第46話 鐘の鳴らない朝
いつもの時刻に目が覚めたのに、授業を告げる鐘は鳴らなかった。マシュウは着替えながら机の上の時間割を見て、今日から夏休みなのだと思い出した。
窓の下では、帰省する生徒たちが鞄を抱えていた。迎えの馬車へ走る者もいれば、寮の入口で何度も手を振る者もいる。廊下へ出ると、向かいの部屋は既に空になっていた。
昨夜、ダリウスから渡された休暇中の予定表を鞄へしまった。治療の日と、実技場を使える時刻には印をつけてある。授業がなくても、朝からすることは決まっていた。
「遅い。待っていたぞ」
医務室の扉を開けるなり、フェリクスに叱られた。寝台ではなく、窓際の椅子に座っている。膝に畳まれた上着を載せ、靴も履いていた。
「まだ約束の時間じゃねえだろ」
「先に支度が済んだんだ」
そう答えながら、右の靴先が小さく動いた。固定具の残る脚を、床へ下ろす位置を確かめている。
ネラとエリオはもう来ていた。二人で移動用の椅子を扉の前へ寄せ、車輪に布が挟まっていないか見ている。フェリクスが廊下へ出ることは増えていたが、庭へ行くのは、今日が初めてだった。
「先生が、日陰にしてって。疲れたらすぐ戻ること」
ネラの言葉へ頷き、マシュウは椅子の背へ回った。フェリクスが座り直すのを待って押すと、車輪が敷居へ引っかかった。力を加えかけて手を止め、エリオに前を持ってもらう。
「ゆっくりな」
「僕はゆっくり持ってるよ」
「……俺に言ったんだ」
エリオが顔を上げ、それから小さく笑った。二人で椅子を持ち上げると、フェリクスが肘掛けを握る。揺らさず床へ戻せたところで、マシュウもようやく息を吐いた。
*
中庭の木陰には、長椅子を置いてもらっていた。ネラが座面へ布を敷き、エリオが水筒を脇へ置く。フェリクスはそこへ運んでくれとは言わず、手前で椅子を止めさせた。
「ここからなら、歩ける」
長椅子までは、五歩ほどだった。短い距離を支えつきで歩く許可が出たのは昨日で、医務室でも試したと聞いている。それでも、右脚へ目を落とした横顔は固かった。
「俺の腕、掴めるか」
左腕の添え木は外れていたが、まだ強く握ると痛むという。マシュウが身体を寄せると、フェリクスは動かしやすい右手でこちらの前腕を掴んだ。背へ添えた手に力を込めず、本人が立とうとするのを待つ。
腰が浮く途中で、フェリクスの指が食い込んだ。マシュウは支える位置を少し変えたが、抱え上げなかった。顔を見られたくないのか、彼はずっと自分の靴を見ている。
「……立てた」
小さな声と一緒に、肩へかかる重さが少し減った。左足を前へ出し、それから右を寄せる。靴底が石畳を擦るたびに息が止まり、三歩目で膝が震えた。
「椅子、寄せようか」
ネラが尋ねると、フェリクスは首を振った。もう一度足を動かそうとして、それが浮かないまま口を結ぶ。
マシュウは急かさずに待った。つい先日まで、廊下を歩くにも誰かの手を借りていた。動けると思っていた脚が、自分の言うことを聞かない。あの焦りは、まだ身体に残っていた。
「……寄せてくれ」
フェリクスが言った。ネラはすぐに長椅子を近づけ、エリオと二人で背を支えた。腰を下ろした途端、フェリクスの息が大きく漏れる。
「あと二歩だったのに」
「その二歩は、戻るときに残しとけ」
マシュウがしゃがむと、フェリクスは顔を背けた。額には汗が浮いている。水筒を受け取って一口飲み、喉を鳴らしてから、ようやくこちらを見た。
「覚えているか。歩けるようになったら、練習に付き合えと言ったのを」
「覚えてる」
「これも、そのうちに入るか」
「ああ。今日は足を揃えたって怒らねえよ」
フェリクスの口元がわずかに動いた。笑うほどではなかったが、さっきまで強張っていた指が、水筒を持ち直した。
*
ネラとエリオが医務室へ昼食のことを聞きに行くと、木陰が静かになった。離れた通路を、荷物を抱えた生徒が歩いていく。その姿が消えてから、フェリクスが口を開いた。
「あいつが、君のところへ来ていると聞いた」
誰のことか、聞き返す必要はなかった。マシュウは椅子の隣へ腰を下ろし、頷いた。
「勝手に来る。帰れって言ってもな」
「そうか」
フェリクスは水筒の蓋を合わせた。うまく閉まらず、外してからもう一度合わせる。マシュウが手を伸ばしかけると、今度はきちんと嵌まった。
「ここにも来るのか」
「来させない。お前に近づくなとは、何度も言ってある」
声を強くしすぎた気がして、マシュウは口を閉じた。フェリクスは怒った顔をせず、膝へ水筒を置いた。
「名前を聞いただけで、脚が固まることがある。治っていないせいだと思いたかったが……左足まで動かなくなるんだ」
左の靴が、石畳の上を擦った。その音を確かめるように、フェリクスはもう一度足を動かした。
「君に気を遣わせるのも腹が立つ。今日だって、普通に外へ出てきただけだろう。それなのに、さっきから通路ばかり見ている」
マシュウは通路へ目を向けた。ここへ来る足音がしたら、自分もきっと振り返る。ただ、振り返る理由が彼とは違う。そのことを、今まで十分に考えていなかった。
「会いたくなったら、お前から言ってくれ。それまでは会わせない」
「……そんな日が来るかは、わからないぞ」
「来なくてもいい」
フェリクスは返事をしなかった。木の葉が揺れ、頬へ落ちていた光が動いた。しばらくして、膝の上から右手が離れた。
「明日も、ここまで付き合え」
「明日は椅子、もうちょい近くに置くか」
「今日と同じでいい。先に近づけるな」
マシュウが頷くと、フェリクスは背もたれへ身体を預けた。今度は通路ではなく、枝の間から見える空を見ていた。
*
昼食のあと、フェリクスを医務室へ送り届けると、マシュウは実技場へ向かった。ネラとエリオには、教員の立ち会う時間だけ練習してくると伝えてある。午後は三人で、休暇の課題を進める約束だった。
入口で、杖をついたヴァレクが手を上げた。隣にはダリウスがおり、運搬台の上の大きな標的を調べている。
「やっと来た。これ、見てよ」
厚い革の向こうから、金属の縁が覗いていた。以前割った柱の倍ほど太く、台も広い。マシュウが顔を向けると、ダリウスは試すように側面を叩いた。
「上級生が使うものだ。これなら、今の力を調べられる」
「僕が借りてきたんだ。先生には、さっき見てもらった」
ヴァレクは自分の杖を揺らした。
「運ぶのは手伝ってもらったけどね。僕一人じゃ、途中で転がしちゃう」
「何で、わざわざ」
「壊さないようにばかりしてたら、君がどれだけ強くなったか見られないでしょ」
嬉しそうな顔だった。こちらのためだと取り繕う気もないらしい。マシュウは標的へ触れ、硬い芯と、拳を受ける厚い詰め物を確かめた。
「借りたものを壊したら、誰が怒られるんだ」
「僕。借用の名前は僕だから」
「それでいいのかよ」
「壊せるなら、見たいなあ」
ダリウスが咳払いした。ヴァレクは肩をすくめ、標的の横から離れたが、見物する位置だけはしっかり選んでいる。
マシュウは鞄を下ろした。断る言葉なら、いくらでも浮かぶ。けれど、試したい気持ちまで否定することはできなかった。
「今日は右だけだ。力を少しずつ上げろ」
ダリウスの指示へ頷き、標的の前に立った。ヴァレクを横目で見てから、拳を握る。
「黙って見てろよ」
「そこは約束できないな」
ため息が出た。マシュウは足元へ目を戻し、前の靴の位置を決めた。軽く打つと、厚い革が沈んで戻る。もう少し腰を入れても、標的は傾かなかった。
次の拳では、腕から肩へ確かな重さが返ってきた。自分の拳だけが先へ行く感じが薄れ、地面を踏んだ足から背中まで、動きが繋がった。
もう一度打ちたい。
そんなふうに思ったのは、いつ以来だろう。マシュウは息を吐き、拳を頬の横へ戻した。ダリウスが頷くのを待ってから、少しだけ踏み込みを深くする。
鈍い音が、壁へ響いた。
標的は倒れなかった。拳を引くと、革の窪みがゆっくり戻っていく。指を開いても痛まない。今の一発を、自分で打ち、自分で引き戻せたことが嬉しかった。
「今の、もう一回見たい」
ヴァレクが身を乗り出していた。
「黙ってろって言ったろ」
「無理だった」
悪びれずに笑う頬に、赤黒い傷が引きつれていた。マシュウはその顔から標的へ視線を戻した。こいつを許したわけではない。それでも、今日持ってきたものまで、役に立たないふりはできなかった。
「……これは、助かった」
ヴァレクが一度瞬き、それから笑みを深くした。
「じゃあ、明日も来ようかな」
「お前を呼んだんじゃねえ」
「知ってるよ。僕が来たいんだ」
マシュウは言い返すのをやめ、もう一度構えた。午前中、フェリクスの背へ添えていた右手が、今は拳になっている。そのどちらも、自分の加減で動かせるようになりたかった。
標的を見据えて地面を踏む。今度は、狙った位置に足が止まった。




