第41話 選び取る相手
十人の名前を、もう何度読み返したかわからない。
レティシアは筆を置いた。
挑戦申請書の上には、優勝者として自分の名が記されている。その下の、対戦を希望する相手の欄だけが空白だった。
大会から十日が過ぎていた。窓の外では、授業へ向かう生徒たちが歩いている。中庭を横切る笑い声が聞こえる。学園は少しずつ普段の姿に戻っていた。
けれど、決勝の開始を待っていた時間は、まだ胸の中に残っている。
とうとう呼ばれなかった、マシュウの名前。
優勝を告げられたとき、自分がどんな顔をしていたのか、思い出せなかった。
レティシアは、机の脇へ立てた杖を取った。左腕を上げ、そのまま大きく回す。肩にも腹にも、痛みはない。今朝の診察で、実技へ戻る許可も出ていた。
今度は、自分で戦える。
机へ広げた記録を、手元へ引き寄せた。
Sクラスは、五つの学年を合わせても十人。ここにある誰かを倒せば、その席へ座ることができる。
最初に調べたのは、二本の短剣を使う上級生だった。
対戦記録には、開始直後に間合いを詰めた、とある。次の試合も、その次も。水を広げる前に懐へ入られるところを想像すると、ロルフの剣を受けた肩が、痛くもないのに強張った。
別の一人は、遠距離の魔法を得意としていた。こちらなら、距離を取ったまま撃ち合えるかもしれない。
そう考えて読み進めた末尾には、相手の魔力切れによる決着とあった。挑戦者は、一度も射程から逃れられなかったらしい。
薄い記録を閉じた。
どれにも、自分が知りたい瞬間が書かれていなかった。攻撃が届く直前、相手はどこを見て、どんな顔で、何をしたのか。
残した一枚へ目を落とす。
四年生。セヴラン・ヴァイス。
炎の前へ降り立った、あの生徒の名前だった。
立っていた場所も、上げた手の向きも、目を閉じれば思い出せる。流された炎の行方を、何度も紙へ描いてみた。
そこへ水の通り道を書き足すと、初めて杖を持って試したくなった。昨夜から、その線が頭を離れなかった。
*
「本当に、あの人を選ぶつもりか」
実技場でロルフに尋ねられ、レティシアは頷いた。
「午後に指名する。その前に、確かめておきたいの」
「ほかの九人は調べたのか」
「借りられる記録は、全部」
ロルフが、手にした木剣を下げた。
「それで、あの炎を片手で止めた相手か」
声に、咎めるような響きがあった。
レティシアも覚えている。競技場を埋めた赤い光。守りの結界越しでも、顔を覆わずにいられなかった熱。
セヴランは、その真正面へ立った。
怖くないはずがなかった。
「炎が、上へ曲がったでしょう」
「……ああ」
「あそこで何が起きたのか、ずっと考えていたの」
杖を握り直す。透明な面に沿って、炎が空へ駆け上がった。あれほどの力を正面からぶつけても、届かなかった。
もし、曲げられた先でも、まだ動かせたら。
「一度、受け流して。あなたの風で」
ロルフはしばらく黙っていたが、やがて木剣を構えた。
「威力を上げすぎるなよ。僕は、あの人の代わりにはならない」
「わかってる」
水が杖の先へ集まった。
細く絞った一筋を、ロルフの胸へ放つ。木剣が斜めに走り、巻き起こった風が水を右へ逸らした。
レティシアは、逸れた流れを引き戻した。
水の先端が曲がり、ロルフの横腹へ回る。
届く。
そう思った途端、もう一度振られた木剣が水を散らした。冷たい飛沫が頬へ返ってくる。
「遅い」
ロルフが剣先を向けた。
「曲がるまで、僕が待つと思ったか」
唇の端についた水を拭った。
「もう一度」
今度は、撃ち出す前に流れを二つへ分けた。
一筋が正面へ向かい、もう一筋が足元を這う。胸へ飛んだ水が逸れるのに合わせ、低い流れを跳ね上げた。
ロルフが足を引く。
その動きを待っていた。正面から逸らされた水を、背中へ回す。
「っ!」
ロルフは身を捻り、風を叩きつけた。背後の水が砕け、先に避けたはずの低い流れが、その右袖を濡らした。
剣を握る指へ、水が巻きついた。
レティシアは、そこで杖を下げた。
水が解けて、地面へ落ちる。
ロルフは自分の手を見た。濡れた指を開き、剣の柄を握り直す。その顔が険しくなったので、レティシアは先に口を開いた。
「あなたに通ったからって、あの人にも通じるとは思っていないわ」
「なら、もう一度だ」
剣先が上がった。
「次は、僕も避ける」
レティシアは一瞬、言葉に詰まった。
頼んだのは、風で受け流してもらうところまでだった。けれど、ロルフはもう、こちらの杖を見ている。
「……ありがとう」
「礼は、終わってからにしてくれ」
三筋に増やした水は、誰もいない地面へ落ちた。
回り込まれ、慌てて杖を返す。追わせた水が一つになる。その隙に、木剣の先が肩へ届きかけた。
レティシアは、歯を食いしばって後ろへ退いた。
足元の水を跳ね上げ、ようやく剣を押し返す。
胸が、どくどくと鳴っていた。
守りを越える。そのことばかり考えていた。自分が攻められた途端、三つの流れさえ保てなくなった。
午後まで、あとどれだけあるだろう。
「少し、休もう」
ロルフも息を弾ませていた。
レティシアは頷き、杖の柄を額へ当てた。冷たさが、火照った皮膚に気持ちよかった。
「無理だと、思う?」
聞いてから、顔を上げた。
言わなければよかった。そんなことを尋ねるために、彼を呼んだのではない。
ロルフはすぐには答えなかった。
「君が精霊を呼んだとき、僕は、もう近づくこともできなかった」
濡れた袖を絞りながら言った。
「今日、君が使った水の量なら、まだ追える。でも、あれを同じように動かされたら……僕には、わからない」
レティシアは、自分の周りに残る水溜まりを見た。
そこから水の粒が浮いた。透き通った髪がほどけ、ネイレアがそばへ降り立つ。
ロルフの手が止まった。すぐに目を戻したが、剣を持つ肩には力が入っていた。
「お願い。次は、あなたの力も借りたい」
精霊へ手を伸ばす。
「流れを、途中で手放したくないの」
ネイレアが、その指先へ触れた。
「ええ。続けましょう」
*
午後、レティシアはダリウスとともに、Sクラスの教室を訪れた。
廊下の窓から見える競技場には、まだ黒く焼けた場所がある。三日後、あそこで挑戦戦が行われる。
ダリウスが扉を叩いた。
「入りなさい」
中から返った声に、レティシアの指が杖を強く握った。
扉が開く。
十人がいた。
机の端に腰をかけた少女。窓際で腕を組んだ大柄な生徒。開いた本へ指を挟み、顔だけをこちらへ向けた青年。
正面の少女の腰には、二本の短剣があった。
記録で読んだ名前が、目の前の顔と結びついていく。そのたびに、紙の上で考えていた攻め方が、ひどく頼りなく感じられた。
「一年生の優勝者か」
窓際の生徒が言った。
レティシアは、足を止めずに進んだ。
「レティシア・ヴェルナーです」
机の後ろにいた一人を見つけた。
セヴラン・ヴァイス。
彼は頬杖を外すと、椅子から立ち上がった。あの日も、こんなふうに、急ぐ様子もなく競技場へ降りてきた。
「肩は、もういいのかな」
「はい」
「それはよかった」
穏やかな声だった。
炎の向こうで、マシュウもヴァレクも倒れた。担架へ駆け寄る人たちの中で、この人だけは慌てていなかった。
近くで見ると、自分たちと同じ制服を着ている。そのことが、かえって落ち着かなかった。
ダリウスが、レティシアの横へ立った。
「挑戦権を行使する。指名した相手に勝てば、君がSクラスへ入る。相手は決まったか」
「はい」
申請書は、まだ空欄だった。
最後に十人の顔を見たかった。ここに立って、誰を相手にするのか、自分の口で言いたかった。
セヴランが、こちらを見ている。
掌が湿った。杖を持ち直すと、訓練で擦れたところがひりついた。
ロルフの右袖を濡らした水。身を躱されて散った水。ネイレアの力を借り、何度も繋ぎ直した三つの流れ。
あれを、この人へ向ける。
「セヴラン・ヴァイス先輩。あなたに挑みます」
本を持っていた青年が、頁を閉じた。
短剣の少女が、セヴランへ視線を移す。その口元が少しだけ緩んだ。
「指名されたわよ」
「聞こえているよ」
セヴランは、レティシアの前まで来た。
「僕を選んだのは、あの試合を見たから?」
「はい。あなたの守りを、私の水で越えます」
言い切った途端、心臓が激しく打った。
彼は笑うだろうか。
セヴランは差し出された申請書を受け取り、空欄へ自分の名を書いた。
「受けよう」
紙が戻ってきた。
たった一行が埋まっただけで、もう取り繕う言葉が見つからなくなった。
「三日後だね。楽しみにしている」
レティシアは、受け取った紙を折らずに持った。
教室を出るまで、足は震えなかった。
扉が閉じてから、深く息を吸った。ようやく肺の奥まで空気が入ってきた気がした。
「実技場へ戻ります」
ダリウスへ言った。
杖を握る掌は、まだ濡れていた。




