↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
46/75

第45話 呼べない精霊

 革の奥で、木が割れた。


 マシュウは右拳を引き、傾いた標的を見つめた。革を巻いた柱の裏から、白い木片が落ちている。軽く打ったつもりだった。


「……もう一度、今と同じ力で」


 ダリウスはそこまで言ってから、標的を支える台へ屈んだ。柱の根元まで入った亀裂を指で確かめ、顔を上げる。


「いや。先に手を見せろ」


 差し出した拳には、擦り傷一つなかった。拳の山を親指で押しても痛まず、あれほどの衝撃を受けたのが不思議だった。


 レティシアの挑戦戦から、二週間が過ぎていた。約束どおりに見舞いへ通い、彼女が授業へ戻ったあとも治療を続けていたマシュウは、三日前にようやく左腕を吊る布が外れた。


 今日は身体を動かす許可が出ていた。誰かと打ち合うのはまだ先でも、構えて拳を出せるのが嬉しかった。


 その最初の拳で、柱が折れかけている。


「本当に、力は入れてないんだよね?」


 横から覗いたネラへ、マシュウは頷いた。


「前なら、これくらいで……」


 言いながら、拳を腰へ引いた。その手を見たネラが身構えたので、慌てて指を開く。


「打たねえよ。見せただけだ」


「わかってる。でも、今の音、すごかったから」


 ダリウスが地面へ二本の線を引いた。標的から離れて立つように言われ、マシュウは前の足を線へ沿わせた。


「いつもの踏み込みを。拳は出さなくていい」


 後ろの足で地面を押すと、次の線が足元を通り過ぎた。慌てて止まり、前へ流れた身体を支える。これでは殴る前に相手へぶつかる。振り返って足跡を見た。おかしいのは標的だけではなかった。


 半分ほどのつもりで、もう一度踏み込んだ。戻って繰り返すうち、姿勢を崩さず、思った位置へ靴が止まった。


「……速くなってる」


 地面を蹴る足にも、上体を支える背中にも、余裕があった。もっと遠くへ跳べるし、強く打てる。胸が熱くなりかけたところで、割れた柱が目に入った。


 あの炎の中でも、自分の拳は簡単に相手を壊していた。


「今、声は聞こえたか」


 ダリウスに尋ねられ、マシュウは首を振った。目の前へ右手を上げ、握ってから開く。止めたいと思えば止まるし、指の一本ずつまで自分で動かせる。


「俺が動かしてる」


 確かめるように答えると、ネラが小さく息を吐いた。


     *


 火炎矢《ファイア・ボルト》は、石の標的へ深く突き刺さった。赤い光が弾け、黒く焼けた穴から細かな破片が落ちる。向こう側まで抜けた穴を見て、マシュウは腕を下ろした。


 最初の一発で標的を厚いものへ替え、魔力も減らしていた。それでも、以前より深く抉れる。


「まだ余裕があるか」


「ああ。かなり」


 何発も放ったのに、身体の奥には魔力が残っていた。以前なら次の攻撃を出し惜しみしている頃なのに、まだ底が遠い。


 ダリウスは記録用紙を見比べ、筆を止めた。


「魔力の量も、威力も変わっているな。身体の動きも、拳の硬さもだ。以前の加減をそのまま使うのはやめておこう」


「強くなった、ってことか」


「それは間違いない。だが、今の君がどこまでできるのかは、君も私も知らない」


 マシュウは石に開いた穴を見た。欲しかった力だった。あの試合の前にこれがあればと考えかけ、そこでやめた。掌には鱗も炎もない。それでも、身体には確かに何かが残っている。


「やっぱり。今日来てよかった」


 背後の声に、ネラが振り向いた。


 入口にヴァレクが立っていた。細い杖へ片手を預け、もう片方の手をひらひらと振っている。頬の包帯は小さくなっていたが、その下から首へ続く赤黒い跡は、遠目にも見えた。


「何で来た」


「歩けるようになったら行くって言ったでしょ。忘れちゃった?」


「来るなって言ったのも忘れたか」


「覚えてるよ。だから、君がいそうなところを僕が探したんだ」


 悪びれずに笑い、ヴァレクは近くの長椅子へ腰を下ろした。動くたびに首の皮膚が引きつるらしく、襟へ指を入れて浮かせている。その指にも、焼けた跡が残っていた。


「ここでは見ているだけだ。勝手に入るな」


 ダリウスに言われ、ヴァレクは杖を膝の横へ立てた。


「見に来たんだもの。ねえ、マシュウくん。もう一度、あの姿になる?」


「ならねえよ」


「そっか。残念」


 ネラがマシュウの隣へ寄った。ヴァレクへ向けた目は、少しも緩まなかった。


     *


「呼び方を教えてほしいって、精霊の?」


 相談があると呼んでいたレティシアは、マシュウの言葉を聞き返した。ヴァレクを見て足を止めたが、勝手に来たのだと聞くと、眉を寄せながらこちらへ向き直った。


「一度も出てこないんだ。呼んでも、何も返ってこない」


 レティシアはすぐには答えなかった。ヴァレクも笑うのをやめ、杖の握りへ両手を重ねた。


「姿を見ていないとは聞いたけど、呼べないの?」


「ああ」


「でも、あなたは霊融《アニマ》を……」


 マシュウが頷くと、レティシアは少し考えてから右手を差し出した。


「ネイレア」


 指の間を水が流れ、青い輪が足元へ広がった。髪をほどいたような水の流れの中から、精霊が顔を上げ、こちらを見た。


「呼ぶとき、どこへ向けて魔力を出すんだ?」


「まず、ネイレアがいるところを感じるの。そこへ声をかけるようにして……」


 説明の途中で、レティシアは困った顔をした。自分の胸元へ触れ、それからネイレアを見る。精霊は彼女のすぐそばへ寄った。


「誰かがいる感じは、する?」


 尋ねられ、マシュウは目を閉じた。胸の奥へ意識を向けても、わかるのは自分の息と鼓動だけだった。あの声が響いた場所を思い出そうとすると、砂に押しつけられた頬の痛みまで戻ってくる。


「……わからない」


「魔力を渡す相手がわからないのに、どうやって融合したの?」


 ヴァレクの声だった。いつになく真剣な声に、マシュウは目を開いた。


「向こうから、話しかけてきた」


「何て?」


 続きを待つ目に、マシュウは一度口を閉じた。


「身体を貸せって」


 ヴァレクの指が杖から離れた。何か言いかけたが、ダリウスが間へ入った。


「今は呼ぶことだけにしよう。マシュウ、相手がいる場所を決めつけず、自分の魔力を少し外へ出してみろ」


 言われた通り、火を作らずに魔力を指先へ集めた。いつもなら、ここへ熱を与える。それを堪えて掌を開き、今度は声に出して呼びかけた。


「聞こえてるなら、出てきてくれ」


 誰も話さなかった。レティシアの隣で水が揺れ、ネラの靴が砂を踏んだ。マシュウはもう少し魔力を送ったが、何かの形になることも、声が返ることもなかった。


 こんなに力だけ残しておいて、呼んでも出てこないのか。


 腹が立って、さらに力を込めそうになった。掌に爪が食い込む前に指を伸ばし、ゆっくり腕を下ろした。


「……駄目だ」


 レティシアがネイレアを見た。水の精霊は首を横に振った。


「私には、誰かはわからないわ」


「サラマンダーだと思ったんだけどなあ」


 ヴァレクが自分の首の傷へ触れた。


「炎の髪も、あの目も。あんなものを見たら、そう考えるでしょ」


「私もそう思ったわ。でも、姿を見たわけじゃない」


 レティシアの言葉に、ヴァレクはマシュウを見た。


「なら、会えたら最初に名前を聞いておいてよ。僕も知りたい」


「まず、出てこねえんだって」


「うん。だから困ってるんだよね」


 いつもの笑みへ戻ったが、その視線はしばらく、何もないマシュウの掌に留まっていた。


     *


 実技場を出ると、廊下にいた生徒が二人、こちらを見て声を落とした。片方が右の拳へ目を向け、もう片方が扉の脇へ退く。


「サラマンダーの……」


 途切れた言葉が耳に残った。まだ姿を見た者さえいないのに、自分が何と契約したのか、名前だけが先に歩いている。


 マシュウは右手を握り、すぐに開いた。さっきまで試していた力も、ここで見せたいものではなかった。


「夏休みも、学園にいるの?」


 ネラに聞かれ、顔を上げた。来週からは授業がなくなり、寮に残る届けも出していた。


「ああ。フェリクスもまだ治療があるしな」


「じゃあ、練習するなら呼んでよ。最初は、離れて見てるから」


 少し迷ってから、マシュウは頷いた。前と同じ足運びを覚え直すのも、一人よりはいい気がした。


「僕も残るよ」


 後ろから声がして、ネラの顔が曇った。ヴァレクが杖をつきながら追いついてくる。


「聞いてねえ」


「今、教えたんだ。待ってよ、まだそんなに速く歩けないから」


 マシュウは足を止め、追いついたヴァレクを見た。


「フェリクスのところには来るなよ」


「行かない。君が帰ってくるのを待ってる」


 あっさり答えると、ヴァレクは隣を歩き始めた。ネラが反対側からマシュウの袖を引き、その顔を睨む。


「私たちは、これからフェリクスにご飯を持っていくの」


「じゃあ、僕は食堂にいようかな。マシュウくん、帰りに寄ってね」


「勝手に約束するな」


 ヴァレクは楽しそうに手を振り、食堂へ続く角を曲がった。マシュウは息を吐き、袖を引くネラへ顔を向けた。裂けた革と柱の割れ目を思い出し、隣の肩へぶつからないよう歩幅を合わせた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。