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第42話 鞘のままの剣

 握り直した杖が、掌にぴたりと収まった。


 肩は軽い。深く息を吸っても、腹は痛まなかった。


 レティシアは白線を越えた。


 指名から三日。削れていた地面は均されていたが、競技場の端には、まだ黒い焼け跡が残っている。


 客席の低いところに、マシュウを見つけた。左腕は吊られたままだった。隣にいるネラが何か言い、彼は立ちかけた腰を下ろす。


 目が合うと、右手が上がった。


 レティシアは小さく頷き、前を向いた。


 セヴランが待っていた。


 灰銀の髪が風に揺れている。腰には細剣があるが、手は柄に触れてもいない。三日前、教室で会ったときと同じように、背筋を楽に伸ばして立っていた。


「よく眠れた?」


「はい」


 嘘だった。


 明け方まで、水の動かし方を頭の中で繰り返していた。何度やっても最後まで思い描けず、窓の外が白み始めて、ようやく目を閉じた。


「セヴラン、上着くらい脱いだら?」


 上段から声がした。


 双短剣の少女、リゼットが柵へ肘を乗せていた。少し離れて、大柄なガルドが腕を組んでいる。


「濡れたら、そうするよ」


 セヴランが答えた。


 レティシアは杖を持ち上げた。袖くらいなら濡れる、という意味には聞こえなかった。


「ネイレア」


 左手へ、冷たい指が触れた。


 水の粒が集まり、精霊の髪が流れる。青い輪が足元へ広がると、客席のざわめきが一段高くなった。


 膨れ上がる魔力を、胸の奥へ受け入れた。


 最初から、借りられる力は全部借りる。


 杖の先を、セヴランの胸へ向ける。彼は精霊を呼ばなかった。こちらの隣へ一度目を向け、またレティシアを見た。


 ダリウスの手が上がった。


「両者、構え」


 最後に一度、息を吐いた。


「始め!」


 水が唸った。


 正面へ放った奔流が、セヴランの姿を覆い隠す。同時に左右から二筋の水を回した。地面すれすれを滑らせ、背後で跳ね上げる。


 正面の水が、折れた。


 透明な面が一瞬だけ光り、流れが斜め上へ噴き上がる。


 見たとおりだ。


 レティシアは、上がった水を引き戻した。


 頭上から落とす。右からの水も、左からの水も、そこへ合わせる。


 三つの流れが、別々の方向へ弾けた。


 足元へ飛沫が降った。


 レティシアは瞬きもせず、杖を返した。まだ水は繋がっている。右から弾かれた流れを細く絞り、脇腹へ巻きつけた。


 届く直前、小さな光が挟まった。


 水の先だけが逸れる。


 追わせる。もう一度曲がる。今度は脚へ落とす。


 そこにも、光があった。


 セヴランの指が、わずかに動いていた。


 肩幅もない面が、膝の横で消え、肘の外へ現れる。見えたと思ったときには、水が違うほうへ流れていた。


 待って。速すぎる。


 次に曲げる場所へ意識を向けた途端、別の流れが押し戻される。三筋を保とうとして、奥歯に力が入った。


「それを練習してきたんだね」


 水音の向こうで、声がした。


 セヴランは、こちらを見ていた。


 これだけの水に囲まれて、私を見る余裕があるのか。


 一筋だけ、引き絞ったまま残した。


 左右の水を先にぶつける。セヴランの指が動く。その瞬間を待ち、残した水を一気に放った。


 今度こそ、右手に届く。


 水の先が、指へ触れそうになった。


 小指が、わずかに持ち上がった。


 流れが手の甲を避け、レティシアの頬の横へ飛んできた。首を捻ると、背後で砂が跳ねた。


 避けた頬が冷えていた。肩へ落ちた髪が張りつく。自分ばかりが濡れていく。


 上段で、誰かが拍手した。


 唇を噛んだ。あの手を打つ音が、どちらへ向けられたものなのか、考えたくなかった。


 レティシアは横へ走った。


 正面へ水を叩きつけたまま、回り込む。靴が濡れた砂を蹴った。風を切る杖の先へ、もう一筋を集める。


 全部を見られるはずがない。


 低く放った水槍が、セヴランの右脇を狙った。


 彼が、半歩動いた。


 水槍がその脇を通り過ぎる。かわされた。けれど、そこから曲げれば背中に――。


 左の肩へ、何かが激突した。


「あっ!」


 横へよろめいた。足を踏ん張る前に、冷たい塊が頬を叩く。口へ水が入り、息が詰まった。


 自分が正面へ放ち続けていた水だった。


 杖を引き、流れを解く。砂へ落ちた水が、靴を呑んだ。


 咳をすると、頬が痛んだ。


 セヴランの左手が下りた。


 反射的に、客席を見そうになった。


 見るな。


 まだ、始まったばかりだ。


「大丈夫」


 ネイレアへ言ったつもりが、ひどく小さな声になった。


 レティシアは、唇についた砂を拭った。


     *


 杖を下げると、地面へ散った水が集まり始めた。


 足元から、冷たい気配が広がる。


 細く曲げるたびに、先端を弾かれる。右へ向け直せば、右へ守りが来る。左なら左。追いかけるほど、彼の指へ自分の動きを合わせている気がした。


 なら、先端だけでは受け切れない流れを。


 水が、セヴランを囲んでせり上がった。


 肩の高さを越える。さらに高く。水の向こうへ客席が歪み、彼の灰銀の髪だけが見えた。


 レティシアの喉から、細い息が漏れた。


 重い。


 けれど、まだ保てる。


 ネイレアの指が、肩へ触れた。温かな力が腕を満たす。


 レティシアは杖を握り込み、水の壁を内側へ倒した。


 轟音が競技場を埋めた。


 水が水へぶつかり、白く泡立つ。底へ足をつけたままでは立っていられないはずだった。跳ぶなら、上から押さえる。


 上がってくる頭を探した。


 見えない。


 水の底から、彼が歩いてきた。


 レティシアの杖が止まりかけた。


 目の前の水が左右へ流れ、靴の先へ届く前に外へ逸れている。セヴランが一歩進むごとに、その前だけ、水のない場所ができた。


 袖も、髪も、濡れていなかった。


 どうして。


 横から水を戻す。頭上の塊を落とす。上げた左手の先で流れが滑り、レティシアの背後へ降り注いだ。


 肩が跳ねた。


 水音に紛れて、足音が近づいてくる。


 止めなければ。


「蒼鞭《アズール・ウィップ》!」


 足元から太い水の帯を跳ね上げた。腰へ巻きつけるつもりで振るう。


 セヴランが右手を向けた。


 帯が、レティシアの頭上へ跳ね返った。


 今。


 レティシアは水を追わず、踏み込んだ。


 ロルフと繰り返した足運び。腕だけで振らず、腰を回す。握りをずらした杖の端を、セヴランの胴へ打ち込んだ。


 硬い手応えがあった。


 杖の先が、透明な面を滑った。


 腕を外へ持っていかれる。止まれない。空いた脇腹が寒くなった瞬間、セヴランの手が、こちらの杖へ添えられた。


 軽く、押された。


 上体が崩れた。


 踵で地面を掻き、どうにか立て直す。セヴランの指が、自分たちの頭上へ向いた。


 残っていた水の帯の上で、薄い面が光った。落ちてくる流れの先が、こちらへ曲がる。


 引き戻そうとした。


 間に合わなかった。


 腹へ、水がめり込んだ。


「ぐ、っ……!」


 両足が浮いた。


 背中から砂へ落ち、息が全部抜けた。視界が白くなった。杖を握った指だけが、痛いほど強張っていた。


 吸えない。


 口を開く。喉が鳴る。上から落ちてきた水を、顔を背けてやり過ごした。


「レティシア!」


 誰の声か、わからなかった。


 痛む腹を庇って横を向く。白線がすぐそばにあった。指で砂を掴み、震える肘を立てた。


 さっきまで、あんなに近かったのに。


 セヴランは、水の引いていく地面に立っていた。


 腰の細剣は、鞘に収まっている。


 息も、乱れていない。


 立たなければと思った。けれど、腹へ力を入れるのが怖かった。呼吸をするたび、次の痛みを待ってしまう。


 痺れた指も、まだ動く。


 それなのに、次に何をすればいいのか、浮かばなかった。


「レティシア。息を吐いて」


 ネイレアがそばへ下りていた。


 言われたとおりに、細く吐いた。途中で咳き込み、ようやく少し空気を吸えた。


 魔力はある。


 ネイレアも、まだここにいる。


 ロルフを押し切った力を、最初から使っている。三日間かけて、流れも繋げられるようになった。


 それでも、自分だけが地面に這っている。


 セヴランのそばには、誰もいなかった。ネイレアのように、彼へ力を渡す精霊の姿さえない。


 勝って、あの教室へ戻るつもりだった。扉を開けて何と言うかまで、考えていた。


 杖を支えに、膝を起こした。


「まだ、やれます」


 近づきかけたダリウスへ言った。


 声が震えた。先生に聞かれたくなくて、もう一度、強く言おうとした。けれど、息を整えるので精いっぱいだった。


 セヴランは待っていた。


 追ってこないことが、こんなに苦しいとは思わなかった。


 レティシアは、ようやく両足で立った。


 頬の水を袖で拭く。見上げた客席で、ロルフが柵を握っていた。マシュウは前へ身を乗り出し、こちらを見ている。


 まだ、誰も諦めろとは言っていなかった。


 レティシアは杖を上げた。


 先端が、小さく揺れた。


 止めようとして握り直すと、かえって大きく震えた。セヴランの目が、その動きを追った。


 悔しくて、涙が出そうになった。


 これほど怖い相手へ、自分から挑んだのだ。


 唇を噛み、杖を両手で支えた。


「もう一度、いきます」


 セヴランが頷いた。


 胸の前へ上がったその手に、剣はなかった。

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