第40話 招かれざる仲間
「見舞いに来た顔じゃないな」
フェリクスに言われ、マシュウは寝台の横で足を止めた。
目覚めてから六日が過ぎていた。ようやく廊下を歩く許可が下りたが、左腕はまだ吊られている。椅子へ腰を下ろすだけでも、脇腹が引きつった。
フェリクスは背に枕を重ねていた。固定された右脚が、布団の下で盛り上がっている。左腕の包帯は、マシュウのものより厚かった。
「顔、ひでえぞ」
「君に言われたくない」
言い返したあと、フェリクスは少し息を整えた。それを見て、マシュウは笑いかけた口を閉じた。
痛むのだ。話すだけでも。
「……悪かった」
「何がだ」
「俺も寝ちまって、来るのが遅くなった」
「起きて最初に聞かされたのが、君も運ばれてきたという話だぞ。私の見舞いをしている場合か」
叱る声が、懐かしかった。
マシュウは膝へ目を落とした。試合のあと、聞きたいと思っていた小言が、ようやく聞けた。
「勝ったんだな」
「ああ」
「……そうか」
フェリクスは窓へ顔を向けた。包帯から出た右手の指が、敷布をわずかに擦った。
「次にあいつを見たとき、私は平気な顔ができると思うか」
マシュウは答えられなかった。
「眠ると、時々あの試合に戻る。足を引こうとしても、動かない。目が覚めても、まだ――」
右脚へ落ちた視線を、フェリクスはすぐに上げた。
「今の話は、忘れろ」
「嫌だ」
フェリクスの眉が寄った。
「忘れねえよ。お前があいつに会いたくないなら、会わなくていい」
「……君が決めることじゃない」
「ああ。お前が決めろ」
少しして、フェリクスの肩が下がった。
枕元には、教本が開いて置かれていた。右手を伸ばそうとして顔をしかめたので、マシュウが代わりに取った。
「閉じるか」
「その栞を挟んでくれ。頁がわからなくなる」
開かれた頁には、足を開いて杖を構えた絵があった。マシュウが紙片を挟む間、フェリクスは黙って見ていた。
「歩けるようになったら、練習に付き合え」
「今から約束するのか」
「先に決めておく。……そうでもしないと、逃げそうだ」
最後は、聞き逃しそうな声だった。マシュウは教本を、右手の届くところへ戻した。
「待ってる」
「今日は、疲れた」
「また来る」
「次は、授業のノートを持ってこい。寝ている間に置いていかれる」
「俺のは駄目だぞ」
「知っている。ネラかエリオに頼め」
扉を閉めてから、マシュウは廊下の壁へ背を預けた。息を吐くと、少しだけ笑えた。
向かいを歩いてきた生徒が、こちらに気づいて足を止めた。
その目が、吊られた腕から右の拳へ移る。隣の生徒の袖を引き、二人とも廊下の反対側へ寄った。
「あれが……」
「声を落とせ。聞かれるぞ」
マシュウと目が合うと、二人は慌てて顔を伏せた。呼び止めるつもりもないのに、一人は鞄を胸へ抱え直した。
教室で借りた筆を返すときも、これから、こんな顔をされるのだろうか。
マシュウは、壁から手を離した。
*
ヴァレクが面会を求めていると聞いたのは、その午後だった。
「断ってもいい。会うなら私が立ち会う」
ダリウスの横で、ネラがこちらを見ていた。
「何を言うつもりなのか、聞きたい」
「私も行く」
ネラはすぐに言った。
「廊下で待ってても、気になって仕方ないもん」
別室の扉を開けると、薬の臭いがした。
ヴァレクは寝台の上にいた。首も腕も白く巻かれ、頬の一部には赤黒い皮膚が覗いている。整っていた顔が、包帯の端で途切れていた。
マシュウの足が止まった。
炎の中で聞いた声が、耳の奥に戻ってきた。
「やあ、マシュウくん。やっと来た」
ヴァレクが笑った。
掠れた声が、妙に楽しげだった。
「……何の用だ」
「僕も、マシュウくんのそばにいさせてよ」
聞き間違えたかと思った。隣のネラも黙っている。
「何だって?」
「君と一緒にいたいんだ。授業が別でも、放課後なら――」
「断る」
「早いなあ。まだ最後まで言ってないのに」
「最後まで聞いたって同じだ」
ヴァレクが唇を尖らせた。あれだけのことをして、なぜそんな顔ができる。
「話がそれなら、帰る」
「待って。ねえ、待ってって」
寝台が軋んだ。振り向くと、ヴァレクが肘をつき、こちらへ身を乗り出そうとしていた。
途端、口から短い息が漏れた。腕が震え、肩が枕へ落ちる。
「動くなと言っただろう」
ダリウスがそばへ寄った。
「だって、帰っちゃうから」
「君の傷が開く」
「わかってるよ。……痛っ」
ヴァレクは顔をしかめた。頬の包帯へ触れかけ、手を止める。白い布の下から覗く傷へ、マシュウの目が落ちた。
「そこ、残るんだって」
視線に気づいたヴァレクが言った。
「治療しても、前と同じにはならないらしいよ」
ネラが息を呑んだ。
マシュウは右手を握った。
「そんな顔するんだね」
ヴァレクが顔を覗き込んできた。
「試合のときは、ずっと楽しそうだったのに」
「……何が言いたい」
「あの君が、頭から離れないんだ」
ふざけた調子が、少しだけ消えた。
「グラウムが消えたとき、本当に何もできなかった。もう駄目だと思ったよ。僕が逃げるのを、君は笑って見てた」
ヴァレクの指が、敷布へ食い込んだ。
マシュウは、震えるその手を見た。
「だったら、俺の顔なんか見たくもないだろ」
「そう思うでしょ? 僕も、最初はそうだったんだ」
ヴァレクが布を離した。
「でも、思い出すたびに、君の顔を探してる。次は何をするんだろうって。僕が必死で逃げてるのに、あんなふうに笑えるんだよ?」
声が弾んだ。
「すごかったなあ。僕、自分よりひどい奴って、あまり見たことがなかったから」
マシュウの胃が、冷たく縮んだ。
「一緒にするな」
「うん。一緒じゃないね。僕なんか、君の足元にも及ばなかった」
「褒めてるんじゃねえよ」
「知ってる。僕が褒めてるんだ」
笑おうとして傷が痛んだのか、ヴァレクは眉を寄せた。
「炎の髪に、龍の目……サラマンダーとの霊融なのかな。あんな姿になる精霊なんて、ほかに思いつかなくて」
「正体は知らない。姿も見たことがない」
「えっ。会ったこともないの?」
ヴァレクの目が丸くなった。頷くと、やがて小さく笑った。
「じゃあ、君も知らないことばかりなんだ。ますます気になるな」
「勝手に気にしてろ」
「そうする。そばでね」
「だから、断っただろうが」
ネラが、マシュウの横へ並んだ。
「フェリクスに何をしたか、忘れたわけ?」
ヴァレクの視線がネラへ移った。
「忘れてないよ」
「だったら、どうして一緒にいられるなんて思うの」
ヴァレクが口を開く前に、ネラは続けた。
「あいつ、まだ歩けないんだよ。あんたが来たら、どんな顔すると思ってるの」
マシュウも、寝台へ一歩近づいた。
「フェリクスには近づくな」
ヴァレクは二人を見比べた。さっきまで持ち上がっていた口の端が、少し下がった。
「……あの子のところには行かない。君たちの友達にも、もう手を出さないよ」
「それで許されたわけじゃないからな」
「うん。君が断っても、あの子には近づかないよ」
マシュウは踵を返した。
「話は終わりだ」
「マシュウくん」
呼ばれても、足を止めなかった。
「断られても、僕が勝手にそばにいるからね」
今度は止まった。
振り向くと、ヴァレクは枕に頭を預けていた。頬は青白い。それでも、こちらへ向けた目だけは妙に明るかった。
「聞いてたか、今の話」
「聞いてたよ。あの子には近づかないし、友達にも何もしない。僕が会いたいのは、君だもの」
「来るな」
「またそういうこと言う。ねえ、食堂ではいつもどこに座ってるの?」
「教えるか!」
怒鳴った途端、脇腹が痛んだ。思わず身体を折ると、ネラが腕を支えた。
「ああ、ほら。無理するから」
「誰のせいだと思ってんだ」
ダリウスが二人の間へ入った。
「面会は終わりだ。二人とも、これ以上話すな」
「先生、次は僕が行ってもいい?」
「まず、一人で起き上がれるようになってからだ」
「だってさ、マシュウくん。歩けるようになったら行くよ」
「そういう許可じゃない」
ダリウスの声を背に、マシュウは部屋を出た。
*
扉が閉まってから、マシュウはネラを見た。
「……何なんだ、あいつ」
「こっちが聞きたいよ」
ネラはまだ怒っていた。支えてくれる腕にも、力が入っている。
「食堂、一緒になんかしないからね」
「俺だって嫌だ」
マシュウは扉を睨んだ。
殴りたい。だが、また殴ったら、それさえ喜びそうなのが腹立たしかった。
中からダリウスの声がした。
「もう起き上がろうとするな。何を探している」
「紙と筆。会いに行けないなら、手紙を書こうと思って」
ネラと目が合った。
「……返事、書かなくていいからね」
「書くかよ」
マシュウは支えられたまま歩き出した。
曲がり角の手前で、病室からまた声が届いた。
「マシュウくん、明日も待ってるから!」
「行かねえ!」
言い返した自分の声に、ネラがもう一度、呆れたように息を吐いた。




