第47話 街を歩く噂
「今のは、近すぎた」
地面へ落ちた輪を見ながら言うと、隣でネラが吹き出した。
「さっきは遠すぎたって言ってなかった?」
「だから、加減したんだよ」
台の向こうで、店主が笑いながら輪を拾った。残りは一つ。マシュウは指にかけた輪と、奥に立つ細い棒を見比べた。拳なら狙った場所へ届くのに、こんな軽いものを放すだけのことが、妙に難しい。
夏休みに入って十日が過ぎていた。治療と練習の合間に外出の許可が下り、今日はネラとエリオと三人で街へ来ている。通りには色布が渡され、祭りに向けて組み立てられた屋台が並んでいた。この輪投げ屋は、一足早く店を開けたらしい。
「それ、取れたらフェリクスに持っていこうよ」
エリオが指したのは、革紐のついた小さな栞だった。今朝も医務室で分厚い本を広げていた友人を思い浮かべ、マシュウは輪を持ち直した。
肩の力を抜いて放す。輪は棒の先を掠めたが、向こう側へ跳ねてしまった。
「……もう一回」
「昼ご飯なくなるよ」
ネラに革袋を押さえられ、手が止まる。その横からエリオが銅貨を出した。三つの輪を受け取ると、何気なく投げた最初の一つが、手前の棒へすとんと収まった。
「あ、入った」
「お前、やったことあるのか?」
「初めてだけど……」
ネラがとうとう声を上げて笑った。マシュウも言い返す気をなくし、台へ肘をついた。店主が差し出した栞を、エリオが嬉しそうに受け取る。残りの二つは外れたが、それでも三人で選んだ土産は手に入った。
「何だ、あんたにも苦手なものがあるんだな」
店主の言葉に顔を上げると、男はこちらの制服を見ていた。
「学園の試合で見たよ。拳で戦ってた子だろう。最後はえらいことになってたが、もう出歩けるのか」
「ああ。長居はできないけどな」
「そりゃよかった。あの日は、帰ってから女房に話すのが大変でね」
男は隣の店へ声をかけかけ、客が来たので口を閉じた。マシュウは礼を言って台から離れたが、背中へ「あの子だよ」という声が追ってきた。
通りの端で立ち話をしていた二人が、こちらを振り返った。一人が友人の袖を引き、手を広げて何かを語る。その大きな身振りが炎の龍を表しているのだと気づき、マシュウは視線を外した。
「先にパン屋、寄ろうか」
エリオが栞を袋へしまいながら言った。ネラも頷き、マシュウの隣へ並ぶ。二人とも、今の試合の話を聞き返さなかった。
*
焼きたての匂いを辿った先では、店先に立てかけた板を、粉のついた前掛けの少年が外していた。背丈はマシュウとそう変わらない。板の足が溝へ挟まり、引くたびに上側が揺れている。
「そっち、押さえようか」
「頼む。こいつ、昨日も抜けなくなったんだ」
マシュウが板を支えると、少年は屈んで足元の小石を掻き出した。無理に引けば折れそうだった。こちらも力を込めずに待ち、合図に合わせて少し持ち上げると、板は軽く外れた。
「助かった。中、入っていいよ。今、焼けたところ」
ネラが真っ先に暖簾をくぐった。あとに続こうとしたマシュウは、少年が自分の制服を見ていることに気づいた。
「あの学園の生徒?」
「そうだけど」
「へえ。本当に休みなんだな。さっきも何人か来たよ」
試合のことは聞かれなかった。少年は板を壁際へ寝かせると、前掛けで手を拭き、店の奥へ駆けていった。
並んでいるパンの中から、ネラは丸く膨らんだ一つを選んだ。割ると、中から煮た果物が覗く。熱いと言いながらも食べる手を止めないので、エリオまで同じものを頼んだ。
「フェリクスの分は、別のにしよう。あいつ、あんまり甘いのは嫌だって」
「昨日、私が持っていったのは全部食べたよ」
「腹が減ってたんじゃねえか?」
「食べ終わってから、どこの店か聞かれたけど」
マシュウは棚へ向けた指を下ろした。結局、二種類を一つずつ包んでもらう。食べ比べろと言えば、文句をつけながら両方食べるだろう。
壁際で食べていると、さっきの少年が空の籠を重ねて戻ってきた。店の女主人から小銭を受け取り、一枚ずつ数えてから懐へしまう。
「明日も朝から来られるかい。祭りの支度で人手が欲しいんだ」
「来る。配達も俺がやるよ」
即答だった。女主人は頷き、余った小さなパンを一つ渡した。少年はそれを齧りながら外へ出かけ、マシュウたちの脇で足を止めた。
「祭り、見に来たの?」
「今日は買い物だ。今度、もう一人連れてくるつもりなんだけど、夜は混むのか?」
「橋のほうは歩けなくなるよ。店の裏へ回れば、川沿いに出られる。花火なら、そっちからでも見えるし」
エリオが顔を上げた。フェリクスの椅子を押せる道か確かめると、少年は石段を避ける曲がり角まで教えてくれた。
「あの道、暗いとわかりにくいから。昼のうちに見とけば?」
「そうする。助かった」
少年は笑って手を上げ、人通りの中へ走っていった。その背を見送りながら、エリオが包みを持ち直した。
「花火、四人で見られるといいね」
「フェリクスが行けたらな」
ネラが頷いた。
「先生に聞いてみよう。あの人、無理でも行けるって言いそうだから」
マシュウも笑った。今朝は長椅子まで歩き切ったくせに、こちらが喜ぶと、昨日もできたとむきになっていた。祭りの話をしたら、まず経路と時間を尋ねてくるに違いない。
空へ大きな火が上がるところを、誰も怯えずに見上げる。そんな夜を思い浮かべながら、マシュウは最後の一口を飲み込んだ。
*
川沿いの道を確かめた帰り、広場のほうから拍手が聞こえた。
見世物かと思って覗くと、荷車の脇に人が集まっていた。上質な上着を着た男が、胸の前で両手を広げている。その背後には布張りの天幕があり、入口で別の男が紙を配っていた。
「皆さんも、お聞きになったでしょう。あの学園で、平民の少年が精霊と契約したという話を」
マシュウの歩みが緩んだ。隣のネラも顔を向ける。人垣の中で、籠を抱えた女が連れの男へ囁いた。
「昇星戦の子ね。マシュウって名前だったかしら」
「そうそう。貴族の子を倒したっていう」
男はその会話を聞き取り、にこやかに頷いた。
「家名だけで未来が決まるわけではない。彼の活躍は、その証拠です。皆さんの中にも、まだ知らない可能性を持つ方がいるかもしれません」
客の一人が、精霊なんて本当に会えるのかと尋ねた。男は急かす様子もなく、問いかけた老人の顔へ視線を合わせた。
「まずは知ることです。機会を逃してしまう方の多くは、何から始めればよいかをご存じない。私どもは、その最初の一歩をお手伝いしています」
マシュウは胸元へ触れかけた手を下ろした。
最初の一歩。そんなものが、自分にあっただろうか。砂の味と、動かなかった腕を思い出す。精霊に選ばれたのだと語られるたびに、あのとき身体を奪われた恐ろしさが、話の中から消えていく。
「申し込むの、明日でもいいですか」
若い声がした。人の肩越しに、粉のついた前掛けが見えた。パン屋にいた少年だった。
「明日の夕方にも、ご説明の席を設けていますよ」
「じゃあ、明日来ます。仕事が終わってからでも、大丈夫ですか」
「もちろん。お待ちしています」
少年は渡された紙を丁寧に畳んだ。店で受け取っていた銅貨を思い出し、マシュウは天幕の入口へ目をやった。小さな札に、説明を聞くための料金と、そのあとに続く契約指導の料金が書かれている。
持ってきた革袋の中身では、どちらにも足りなかった。
「精霊って、お金で呼べるの?」
エリオの問いに、すぐには答えられなかった。レティシアがネイレアへ声をかけたときの、親しげな顔が浮かぶ。あの二人の間にあったものを、目の前の値札と結びつけることができなかった。
人垣を抜けてきた少年が、マシュウに気づいて立ち止まった。
「さっきの。君たちも聞きに来たの?」
「通りかかったんだ。それ、申し込むのか」
「うん。ちょっと足りないけど、明日、配達までやれば」
少年は笑い、折った紙を上着の内側へしまった。その指先には、まだ白い粉が残っていた。
「俺にもできるかもしれないだろ。あのマシュウって人だって、貴族じゃないんだから」
「選ばれて、どうしたいんだ?」
「護衛の仕事をしてみたい。配達で行くのは隣町までだけど、そこから先にも道は続いてるだろ。帰るたびに、あっちはどんな所なんだろうって思うんだ」
話すうちに、少年の声が弾んだ。初めて見る街のことなら、マシュウにも聞きたいことが幾つもあった。
マシュウは返す言葉を失った。少年の目には、疑いも気負いもなかった。明日まで働けば、望んでいたものへ手が届く。そう信じている顔だった。
ネラの指が、そっと袖へ触れた。マシュウは小さく頷き、天幕へ視線を戻す。男は次の客へ紙を差し出していた。
「俺にも、一枚くれ」
差し出した手に、薄い紙が載せられた。男は愛想よく笑ったが、その顔に、目の前の相手を知っている様子はなかった。




