第39話 残された代償
右手を、開いた。
指は言うとおりに動いた。握れば閉じ、力を抜けば緩む。何度か繰り返してから、マシュウはようやく息を吐いた。
白い天井があった。窓から入る朝の光が、寝台の端を照らしている。顔へ落ちた髪は短く、包帯から出ている指にも鱗はなかった。
「……マシュウ?」
顔を向けると、ネラが椅子から腰を浮かせていた。
目が赤かった。こちらを見つめたまま、口を開いては閉じている。いつもなら待たずに話し始めるのに、その顔を見ているうちに、何を言えばいいのかわからなくなった。
「おはよう」
声は、ひどく掠れた。
ネラが唇を噛んだ。急に顔を伏せ、水差しを取る。
「……遅いよ」
差し出された杯へ手を伸ばすと、肩に痛みが走った。ネラが先に気づき、枕の位置を直してくれた。支えてもらいながら飲んだ水が、乾いた喉へ染みていく。
「フェリクスは」
「夜中に、一度起きたって。今はまた眠ってる。エリオがついてるよ」
「そうか」
杯を持つ手から力が抜けた。ネラが底を支えてくれる。その指へ、昨日の砂に汚れた手が重なって見えた。
あの手を、握り返せたのだろうか。
「ヴァレクも、生きてる」
尋ねるより先に、ネラが言った。
「まだ治療してるけど。先生が、そう言ってた」
マシュウは目を閉じた。胸の奥から長い息が漏れ、途中で脇腹が痛んだ。
炎に包まれた顔を覚えている。逃げようとして地面を掻いた指も、自分の口から出た笑い声も。
忘れていない。
「覚えてるの?」
頷くと、ネラは杯を台へ置いた。
「あのとき、呼んだんだよ。何度も」
「聞こえてた」
「だったら……」
言いかけた声が止まった。マシュウは右手へ目を落とした。
「返事をしたかった。もういいって、止まろうとした。でも、動かなかった。俺がやめろと思っても、手が勝手に――」
喉が詰まった。
さっきまで杯を持っていた指が、白い敷布を掴んだ。あの腕も、この指も、自分のものだった。ヴァレクが倒れてからも、炎を出すのをやめなかった。
「俺、あいつを殺すところだった」
ネラの手が寝台の縁を握った。
「私も、あいつが憎かったよ」
顔を上げると、ネラは敷布を見ていた。
「フェリクスにしたこと、許せない。マシュウに殴ってほしかった。だから最初は、立ってくれて嬉しかったんだ。でも……あのまま帰ってこなかったらって」
声が震えた。
「あいつを見て笑ってる顔が、知らない人みたいだった」
マシュウは何も言えなかった。
自分も、あの笑いが怖かった。
扉が開いた。ダリウスが入ってきて、目の合った瞬間、足を速めた。
「目が覚めたか。痛むところは?」
「……あちこち」
「順に聞く。起き上がらなくていい」
左腕、右脚、胸。答えるたび、先生は包帯や指先の動きを確かめた。窓の明かりの下で見る顔には、深い疲れがあった。
診察が終わっても、ダリウスはそばを離れなかった。
「試合で何が起きたか、話せるか」
ネラが椅子を引いた。
「私、外に――」
「いてくれ」
思ったより大きな声が出た。
二人がこちらを見た。マシュウは敷布から指を離し、ネラへ顔を向けた。
「お前にも、聞いてほしい」
*
「声が、したんだ」
ダリウスは途中で口を挟まなかった。
地面へ押しつけられ、息ができなくなったこと。知らない声に身体を貸せと言われたこと。自分で頷き、教えられた名を唱えたこと。
話しながら、マシュウは先生の顔を見られなくなった。
「誰なのかも、わからなかった。でも、あいつを倒せるならって思った。仲間には手を出すなって、それだけは言った」
「君の意思で、受け入れたんだな」
「ああ」
ネラの膝の上で、手が重なった。
「身体が変わってからも、見えてた。痛みもあった。なのに、口も腕も、そいつが動かしてた。今は……呼んでも、返事がない」
ダリウスがしばらく黙った。
「今も、身体を動かされる感じはあるか」
「ない。今は、俺が動かしてる」
台には、治療で外された手首の布があった。洗われた結び目に、黒ずんだ染みが残っている。
十回使えば、死ぬ。
あの声の言葉が蘇った。開きかけた口を閉じる。
ネラの赤い目を見た。杯を支えてくれた指が、今は膝の上で固く組まれている。
この手に、次から何を数えさせるつもりだ。
その条件だけは、胸の内へ押し戻した。
「……戻ってこられなくなるかもって、思わなかったの?」
「思った」
膝の上の指が、さらに強く握られた。
「私、手を握るのも怖かったんだよ」
こちらへ伸びかけた手が、寝台の縁へ下りた。
「呼んでも返事がなくて、目も合わなくて。もう、私のことなんか、わからなくなったんじゃないかって……」
ネラは俯き、敷布を掴んだ。
「帰ってくるって、言ったじゃない」
「帰りたかったんだよ」
「立てなかった。息もできなかった。お前の声が聞こえてるのに、何もできなくて……あそこで終わるのが、嫌だった」
ネラの目が揺れた。
「だったら、今度は私たちにも、何かさせてよ」
「声をかけるくらいしかできなかった。あんなの、もう嫌だよ」
謝ろうとして、声が出なかった。あの瞬間は、力が欲しかった。もう使わないと約束して、守れるのかもわからない。
ダリウスが、寝台のそばへ椅子を寄せた。
「あそこまで追い込まれた君だけに、責任を負わせるつもりはない」
「止められなかったことは、私たちの問題だ。ただ、君の身体に何が起きたのかは調べなければならない。小さな変化でも伝えてくれ。声がまた聞こえたら、それもだ」
マシュウは頷いた。
ネラが袖で目を拭いた。マシュウは寝台の縁に残った手へ、自分の指を伸ばした。触れると、ネラが顔を上げた。
「また声がしたら、相談する。身体を貸す前に」
ネラはすぐには答えなかった。こちらの指を見つめ、やがて、そっと握り返した。
「……聞くから」
その温かさを感じながら、マシュウは頷いた。言わずに残したことが、喉の奥につかえていた。
*
午後、エリオが薄い粥を運んできた。
盆の端に、小さな肉皿もあった。マシュウが目を向けると、エリオは困ったように笑った。
「これは僕の。君はまだ、そっちだって」
「見せに来たのかよ」
「一緒に食べようと思ったんだよ」
匙を取る手が止まった。
エリオはもう椅子を寄せていた。ネラの分の椀もあり、狭い台へ三つ並べようとして、置き方を何度も変えている。
「フェリクスがさ。目を覚ましたとき、君が勝ったか聞いたんだ」
「……何て答えた」
「勝ったって。でも、君も隣で寝てるって言ったら、眉を寄せてた」
浮かんだ顔が、あまりにいつものフェリクスで、マシュウは笑いかけた。息を吸ったところで脇腹が疼き、顔をしかめる。
「まだ痛むから、長くは話せないんだ。会うのは、先生がいいって言ってからね」
「ああ。待つ」
粥を口へ運んだ。薄い塩の味がした。食堂で四人並んで食べたものより、ずっと柔らかい。それでも、飲み込むと腹の奥が温まった。
食べ終える頃に、扉が叩かれた。
レティシアだった。入口でこちらを確かめると、肩の力を抜いた。
「話せるくらいには、戻ったのね」
「なんとかな。……優勝、おめでとう」
さっきエリオから聞いた結果を思い出して言うと、レティシアは一度目を伏せた。
「ありがとう。あなたとは、ちゃんと戦いたかった」
「俺もだよ」
自分で足を運び、拳を出して、彼女の水を越えられるか確かめたかった。そのあとは食堂へ行き、フェリクスに小言を言われながら飯を食う。そんな終わり方を、試合の前には思い描いていた。
レティシアが寝台のそばへ来た。
「聞いてもいい? あなたの精霊のこと」
マシュウは台に置いた手を見た。
「名前も、姿も知らない」
「一度も、見ていないの?」
頷くと、レティシアは口を閉じた。エリオが空の椀を持ったまま、二人を見比べている。
「サラマンダーかもしれないと思ったの」
「……それが、あいつの名前か?」
「火の精霊よ。炎の髪に、鱗。龍のような目もしていた。でも、見た特徴から考えただけ。あなたが知らないなら、確かめようがないわ」
初めて聞く名を、マシュウは胸の内で繰り返した。
何も返ってこなかった。
「廊下でも、君の話をしてる人がいたよ」
エリオが椀を重ねた。
「精霊と契約してたのかって。あれを、また使えるのかって」
ネラがこちらを見た。その目を見て、マシュウは返事に詰まった。
また使う。
そう言うだけなら、簡単だった。
レティシアはしばらく待ってから、首を横に振った。
「今日は休んで。私も、考えることがあるから」
Sクラスへの挑戦。その話を尋ねる前に、彼女は椅子の背から手を離した。
扉が閉じたあと、マシュウは両手を開いた。
十本の指が、今は全部、自分の意思で動く。
ネラが台の上の布を取った。黒ずんだところを指で撫で、包帯のそばへ置き直す。
「もう少し食べる? 冷めちゃったけど」
マシュウは窓の外から、その手へ目を戻した。
「食う。……取ってくれ」
差し出された匙を、自分の手で受け取った。




