第44話 勝ったあとで
指を握ると、そこに杖がなかった。レティシアはもう一度手を動かし、掌へ触れる柔らかな布を掴んだ。白い天井の端で、薄い幕が揺れている。
身を起こそうとした途端、腹に痛みが走った。息が詰まり、肘が寝台へ沈む。横から伸びた手が肩を支え、浮いた背中をゆっくり戻した。
「まだ起きちゃ駄目だって。先生、呼んでくる」
ネラが幕の向こうへ出ていった。残された椅子のそばにマシュウが立ち、こちらを覗き込んでいる。口を開きかけてから閉じる、その顔を見たくなくて、レティシアは目を伏せた。
「……負けたのね」
自分で口にすると、腹の痛みよりも先に喉が詰まった。マシュウが頷くまで、ほんの少し間があった。その間を待つのが、ひどく長く感じられた。
「杖は?」
「ここにある」
窓際にいたロルフが近づき、寝台の脇へ杖を立てかけた。柄は拭かれていたが、飾りの溝には砂が残っている。いつも握る場所へ指を伸ばすと、付け根が痛んだ。
あの手も、こんなふうに柄を掴んでいた。自分が両手で引いても、押しても、少しも動かなかった。
レティシアは手を掛布の中へ戻した。杖を落としたところを覚えていない。最後に見たのは銀の瞳だったのか、それとも空だったのか、思い出そうとするほど曖昧になった。
「私、何か言った?」
マシュウが首を横に振った。レティシアはそう、と答えたが、それ以上の声が続かなかった。降参を告げる暇さえなかったのだと、二人の顔からわかってしまった。
戻ってきた救護の教員が、痛む場所と息苦しさを確かめた。腹へ手を当てられると、思わず肩に力が入る。今夜はここで休むように言われ、レティシアは天井を見たまま頷いた。
「面会も長くならないように。水は少しずつ飲ませてあげて」
教員が去ると、ネラが杯を差し出した。自分で持とうとしたが、縁が小さく鳴った。水面の揺れを見られたくなくて強く握ると、かえって指が痛くなる。
「底、支えてるから」
ネラは杯を取り上げず、下から手を添えた。レティシアはその手ごと杯を傾け、ほんの一口だけ飲んだ。唇が濡れても、喉の奥の固さは消えなかった。
「……ありがとう」
ネラが杯を置いたあとも、レティシアは手を掛布の上に出せなかった。
*
窓の外から、生徒たちの話し声が流れてきた。もう夕食の時間らしい。誰かが笑い、それを追う足音が遠ざかっていく。
試合場では、あんなに人が見ていた。自分が担架で運ばれたあと、みんなは席を立ち、それぞれの場所へ帰ったのだろう。明日の授業で隣に座ったときも、同じ顔をしていられるだろうか。
「練習では、できたのに」
言うつもりのなかった言葉が漏れた。ロルフが顔を上げたので、レティシアは杖の先へ目を向けた。
「水が曲げられても、足は動かせた。次も出せたわ。あなたと何度もやったもの」
「ああ」
「でも、褒められたの」
口元に力を入れたが、笑う形にはならなかった。あの穏やかな声が、まだ耳に残っている。足は残せたね、と。次はもっと上手にできるだろうと、生徒へ言うように。
「私、勝ちに行ったのよ」
ロルフの指が椅子の背を掴んだ。言葉を探すように唇が動いたが、すぐには何も出てこなかった。
「……知っている。練習に付き合ったんだ」
その声を聞くと、堪えていたものが目の奥へ集まった。目を閉じれば流れてしまう気がして、レティシアは窓枠を見つめた。
「自分で選んだ相手なのに、最後は白線ばかり気にしていたわ。そこまで下がれば終われるって。ネイレアがまだそばにいてくれるのに、私だけ逃げたくなった」
言い終えると、誰の顔も見られなくなった。マシュウが何か言おうとして、やめる気配がした。今、気にするなと言われたら、きっと怒ってしまう。
「明日、練習場は取らないでおく」
ロルフの言葉に、レティシアは顔を向けた。
「君は休め。僕も、今日見たものを整理したい」
「……ロルフ」
「杖も、邪魔なら持って帰る。ここに置いておくか?」
彼は寝台の脇を見た。手を伸ばせば届く場所にある杖を、レティシアも見つめた。
今は、握るのさえ怖い。けれど、遠くへ持っていかれることを考えると、掛布の中で指が動いた。
「そこに置いておいて」
「わかった」
ロルフは椅子から手を離した。持っていた布を畳み直し、拭き残した柄の溝へ一度だけ当ててから、自分の上着へしまった。爪の間にも白い砂が残っていたが、そちらは気にしていないようだった。
ネラが卓に小さな布を置いた。レティシアの顔へ手を伸ばすことも、泣いていると口にすることもしなかった。その気遣いがありがたくて、同時に、気遣われている自分が悔しかった。
布を取ると、初めて涙が落ちた。
*
マシュウが杯の水を替えて戻ると、レティシアは目元を押さえていた。ネラとロルフは、救護の教員へ食事のことを聞きに行っている。二人分の空いた椅子を見てから、自分も出ていこうとすると、名前を呼ばれた。
「朝、言ったでしょう。勝ったあとで話すって」
マシュウは椅子へ戻った。レティシアは布を膝へ下ろし、赤くなった目でこちらを見た。
「Sクラスへ入れたら、あなたに試合を申し込むつもりだったの。私たちの決勝、できなかったから」
「ああ」
「勝ってからなら、格好もつくと思ったのよ。優勝したから相手をして、なんて言っても、あなたと戦って手に入れた優勝じゃないもの」
笑おうとした顔が、途中で崩れた。マシュウは何も言わずに待った。レティシアは布の端を指で折り、何度か折り直してから続けた。
「今なら、何を言っても負け惜しみに聞こえるわね」
「お前は俺に勝ちたかったんだろ」
「……ええ」
「なら、治ってから言ってくれ。俺も、まだこれだしな」
吊られた左腕を見せようとして、少し動かしただけで肩が痛んだ。顔をしかめると、レティシアの眉が寄った。
「動かさなくても見えてるわよ」
「そうだな」
マシュウは腕を戻した。怒られた声が少しだけ普段に近く、それが嬉しかったが、笑っていいかはわからなかった。
レティシアはまた杖を見た。瞼を閉じる前に、視線が柄の握りへ留まった。
「一度くらい、あの人に必死になってほしかった」
マシュウは、次があると言いかけてやめた。レティシアは膝の上で、布が捻れるほど指を握り込んでいた。まだあそこに立って、どうにか一発届かせようとしているように見えた。その隣で、次の話を急ぐ気にはなれなかった。
「うん」
それだけ答えると、彼女は布で目を覆った。肩が小さく揺れるたび、痛むのか、息が途中で止まった。マシュウは杯を近くへ置き、顔を上げられるまで待った。
やがてネラが、湯気の上がる器を盆に載せて戻ってきた。ロルフはもう一つの椅子を引き、寝台の横へ寄せた。
「食べられそう? 無理なら、先生にそう言ってくるけど」
「……少しなら」
レティシアは布を畳み、卓の端へ置いた。匙を取る手はまだ震えていたが、今度は掛布の中へ隠さなかった。
*
廊下へ出たところで、マシュウは窓際に立ち止まった。手の中には、レティシアに頼まれた鞄がある。明日の授業を休む連絡をするため、ネラが中から時間割を探していた。
「これかな」
開いた鞄から、折り畳まれた紙が覗いた。セヴランの名と、いくつもの矢印が見えた。マシュウは紙を押し戻し、時間割だけを渡した。
「担任の先生、まだ職員室にいると思う。渡してくるね」
ネラの足音が遠ざかると、幕の向こうで小さな水音がした。戻ろうとしていたマシュウは足を止めた。レティシアが誰かへ話しかけている。
「ネイレア。手を貸して」
聞こえた声は、試合場で精霊を呼んだときより、ずっと小さかった。それでも、すぐに返事があった。
「ええ。ここよ」
続く言葉は聞き取れなかった。マシュウは鞄を抱え直し、窓の外へ目を向けた。夕暮れの中庭では、生徒たちが荷物を抱えて食堂へ歩いていた。
自分にも、あんなふうに呼べるのだろうか。
右手を少し開き、あの炎の中にいた相手へ呼びかけた。姿を見せろとも、力を貸せとも言わなかった。ただ、聞こえているかと心の中で尋ね、返事を待った。
掌には何も現れなかった。声も、熱もない。
セヴランの指へ頭を寄せた梟を思い出した。あの二人には、言葉にする必要さえないことがあるらしかった。自分は、返事を求める相手の名も知らない。
明かりの灯った窓に、左腕を吊った自分の姿が映った。レティシアと試合をする日までに、確かめなければならないことがある。握った手をもう一度開いてから、マシュウは鞄を届けに戻った。
「ここに置くぞ」
ネイレアに手を握られたレティシアが、枕の上で頷いた。帰ろうとすると、その視線が少しだけ扉を追った。
「明日……来られる?」
「ああ。みんなの授業が終わったらな」
レティシアは頷き、今度は自分から目を閉じた。マシュウは、杖を倒さないよう椅子を戻して部屋を出た。




