第48話 偽りの翼
「君の分も払っておいたよ」
天幕の入口で、ヴァレクが二人分の入場札を振った。マシュウは差し出された一枚を受け取らず、その顔を見た。
「ついてこなくていいって言っただろ」
「僕は来たいって言ったよね。君の話で稼いでる人に、本人を会わせてあげるんだ。親切だと思わない?」
笑う頬に火傷の跡が引きつった。今も杖が要るくせに、こういうときだけは先を歩きたがる。マシュウが札を取ると、ヴァレクは満足そうに入口の布を上げた。
「金は返すからな」
「帰りに何か奢ってくれればいいよ」
「それで足りる額じゃないだろ」
「僕が隣の席を買ったと思えば、安いくらいだけどね」
返す言葉に詰まった。ヴァレクは楽しそうに笑い、マシュウが追いつくまで布を支えていた。
昨日もらった紙は、フェリクスとダリウスに見せてきた。説明料と契約指導料を混同するな、というフェリクスの言葉が頭に残っている。ダリウスからは街の詰所にも連絡が行っていた。
フェリクスは土産の栞を本に挟み、話を聞いたら教えてくれと言っていた。そのあと、祭りへ行く経路をエリオにもう一度尋ねた。マシュウも、次に見舞うときには楽しい話を持ち帰るつもりだった。
「私たちは、聞き終わった人に話を聞いてみる」
ネラがエリオと外に残り、マシュウは長椅子の並ぶ中へ入った。前の列で、パン屋の少年が手を上げる。
「間に合った。配達、走って終わらせたんだ」
額に汗が残っていた。隣へ座ると、少年は大きな水鉢の置かれた壇へ目を戻した。
「俺、トマ。昨日は名前も聞かなかったな」
答えかけたところで奥の布が開いた。商人が若い男を連れて現れ、客へ深く頭を下げる。
「まず、指導を受けた方の成果をご覧ください」
若い男が水鉢へ両手をかざすと、水面から細い首が伸びた。透明な嘴が開き、滴を散らして翼が広がる。鳥は鉢を離れ、天幕の梁の下へ舞い上がった。
隣のトマが息を呑んだ。前列の女は膝の袋を抱き締め、頭上を通り過ぎる翼を見つめている。
マシュウも目で追ったが、鳥が鉢へ戻ると、若い男の手へ視線を移した。翼が畳まれるのと同時に、指も下りていた。
ただ水を操っているだけではないのか。
隣を見ると、ヴァレクは奥の布を眺めていた。その裾から水が流れ、小さな染みを広げている。
「彼も初めは何も呼べませんでした。毎朝の呼びかけを続け、一月で応えてもらえたのです」
商人が男の肩へ手を置いた。
「あの学園の少年も、小さな精霊との触れ合いから始めたそうです。皆さんにも、その一歩を――」
「そんなことはしてねえよ」
声が出ていた。トマが振り向き、商人の口が止まる。マシュウは立ち上がり、相手を見据えた。
「マシュウ・ファルニール。あんたが話してるのは、俺だろ」
商人の目が大きく開いた。視線が顔と制服を行き来する。その横で、トマが半ば腰を浮かせた。
「昨日、店の板を……君が?」
「ああ。俺は精霊を呼ぶ練習なんかして、あの試合へ出たんじゃない」
ざわめきが広がった。商人は唇を湿らせ、それから困ったように笑った。
「それは失礼しました。伝わるうちに、話が変わってしまったようです。せっかくですから、皆さんに本当の姿を見せていただけませんか」
水鉢の前を空けるように、手が差し出された。
胸の奥が冷えた。トマまで椅子を引いて道を空けようとしている。その期待に、出かかった言葉が喉へ引っかかった。
「……できない」
「何か、ご都合が?」
「俺は精霊を呼び出せない」
声にすると、天幕がひどく静かになった。後ろで誰かが、本当に本人なのかと囁く。握った掌に汗が滲んだ。
呼べるなら、とっくに呼んでいる。そう怒鳴ったところで、目の前へ精霊が現れるわけではなかった。
傍らに、火傷の残る手があった。あれを負わせたのは自分の身体だ。目を逸らしたくなるほど覚えているのに、客が望むものは何一つ見せてやれない。視線に耐えかねて下がりかけた足を、マシュウは踏み止めた。
「でしたら、契約したあとにも学ぶことはあるのでしょう。私どもは、そうした方のためにも――」
「俺まで生徒にするな」
思わず声を強めると、トマの肩が跳ねた。マシュウは口を閉じたが、彼は俯かずにこちらを見ていた。
「でも、君はもう選ばれたんだろ」
膝の上の紙が、指の間で皺になった。
「俺は、何も持ってない。やってみれば変わるかもしれないって思うのも、駄目なのか」
「駄目じゃない。だから、金を払う前に――」
「ねえ。もう一度、飛ばしてくれる?」
ヴァレクが杖をついて通路へ出た。二人の脇を通り、壇の前で足を止める。
「僕の手に止まらせてみてよ。せっかく近くで見られるんだから」
差し出した手の上で、焼けた皮膚が突っ張った。若い男は商人を見たが、小さく頷かれると鉢へ向き直った。
水鳥が再び羽ばたいた。その翼に客が顔を上げたとき、奥から何かの倒れる音がした。
「マシュウ! そっちの布、開けて!」
ネラの声だった。
商人が振り返るより早く、マシュウは壇へ上がった。脇へ回って布を引くと、向こうから吹いた風が大きく膨らませる。隠れていた男が、眩しそうに顔を上げた。
手には杖があった。その先から細い水の筋が伸び、台の陰を通って水鉢へつながっている。
男が慌てて立とうとした。その足元で、床板が軋んだ。
「動かないで。今、いいところなんだから」
ヴァレクの開いた手が下がると、男は膝をついた。杖の先が床を叩き、水鳥の片翼が潰れる。そのまま形を失った水が、客席へ降り注いだ。
悲鳴と椅子の倒れる音が重なった。マシュウは布を握ったまま、杖の男と、壇の上の若い男を交互に見た。
「鳥を出してたのは、そっちか」
「魔力の補助ですよ。契約したばかりの者を支えるために――」
「なら、この人に休んでもらっても呼べるよね」
ヴァレクが若い男へ笑いかけた。返事はなかった。水の滴る鉢へ両手が上がりかけ、途中で止まる。
「見せてくれ」
マシュウが言うと、若い男は顔を伏せた。
客席から、金を返せという声が上がった。トマは立ったまま、濡れた紙を見下ろしていた。その足元へ転がった椅子を起こすことも忘れている。
「じゃあ、俺が払ったのは何だったんだよ」
トマの声は、ほかの客ほど大きくなかった。それでも商人の上着へ手を伸ばし、こちらを向かせようとした。
「落ち着いてください。後ほど、きちんとご説明しますから」
商人はその手を外した。謝る顔をしながら、足は奥へ向いている。トマがもう一度口を開いたときには、若い男を間へ押し出していた。
「表から出られるよ! 押さないで!」
布の向こうからネラが客へ呼びかけた。すぐ隣には腰に剣を下げた男がいて、彼女へ伸ばしかけた手を引いた。
その顔を見た瞬間、マシュウは壇から下りた。
「ネラ、こっちへ来い」
「裏で水を運んでたから、見に行ったの。あの人に見つかって……」
袖口が引き伸ばされていた。ネラの腕へ赤い指の跡が残っているのを見て、腹の底に熱いものが込み上げた。
剣の男が一歩退き、商人へ目を向けた。そのとき入口でエリオの声がした。
「ここです!」
衛兵が二人、入ってきた。一人は出口に立ち、もう一人が壇へ向かう。エリオは転んだ客の腕を取り、立ち上がるのを助けていた。
入口で様子を見ていた巡回の衛兵を、エリオが呼び入れたのだ。出口の一人が警笛を吹き、騒ぎを聞いて寄ってくる人々を外へ下がらせた。
「揉め事はよせ。何をしていたか、順に話してもらう」
商人は愛想よく口を開いたが、衛兵が鉢の裏の杖を拾い上げると、声が途切れた。
「金を受け取った帳面も見せろ」
その言葉で、商人の顔から笑みが消えた。
懐へ手が入り、鍵が出た。衛兵の後ろで剣の男が動く。マシュウはネラを自分の後ろへ押しやり、その手を見た。
剣が鞘を離れていた。
「伏せろ!」
刃は人へ向かわなかった。支柱を留めていた縄が斬れ、斜めに渡された木材が倒れ始めた。天幕の片側が沈み、客の頭上へ太い横木が落ちてくる。
マシュウは駆け出し、両腕で受け止めた。肩へ重さが食い込み、靴が土へ沈む。目の前でトマが尻餅をつき、遅れて落ちた布が二人の間を塞いだ。
「金を積め! こいつの相手はするな!」
商人の声が遠ざかった。奥で箱を引きずる音がし、馬が嘶く。追おうと足へ力を入れた途端、腕の横木がさらに下がった。
下には、まだ人がいる。
マシュウは歯を食いしばり、横木を押し戻した。木の表面へ指がめり込み、乾いた音を立てる。折るな。今、壊せば潰れる。
「トマ、起きろ! 隣の人も連れて、布の下をくぐれ!」
泥のついた顔が上がった。トマは震えながら立ち、倒れていた女へ手を伸ばす。ネラが横から布を持ち上げ、エリオの呼ぶ声へ客を通し始めた。
天幕の向こうで車輪が鳴った。
マシュウはその音を聞きながら、もう一度、肩で横木を押し上げた。




