第45話 呼べない精霊
革の奥で、木が割れた。
マシュウは右拳を引き、傾いた標的を見つめた。革を巻いた柱の裏から、白い木片が落ちている。軽く打ったつもりだった。
「……もう一度、今と同じ力で」
ダリウスはそこまで言ってから、標的を支える台へ屈んだ。柱の根元まで入った亀裂を指で確かめ、顔を上げる。
「いや。先に手を見せろ」
差し出した拳には、擦り傷一つなかった。拳の山を親指で押しても痛まず、あれほどの衝撃を受けたのが不思議だった。
レティシアの挑戦戦から、二週間が過ぎていた。約束どおりに見舞いへ通い、彼女が授業へ戻ったあとも治療を続けていたマシュウは、三日前にようやく左腕を吊る布が外れた。
今日は身体を動かす許可が出ていた。誰かと打ち合うのはまだ先でも、構えて拳を出せるのが嬉しかった。
その最初の拳で、柱が折れかけている。
「本当に、力は入れてないんだよね?」
横から覗いたネラへ、マシュウは頷いた。
「前なら、これくらいで……」
言いながら、拳を腰へ引いた。その手を見たネラが身構えたので、慌てて指を開く。
「打たねえよ。見せただけだ」
「わかってる。でも、今の音、すごかったから」
ダリウスが地面へ二本の線を引いた。標的から離れて立つように言われ、マシュウは前の足を線へ沿わせた。
「いつもの踏み込みを。拳は出さなくていい」
後ろの足で地面を押すと、次の線が足元を通り過ぎた。慌てて止まり、前へ流れた身体を支える。これでは殴る前に相手へぶつかる。振り返って足跡を見た。おかしいのは標的だけではなかった。
半分ほどのつもりで、もう一度踏み込んだ。戻って繰り返すうち、姿勢を崩さず、思った位置へ靴が止まった。
「……速くなってる」
地面を蹴る足にも、上体を支える背中にも、余裕があった。もっと遠くへ跳べるし、強く打てる。胸が熱くなりかけたところで、割れた柱が目に入った。
あの炎の中でも、自分の拳は簡単に相手を壊していた。
「今、声は聞こえたか」
ダリウスに尋ねられ、マシュウは首を振った。目の前へ右手を上げ、握ってから開く。止めたいと思えば止まるし、指の一本ずつまで自分で動かせる。
「俺が動かしてる」
確かめるように答えると、ネラが小さく息を吐いた。
*
火炎矢は、石の標的へ深く突き刺さった。赤い光が弾け、黒く焼けた穴から細かな破片が落ちる。向こう側まで抜けた穴を見て、マシュウは腕を下ろした。
最初の一発で標的を厚いものへ替え、魔力も減らしていた。それでも、以前より深く抉れる。
「まだ余裕があるか」
「ああ。かなり」
何発も放ったのに、身体の奥には魔力が残っていた。以前なら次の攻撃を出し惜しみしている頃なのに、まだ底が遠い。
ダリウスは記録用紙を見比べ、筆を止めた。
「魔力の量も、威力も変わっているな。身体の動きも、拳の硬さもだ。以前の加減をそのまま使うのはやめておこう」
「強くなった、ってことか」
「それは間違いない。だが、今の君がどこまでできるのかは、君も私も知らない」
マシュウは石に開いた穴を見た。欲しかった力だった。あの試合の前にこれがあればと考えかけ、そこでやめた。掌には鱗も炎もない。それでも、身体には確かに何かが残っている。
「やっぱり。今日来てよかった」
背後の声に、ネラが振り向いた。
入口にヴァレクが立っていた。細い杖へ片手を預け、もう片方の手をひらひらと振っている。頬の包帯は小さくなっていたが、その下から首へ続く赤黒い跡は、遠目にも見えた。
「何で来た」
「歩けるようになったら行くって言ったでしょ。忘れちゃった?」
「来るなって言ったのも忘れたか」
「覚えてるよ。だから、君がいそうなところを僕が探したんだ」
悪びれずに笑い、ヴァレクは近くの長椅子へ腰を下ろした。動くたびに首の皮膚が引きつるらしく、襟へ指を入れて浮かせている。その指にも、焼けた跡が残っていた。
「ここでは見ているだけだ。勝手に入るな」
ダリウスに言われ、ヴァレクは杖を膝の横へ立てた。
「見に来たんだもの。ねえ、マシュウくん。もう一度、あの姿になる?」
「ならねえよ」
「そっか。残念」
ネラがマシュウの隣へ寄った。ヴァレクへ向けた目は、少しも緩まなかった。
*
「呼び方を教えてほしいって、精霊の?」
相談があると呼んでいたレティシアは、マシュウの言葉を聞き返した。ヴァレクを見て足を止めたが、勝手に来たのだと聞くと、眉を寄せながらこちらへ向き直った。
「一度も出てこないんだ。呼んでも、何も返ってこない」
レティシアはすぐには答えなかった。ヴァレクも笑うのをやめ、杖の握りへ両手を重ねた。
「姿を見ていないとは聞いたけど、呼べないの?」
「ああ」
「でも、あなたは霊融を……」
マシュウが頷くと、レティシアは少し考えてから右手を差し出した。
「ネイレア」
指の間を水が流れ、青い輪が足元へ広がった。髪をほどいたような水の流れの中から、精霊が顔を上げ、こちらを見た。
「呼ぶとき、どこへ向けて魔力を出すんだ?」
「まず、ネイレアがいるところを感じるの。そこへ声をかけるようにして……」
説明の途中で、レティシアは困った顔をした。自分の胸元へ触れ、それからネイレアを見る。精霊は彼女のすぐそばへ寄った。
「誰かがいる感じは、する?」
尋ねられ、マシュウは目を閉じた。胸の奥へ意識を向けても、わかるのは自分の息と鼓動だけだった。あの声が響いた場所を思い出そうとすると、砂に押しつけられた頬の痛みまで戻ってくる。
「……わからない」
「魔力を渡す相手がわからないのに、どうやって融合したの?」
ヴァレクの声だった。いつになく真剣な声に、マシュウは目を開いた。
「向こうから、話しかけてきた」
「何て?」
続きを待つ目に、マシュウは一度口を閉じた。
「身体を貸せって」
ヴァレクの指が杖から離れた。何か言いかけたが、ダリウスが間へ入った。
「今は呼ぶことだけにしよう。マシュウ、相手がいる場所を決めつけず、自分の魔力を少し外へ出してみろ」
言われた通り、火を作らずに魔力を指先へ集めた。いつもなら、ここへ熱を与える。それを堪えて掌を開き、今度は声に出して呼びかけた。
「聞こえてるなら、出てきてくれ」
誰も話さなかった。レティシアの隣で水が揺れ、ネラの靴が砂を踏んだ。マシュウはもう少し魔力を送ったが、何かの形になることも、声が返ることもなかった。
こんなに力だけ残しておいて、呼んでも出てこないのか。
腹が立って、さらに力を込めそうになった。掌に爪が食い込む前に指を伸ばし、ゆっくり腕を下ろした。
「……駄目だ」
レティシアがネイレアを見た。水の精霊は首を横に振った。
「私には、誰かはわからないわ」
「サラマンダーだと思ったんだけどなあ」
ヴァレクが自分の首の傷へ触れた。
「炎の髪も、あの目も。あんなものを見たら、そう考えるでしょ」
「私もそう思ったわ。でも、姿を見たわけじゃない」
レティシアの言葉に、ヴァレクはマシュウを見た。
「なら、会えたら最初に名前を聞いておいてよ。僕も知りたい」
「まず、出てこねえんだって」
「うん。だから困ってるんだよね」
いつもの笑みへ戻ったが、その視線はしばらく、何もないマシュウの掌に留まっていた。
*
実技場を出ると、廊下にいた生徒が二人、こちらを見て声を落とした。片方が右の拳へ目を向け、もう片方が扉の脇へ退く。
「サラマンダーの……」
途切れた言葉が耳に残った。まだ姿を見た者さえいないのに、自分が何と契約したのか、名前だけが先に歩いている。
マシュウは右手を握り、すぐに開いた。さっきまで試していた力も、ここで見せたいものではなかった。
「夏休みも、学園にいるの?」
ネラに聞かれ、顔を上げた。来週からは授業がなくなり、寮に残る届けも出していた。
「ああ。フェリクスもまだ治療があるしな」
「じゃあ、練習するなら呼んでよ。最初は、離れて見てるから」
少し迷ってから、マシュウは頷いた。前と同じ足運びを覚え直すのも、一人よりはいい気がした。
「僕も残るよ」
後ろから声がして、ネラの顔が曇った。ヴァレクが杖をつきながら追いついてくる。
「聞いてねえ」
「今、教えたんだ。待ってよ、まだそんなに速く歩けないから」
マシュウは足を止め、追いついたヴァレクを見た。
「フェリクスのところには来るなよ」
「行かない。君が帰ってくるのを待ってる」
あっさり答えると、ヴァレクは隣を歩き始めた。ネラが反対側からマシュウの袖を引き、その顔を睨む。
「私たちは、これからフェリクスにご飯を持っていくの」
「じゃあ、僕は食堂にいようかな。マシュウくん、帰りに寄ってね」
「勝手に約束するな」
ヴァレクは楽しそうに手を振り、食堂へ続く角を曲がった。マシュウは息を吐き、袖を引くネラへ顔を向けた。裂けた革と柱の割れ目を思い出し、隣の肩へぶつからないよう歩幅を合わせた。




