第49話 そっちは頼む
「まだ下ろさないで! 足が抜けない!」
布の向こうからネラの声がした。マシュウは横木を肩へ載せ直し、空いた手を下へ伸ばした。倒れた長椅子が斜めに挟まり、その下に女の靴が見える。
くそ。これを抜けば、こっちの梁まで落ちるか。
背中を丸めて重さを引き受け、長椅子の端を引いた。木が擦れる音に女が悲鳴を上げる。マシュウは手を止め、その顔を覗き込んだ。
「もう少しだ。足、こっちへ曲げられるか」
頷く頭が見えた。ネラが膝をついて踵を支え、トマが女の両脇へ手を入れる。三人が動くのを待ってから、マシュウは長椅子を引き抜いた。
軽い。そう思う間もなく、肩へ重さが増した。踏ん張った足元で土が鳴り、横木のささくれが頬へ食い込む。女が這い出したのを確かめ、ようやく息を吐いた。
「こっちは空いた!」
エリオの声に、衛兵が折れた支柱を引きずってきた。横木の下へ斜めに差し込み、客たちへ手を貸せと呼びかける。
マシュウは最後の足が布の下から消えるまで待った。衛兵と目を合わせ、ゆっくり身体をずらす。横木が支柱へ載り、重さが腕から抜けた。
掌を開くと、木の欠片が落ちた。こんなものを、一人で支えていたのか。指の跡が深く残る横木を見て、遅れて胸が速く打ち始める。
「マシュウ、大丈夫?」
ネラが頬の傷へ手を伸ばした。痛みはある。けれど、脚は立っていた。拳を握っても、ほどいても、自分の思った通りに動く。
「ああ。あいつらは?」
布を押しのけて外へ出ると、ヴァレクが通路に立っていた。足元では、縄を斬った護衛が片膝をついている。剣を拾おうと伸ばした腕が、地面から上がらなかった。
若い実演役と杖の男は、入口で衛兵に縛られていた。逃げ遅れた客を数えるエリオの声が聞こえる。ネラもそちらへ走り、まだ中に残っていないか、一人ずつ顔を確かめ始めた。
「あと少しだよ。ほら、指は届きそうなのに」
ヴァレクが笑うと、男の肘が土へ沈んだ。歯の間から苦鳴が漏れる。その音に、フェリクスが倒れたときの姿が重なった。
「遊んでる場合か!」
「君に剣を向けそうだったから、止めたんだけど」
「動けなくしたなら十分だ。車はどっちへ行った!」
ヴァレクはマシュウの顔を見てから、通りの先を杖で示した。
「橋のほう。人が多くて、あまり進めてないみたいだね」
駆けつけた衛兵が護衛の剣を蹴り離した。ヴァレクの手が下がり、押さえられていた男が大きく息を吸う。その腕へ縄が回るのを見届け、マシュウは通りへ踏み出した。
「そっちより、店の裏が早い!」
トマが呼び止めた。女を支えていた手を離し、パン屋の屋根を指している。
「昨日の、花火が見える道。荷車は通れないけど、人なら橋の手前まで抜けられる!」
「わかった。お前はここにいろ」
トマは頷きかけ、口を開いた。
「俺の金も、載ってるのかな」
声は小さかった。マシュウは一度だけ足を止めた。
「捕まえて、確かめる」
それ以上は約束せずに走り出した。背後でヴァレクが、僕は通りから行くよ、と声をかけてきた。振り向く余裕はなかったが、杖を突く音が人混みへ向かうのは聞こえた。
*
石畳を蹴るたび、身体が思っていたより遠くへ進んだ。角で壁へ手をつくと、勢いを殺しきれずに肘が曲がる。マシュウは歯を食いしばって踏み直し、細い路地へ身体を滑り込ませた。
焼けたパンの匂いがした。昨日は三人で歩いた道を、今は一息で駆け抜けていく。川が見え、車輪の軋む音が近づいた。
橋の手前で荷車が止まっていた。前には祭りの荷を運ぶ人々が詰まり、商人が御者台から怒鳴っている。
「早く通せ! 急いでいるんだ!」
横から飛び出すと、御者の隣にいた男がこちらへ顔を向けた。太い腕で長柄の鉈を持ち上げ、そのまま地面へ飛び降りる。
「止まれ!」
マシュウの声に、前方の人々が振り向いた。商人は顔を引きつらせ、荷台へ下がった。
「そいつだ。足を止めろ!」
鉈の男は返事をせず、路地の出口へ刃を伸ばした。喉元に鉄が光り、マシュウは肩から横へ飛び込んだ。背後の壁が削られ、砕けた石が襟の中へ入る。
近づこうとしたところへ、柄が返ってきた。腕で受けると、骨の奥へ鈍い衝撃が走った。痛い。だが、弾き飛ばされるほどではない。
男の目が細くなった。すぐに柄を引き、刃を胸の高さへ戻す。こちらが一歩出すたび、鉈の先が先回りしてきた。
焦るな。荷車も、まだ動けていない。
マシュウは拳を頬の横へ戻し、相手の肩を見た。杖を持った生徒とは違う。男は自分の刃を見ず、こちらが進もうとする場所へ身体ごと割り込んでくる。
「剣も持たねえで、追ってきたのか」
「なくても、お前は止められる」
「そうかよ」
男が横へ動いた。マシュウも足を送ったが、その向こうに、籠を抱えた老人がいた。肩がぶつかりそうになり、とっさに手を引いて道を空ける。
そこへ鉈が来た。
マシュウは老人の背を押し、自分の身体を間へねじ込んだ。刃が袖を裂き、前腕に熱い線が走る。老人の籠が落ち、果実が石畳へ散った。
男はもう刃を引いていた。今度は逃げる人々を背にして、こちらを待っている。
火を広げれば、その後ろまで巻き込む。踏み込めば、また誰かの進路と重なる。
腹が立った。動けない人間を足場にするようなやり方に、歯が軋んだ。
「後ろへ下がってくれ!」
マシュウが呼びかけても、全員がすぐに動けるわけではなかった。老人が落とした杖へ手を伸ばす。男の刃が、またこちらの顔へ向いた。
その柄の先を見ながら、マシュウは左手を開いた。掌に生まれた小さな炎が、今にも飛び出しそうに膨らむ。
この大きさじゃ駄目だ。もっと小さく。
指を寄せ、熱を絞った。ダリウスの前で何度も消しては灯した、その感覚を探す。拳ほどの火が、細く尖って掌を離れた。
炎は男の手元を掠め、鉈を握る指へ届いた。男が顔を歪め、片手を離す。
そこへ踏み込んだ。
残った手で柄が振られたが、マシュウは左腕で押し上げた。懐に入った右拳が、革の胸当てへ沈む。硬い留め金が潰れる感触が、指の付け根へはっきり伝わった。
男の息が噴き出した。肩がこちらへ落ちてくる。追い打ちを出しかけた拳を止め、マシュウは襟を掴んで、逃げる人の足元へ倒れ込まないよう引き寄せた。
「……がっ」
男が膝をついた。手から落ちた鉈が石を打つ。その音で、ようやく周りの悲鳴が耳へ戻ってきた。
勝てた。自分の火と、自分の拳で。
マシュウは荒い息を吐き、男の胸が動いているのを確かめた。炎を消した掌には、汗と煤だけが残っていた。
そのとき、荷台で金具が鳴った。
商人が小さな弩を構えていた。狙いはこちらの胸へ向いている。身を避けようとして、背後を走る女の姿が目の端に入った。
逃げれば、後ろへ飛ぶ。
マシュウは男の襟から手を離した。間に合うか。荷台までは三歩。足へ力を込めかけたところで、車輪の向こうから聞き慣れた声がした。
「ずいぶん物騒な指導だね」
ヴァレクが荷車の脇に立っていた。額に汗を浮かべ、杖を握る手が白くなっている。笑ってはいたが、息はまだ整っていなかった。
商人が弩を振り向けた。足元の護衛も、転がる鉈へ手を伸ばす。
二人とも追えば、どちらかを逃がす。
「ヴァレク、そっちは頼む!」
声をかけた瞬間、ヴァレクの顔が変わった。笑みが大きくなり、こちらを見た目に、場違いなほど嬉しそうな色が浮かぶ。
「うん。任せて」
商人の腕が荷台へ叩きつけられた。弩が傾き、放たれた矢が荷台の板へ突き立つ。その下で、御者が頭を抱えて身を伏せた。
マシュウは目の前へ視線を戻した。鉈へ伸びた手首を押さえ、身体を横へ崩す。暴れようとする肩へ膝を置くと、男はようやく抵抗をやめた。
「まだ動くなら、今度は加減しない」
自分の声が低く響いた。男はマシュウの拳を見て、唇を噛んだ。
荷台では商人が片腕を板へ押しつけられ、身を捩っていた。ヴァレクが足を止めるたびに、杖の石突が乾いた音を立てる。
「こ、こんなことをして、ただで済むと――」
「それ、衛兵に話してね。僕はいま、君の話より聞きたいことがあるんだ」
通りの奥から警笛が近づいてきた。マシュウは護衛を押さえたまま、張り詰めていた息を吐いた。荷台の箱はまだ閉じている。商人も、御者も、逃げてはいなかった。
「助かった」
言うと、ヴァレクはマシュウのそばへ寄ってきた。
「もう一度」
「聞こえただろ」
「そっちじゃないよ。僕に任せたときの」
マシュウは顔を上げた。ヴァレクは悪びれず、焼けた頬を緩めている。
「……次も遊んでたら、頼まねえからな」
「じゃあ、君が呼んだら急がないとね」
やって来た衛兵へ護衛を引き渡し、マシュウは立ち上がった。前腕の傷が今になって痛み始める。血を袖で拭こうとすると、横から布を差し出された。
受け取るまで、ヴァレクは引っ込めなかった。




