第43話 遠すぎる一歩
レティシアは、震える杖を握り直した。止まるのを待っていたら、いつまでたっても動けない。濡れた柄が滑らないよう指の位置を変え、胸の前へ右手を構えるセヴランを見据えた。
あの手が動くたび、水を曲げられている。なら、先に捕まえてしまえばいい。杖へ力を込めると腹の奥が痛んだが、息と一緒に押し殺し、足元へ細い水を伸ばした。
地面を叩いた一本の水の帯が、砂を跳ね上げながらセヴランへ走った。透明な面が光り、先端が浮かされたところで、レティシアは水の張りを緩めた。
垂れた先が、面の向こうへ回る。すかさず杖を引くと、水の輪がセヴランの手首を囲んだ。思わず胸が熱くなった。あと少し締めれば、あの指を止められる。
逃がさない。輪を絞りながら、空いた左手にも水を集めた。そのとき、セヴランの指が畳まれた。
輪の内側に、小さな光が広がった。締まるはずの水が外へ押し開かれ、指一本ぶんの隙間が、拳ほどになる。彼はその中から、何事もなかったように手を抜いた。
「……っ!」
レティシアは左手の水を叩きつけ、散った飛沫へ走り込んだ。白く煙る向こうに、セヴランの肩が見える。これをかわされても止まるなと、自分へ言い聞かせながら杖を振った。
先端が逸らされたが、今度は腕を持っていかれなかった。足を残し、握りを滑らせて反対の端を突き上げる。顎へ届くと思った瞬間、杖がぴたりと止まった。
セヴランが柄を掴んでいた。慌てて引き戻そうとしても動かず、両手で押し込むと、自分の靴だけが砂へ沈んだ。目の前の肘は軽く曲がったまま、伸びもしない。
片手で、止められている。
レティシアは歯を食いしばり、足元の水を跳ね上げた。セヴランの空いた手が下を向き、流れが横へ滑る。それを追う間もなく杖を捻られ、指の付け根に鋭い痛みが走った。
反射的に手が開いた。しまったと思ったときには、杖は彼の手に収まっていた。取り返そうと左手を伸ばしたが、軽く引かれた柄にさえ届かない。
「足は残せたね」
褒められたのだとわかって、顔が熱くなった。今、勝とうとしていた。練習してきた足運びで攻めたのに、稽古を見るような声をかけてくる。
言い返す言葉が出なかった。セヴランは杖を持ち替え、こちらへ柄を差し出した。
「君のものだよ」
すぐに受け取れなかったのは、震える指を見られたくなかったからだ。レティシアは柄を掴み、差し出された手から逃れるように後ろへ下がった。
一歩、もう一歩と離れるうちに、膝が折れそうになった。そばへ来たネイレアの手を握ると、喉に詰まっていた息が漏れる。精霊はまだ力を渡してくれるのに、それを使う自分が、何もできていない。
「ネイレア……」
「ここにいるわ」
冷たい指が、少し強く握り返してきた。その顔を見たら泣いてしまいそうで、レティシアは正面を向いたまま手を離した。
杖を奪われ、それを返してもらう自分など思い描いていなかった。レティシアは柄に残った自分の汗を、親指で擦った。
「僕の席を選んだんだろう。なら、これも見ていくといい」
セヴランは二人のやり取りを待ってから、右手を上げた。レティシアは身構えたが、彼の視線が向かったのは、その指先だった。
「オルディス」
*
白い羽が浮かび、丸い頭と細い爪が続いた。セヴランの指へ止まったのは、人の顔ほどの大きさをした梟だった。
翼が開くと、向こうにある柵がずれて見えた。透明な羽の一本一本に、客席の景色が細く分かれて映っている。レティシアはその姿を見つめながら、杖を胸へ引き寄せた。
やっと精霊を呼ばせたのだと、思いたかった。けれど、セヴランは息一つ切らしていない。杖を取り上げた手も、今は梟を乗せているだけで、自分がどれほど攻めても崩せなかった姿勢のままだった。
ロルフと戦ったとき、ネイレアを呼んだ途端に、あれほど厄介だった風を押し切れた。その力が今、この人へ加わる。レティシアは唾を飲もうとしたが、乾いた喉が痛むだけだった。
「長くは要らないな」
「うん」
梟の声にセヴランが頷くと、白い頭が彼の指へ一度触れた。その小さな仕草が、二人の間で何度も交わされてきたものに見えた。
「霊融」
客席で何かが倒れ、硬い音がした。梟の輪郭がほどけてセヴランを包み、灰銀の髪が先から透けていく。こちらへ向き直った瞳には、銀の輪が浮かんでいた。
背後へ、薄い面を幾重にも重ねた翼が広がった。羽ばたきはしなかった。それでもレティシアは頬へ風を受けた気がして、顎を引いた。
「そこまで、使うのかよ……」
客席の声に、続く言葉はなかった。誰かが息を呑む音まで聞こえ、自分の呼吸だけがひどくうるさい。深く吸おうとするほど、胸へ入る空気が足りなくなった。
肩へネイレアの指が触れた。その指にも力がこもっているのがわかり、レティシアは振り向きかけた。
「レティシア。前を」
セヴランは、まだ同じ場所にいた。水を返されるなら、今度はすぐに流れを解く。何か考え続けていなければ、杖を下ろしてしまいそうだった。
「次は、僕から行くよ」
声はさっきと同じだった。客席から自分の名を呼ばれても、探す余裕はなかった。ネイレアの手が肩から離れ、その冷たさが消えたところへ汗が伝った。
逃げたい。
足が後ろへずれ、白線が目の端に入った。ここを越えれば終わる。それを見てしまった自分が嫌で、爪先を前へ向け直した。杖を握り込むと指の間に砂が擦れ、その痛みで少しだけ顔を上げられた。
杖を突き出し、散らばっていた水を集めた。腕が重くなるほど厚い壁を作っても、まだ足りない気がした。その後ろへもう一枚、さらに一枚と重ね、ネイレアから流れ込む力を注ぎ込む。
三枚の水面が震え、その向こうでセヴランの姿がぼやけた。防げれば、次を考えられる。レティシアは両足を踏ん張り、彼の肩と手を見続けた。
セヴランが右手を開き、前の靴が動いた。まだ五歩はある。踏み込みに合わせて水を厚くしようとした、そのときには、掌が胸の前にあった。
水の砕ける音が、一つに重なった。
腹の奥を、硬い塊で押し潰された。息も声も出せず、杖が手から離れるのを見ていた。指を伸ばそうとしても、自分の腕がどこにあるのかわからない。銀の瞳が遠ざかり、空の色が視界いっぱいに広がった。
目を閉じたつもりは、なかった。
*
砂へ落ちたレティシアが、一度転がった。手も脚も身体を支えようとせず、そのまま動かなくなった。
「そこまで!」
ダリウスの声を聞いたとき、マシュウはもう立っていた。吊られた左腕が揺れ、肩へ痛みが走る。ネラに右肘を掴まれ、柵へ乗り出している自分に気づいた。
「マシュウ、階段から!」
返事ができなかった。踏み出した足も、差し出された掌も見えたのに、その間にあったはずの距離が、どうしてなくなったのかわからない。水壁は、一枚も残っていなかった。
一発だった。
まだ次があるような気がして、レティシアの手元を見つめた。杖を拾おうとする指の動きを待ったが、そばへ下りたネイレアが頬に触れても、彼女は目を開かなかった。
精霊の足元で青い輪が薄れ、水へほどけた髪が地面に届く前に消えていく。ダリウスはレティシアの呼吸を確かめ、救護の教員へ手を振った。
「レティシア・ヴェルナー、戦闘不能。勝者、セヴラン・ヴァイス!」
拍手はまばらだった。少し離れた生徒は、膝に落とした筆記具を拾わずにいる。その隣の少女も口元を押さえたまま、倒れたレティシアから目を離せずにいた。
「……あんなに、水があったのに」
ネラの手が肘を強く握った。マシュウは頷けず、右手を下ろすセヴランを見ていた。透明な翼が白い羽へ変わり、瞳の銀の輪が薄れる。肩へ戻った梟の頭に指を触れ、彼は短く何かを言った。
自分で呼び、自分で動き、自分で終えた。あの炎の中で、指一本を動かそうとしていた自分とは違う。やめろと叫び続けても身体は他人を殴り、止められたのは力が消えたあとだった。
柵から右手を離そうとすると、指が強張っていた。一つずつ開きながら、もう普段の姿へ戻ったセヴランを見た。あの力を自分の意思で扱う姿が、ひどく遠く感じられた。
「行こう」
ネラに促されて通路へ出ると、ロルフは既に階段を下り、落ちていた杖を拾っていた。担架へ移されたレティシアの横で、救護の教員が「呼吸は落ち着いている」と告げる。その声で、マシュウはようやく息を吐けた。
ロルフの手の中で、杖から水が滴っていた。朝、ここへ入ってきたレティシアは、勝ったあとで話そうと言っていた。何を話すのか尋ねずに頷いたが、今は閉じられた目を見ることしかできなかった。
上段へ戻る足音がした。セヴランが自分の椅子へ腰を下ろし、リゼットの問いかけに短く答えていた。腰の細剣は、鞘に収まったままだった。
レティシアが望んだ席に、彼はまた座っていた。マシュウは見上げるのをやめ、担架のあとを追った。




