた人だからね」
エリオが言うと、フェリクスは本気で押し手を振り返った。
学園の門を出たところで、フェリクスが大きく息を吸った。膝に置かれた右手が掛け布を握り、それからゆっくり開く。マシュウが足を緩めると、振り向かずに先を指した。
「何を止まっている。花火が始まってしまうぞ」
まだ空は明るかったが、マシュウも急ぎたい気持ちは同じだった。
街に入ると、夕方の通りに提灯が連なっていた。油の弾ける音、笛の節、焼き菓子を売る声が、次の角からも聞こえてくる。椅子を押すたび、フェリクスの顔が左右へ動いた。
「見たい店があるなら止まるぞ」
「……あの皿に載っているのは、何だ」
「甘い揚げ菓子だって」
先に覗いたネラが答えると、フェリクスは何でもないことのように財布を出した。
「人数分、買ってくれ」
熱い菓子を受け取ったマシュウが礼を言うより早く、ネラが頬張って悲鳴を上げた。フェリクスは呆れた顔で水筒を差し出したが、自分も一口食べた途端、口を閉じたまま動かなくなった。
笑ったマシュウまで、同じ目に遭った。
*
川へ出る前にパン屋へ寄ると、トマが空の籠を積み上げていた。四人に気づくと手を止め、椅子に座ったフェリクスへ目を向けた。
「あんたが、一緒に花火を見るって言ってた人?」
「フェリクスだ。川への道を教えてくれたそうだな」
「うん。店の裏、まだ空いてるよ」
トマは籠を脇へ寄せた。その手が途中で止まり、マシュウの腕の包帯へ視線が下がった。
「金、戻ってきた。全部」
「そっか」
「……あのとき、変なこと言って悪かった」
水鳥を信じた顔も、何も持っていないと訴えた声も思い出した。マシュウが何か言うより先に、トマは指についた粉を払った。
「精霊を呼べたら、すぐ護衛になれると思ってた。剣も、まともに振れないのにさ」
「近道は、お前が教えたろ」
トマが顔を上げた。
「あれがなかったら、橋に着く前に逃げられてたかもしれねえ。あの女の人を引っ張り出したのも、お前だ」
「でも、俺……あのとき、逃げたかったんだ。屋根が落ちてきて」
「私もだよ。マシュウ、早くどかしてって思ってた」
ネラが口を挟み、マシュウを見た。
「俺だって、いつまで支えりゃいいんだって思ったぞ」
トマは驚いた顔で三人を見た。それから、息を漏らすように笑った。強張っていた肩が下がり、もう一度籠を持ち直す。
「手を離せなかったんだよ。足が挟まってるの、見えちゃって」
「助かった人も、きっと覚えてるよ」
エリオが言うと、トマは返事に困ったように鼻の下を擦った。
店の奥から声がかかり、トマは慌てて振り向いた。まだ仕事が残っているらしい。マシュウたちが裏へ抜けようとすると、追いかけてきて、足元の板を指した。
「そこ、隙間がある。車輪が取られるから、端を通って」
フェリクスが礼を言った。マシュウは教えられた側へ椅子を寄せ、段差を越えてから振り返った。
「仕事が終わったら来いよ。川にいる」
トマは一瞬迷って、残った籠を見た。
「急いで片づける!」
*
川沿いの輪投げ屋で、マシュウは足を止めた。
「今度は取る」
「それ、この前も言ってた」
ネラの声を聞かなかったことにして、三つの輪を受け取った。狙うのは、奥に置かれた木彫りの鳥だった。首の周りへ輪を通せばもらえる。
前は飛ばしすぎた。今度は指を緩め、そっと放る。輪は台の手前へ落ち、店主の靴に当たった。
「……加減しすぎた」
「ずいぶん優しい火の使い手だなあ」
店主が輪を拾って笑った。ネラはとうとう堪えきれず、エリオの肩へ額を押しつけた。
二つ目は鳥の嘴に弾かれ、三つ目は首を掠めて後ろへ転がった。拳なら届きそうな距離なのに、木の輪一つが言うことを聞かない。
「貸してみろ」
フェリクスが自分の分の代金を出した。椅子を線の前へ寄せると、右手で輪を持ち、左手を膝に置いた。まだ痛む左腕を使わず、鳥の高さを確かめている。
「もうちょっと近くでもいいよ」
店主の申し出に、フェリクスは首を振った。
「ここからやります」
一投目は外れた。二投目は台の上で一度跳ね、鳥の首へ引っかかった。ゆらゆら揺れた輪が落ち着くまで、四人とも黙って見つめていた。
「入った!」
エリオの声で、ネラが手を叩いた。フェリクスは得意そうに顎を上げ、渡された木彫りをマシュウへ差し出した。
「ほら。欲しかったんだろう」
「……次は俺が取る」
「当分は、これで我慢しておけ」
残った一つを投げた途端、フェリクスも盛大に外した。輪が店主の足元まで転がり、今度はマシュウが声を上げて笑った。
*
花火の音がしたとき、フェリクスは椅子から川岸のベンチへ移ったところだった。マシュウの腕から手を離し、息を整えながら顔を上げる。
夜空に赤い火が開いた。川面まで明るくなり、少し遅れて、胸の底を叩くような音が届いた。
「間に合ったあ!」
振り向くと、トマが敷物を抱えて駆けてきた。エリオが手を振り、ネラが座る場所を空けた。トマは膝へ両手をついて喘ぎながら、それでも次の花火を見ようと首を反らした。
金色の光が枝を伸ばし、ゆっくり川へ降りてくる。
マシュウは空を見上げた。隣でネラが歓声を上げ、フェリクスも、口を少し開けたまま見入っている。赤い光が二人の頬を照らした。誰も逃げようとしない。
握っていた木彫りの鳥を、膝の上へ置いた。
「マシュウ、あっちも!」
エリオに袖を引かれた。川下に青い火が上がり、追いかけるように白い火が弾ける。よそ見をしたら一つ見逃すのが惜しくて、マシュウは身を乗り出した。
「危ない。落とすぞ」
膝から滑りかけた鳥を、フェリクスが右手で受け止めた。差し戻されたそれを受け取り、マシュウは笑って礼を言った。
もう一発、大きな火が開いた。
今度は鳥を上着へしまって、隣のネラたちと一緒に手を叩いた。




