第38話 Sクラス
右手が振り下ろされた。
炎の龍が顎を開く。ヴァレクの身体が、その影にすっぽりと隠れた。
間に合わない。
マシュウがそう思った瞬間、二人の間へ人影が降りた。
靴が砂を踏む。それだけの、小さな音だった。
「そこまで」
片手が上がった。
落ちてきた炎の顎が、空中でひしゃげた。
マシュウは、何が起きたのかわからなかった。牙が砕け、太い炎の首が後ろへ反る。その下に、薄く光る透明な面があった。
炎が面に沿って滑り、真上へ噴き上がった。
轟音が空へ抜けた。競技場の砂が浮き、髪が激しく煽られる。赤く染まった視界の中で、その生徒は足を動かさなかった。
上げた手の下に、ヴァレクがいた。
潰されても、呑み込まれてもいない。焼けた腕で頭を庇い、丸まって震えている。
生きている。
胸の奥が緩んだ。その感覚とは裏腹に、マシュウの口から舌打ちが漏れた。
「てめえ……」
炎が薄れ、顔が見えた。
客席の上段で頬杖をついていた生徒だった。こちらの変化を見て、笑っていた、あのSクラス。
上げていた手が下りる。透明な面は、熱で揺れる空気に紛れて消えた。
「もう決着はついてる。これ以上はやりすぎだろ」
叱りつけるほど大きな声ではなかった。それでも、遠くで上がっていた悲鳴まで止まった。
マシュウの身体が、ゆっくり立ち上がった。
「邪魔してくれたじゃねえか」
右の拳が鳴った。
「いいぜ。今度はてめえだ」
やめろ。
マシュウは再び腕を引こうとした。助けてくれた相手だ。その人にまで、あの炎を向けるのか。
足が地面を蹴った。
目の前の生徒は、逃げなかった。半歩だけ位置を変え、ヴァレクを背に庇う。上げ直した掌が見えた。
そこへ拳が届く前に、炎が途切れた。
指先から熱が抜けた。
マシュウは、足が地面についたことさえわからなかった。膝が折れ、視界が傾く。目の前の生徒はまだ掌を構えたまま、何もしていなかった。
「……あ?」
声の主が、右手を見た。
鱗の隙間から、赤い光が消えていく。腰まで流れていた炎が短く縮み、頬を撫でた髪の先が、火の粉になって散った。
「ちっ。もう時間切れかよ」
右手が握られた。炎は灯らなかった。
「軟弱な身体しやがって。こんな程度で――」
言葉が途切れた。
薄い鱗が消え、縦に裂けていた瞳孔が丸く戻った。
胸に、痛みが戻ってきた。
いや、痛みはずっとあった。その奥で身体を動かしていた力だけが、突然なくなったのだ。
おい。マシュウは胸の奥へ呼びかけた。何をした。俺の身体に、何を使わせた。さっきまで笑っていた声は、答えなかった。自分の鼓動だけが、ひどく速く聞こえていた。
左腕が重い。右脚に力が入らない。息を吸うと脇腹が痛んだ。視界いっぱいに、地面が迫ってくる。
とっさに出した右手が、砂へ沈んだ。
動いた。
自分で、手を出せた。
そのことに安堵した瞬間、肘が崩れた。肩から地面へ落ち、肺の空気が押し出される。
「マシュウ!」
ネラの声だった。
身体を起こしたかった。もう大丈夫だと伝えたかった。けれど、口から出たのは、小さな呻きだけだった。
誰かがそばへ膝をついた。
「動かなくていい。私を見ろ。わかるか」
ダリウスの顔が見えた。
頷こうとして、できなかった。先生の肩越しに、炎の消えた空が広がっている。
殺していない。
あいつは、まだ生きている。
それだけを確かめたくて目を動かしたが、見える範囲が少しずつ狭くなった。先生の声も、走ってくる足音も、遠ざかっていく。
右手首に、何かが触れた。
「ここにいるよ」
ネラだった。
指を動かそうとした。触れているその手を、握り返したかった。
できたかどうか、わからなかった。
*
ネラは、伸ばした手を離せなかった。
さっきまで鱗に覆われていた手首が、元に戻っている。砂に汚れた布も残っていた。自分が結んだところへ指を添えると、その下で脈が触れた。
もう炎はない。
そうわかっていても、初めに触れるとき、指が一度止まった。そのことが、胸に刺さっていた。
「息はしている。手を離してくれ。運ぶ」
救護の教員に言われ、ネラは指を開いた。
マシュウが担架へ移される。力の抜けた腕が落ちかけ、慌てて支えた。こんなに重い腕だっただろうか。足の動かし方を教えてくれたときは、軽々と動いていたのに。
「こっちは意識がない! 先に通せ!」
別の声に振り向くと、ヴァレクの周りへも教員が集まっていた。
運び上げられた姿を、ネラは最後まで見られなかった。あんなに憎かった相手なのに、喉が詰まってしまった。
ロルフがそばへ来た。何か言おうとしてマシュウの顔を見下ろし、唇を強く噛んだ。
「担架が通る。道を空けてくれ!」
客席へ向けた声は、少し掠れていた。
人が左右へ退いた。ネラは担架についていこうとしたが、ダリウスの声に足を止めた。
「なぜ、もっと早く止めなかった」
Sクラスの生徒が、先生を見ていた。
「ヴァレクが動けなくなった時点で、終わっていた。マシュウが倒れていたときもだ」
ダリウスの拳が震えていた。あんな顔をしている先生を、ネラは見たことがなかった。
相手は、焼けた地面へ一度目を落とした。
「そうだね。終わらせるのが遅かった...ただ、いいものが見れた。」
「いいものが見れただとっ!!」
「先生。今は、その二人を頼む」
ダリウスは一歩踏み出しかけ、担架へ視線を戻した。
「あとで話を聞く」
低く言い残し、こちらへ走ってきた。
ネラはマシュウの横顔を見た。目は閉じられたままで、誰の言葉にも反応しない。
その背後で、審判の声が上がった。
「ヴァレク・グランヴェル、戦闘不能。第二準決勝の勝者は、マシュウ・ファルニール!」
歓声はなかった。
勝ったのだと、ネラは思った。
勝って、戻ってきた。
そう言えるはずだったのに、担架の上の友達へ、かける言葉が見つからなかった。
*
医務室の扉が閉まると、廊下が急に静かになった。
ネラは壁へ背をつけた。まだ掌が熱い気がする。何度擦っても、焦げた臭いが鼻の奥から離れなかった。
「ネラ」
エリオが駆けてきた。
「運ばれてきたって……マシュウ、どうしたの」
答えようとして、声が出なかった。エリオの目が、ネラの汚れた手へ落ちる。
「ひどいの?」
ネラは頷きかけ、首を振った。どこまでひどいのか、自分にもわからない。
「先生が、診てる。まだ、何も」
エリオが扉を見た。
「フェリクスも、まだ起きないんだ」
小さな声だった。
二人で黙った。扉の向こうでは、人が動く音がしていた。水を運ぶ足音。短い指示。マシュウの声だけが聞こえなかった。
「手、痛くなるよ」
エリオに言われ、ネラは掌を見た。いつの間にか、指の付け根が赤くなるほど擦っていた。膝へ戻そうとした手に、布を渡される。
「ありがとう」
拭くところは、もうなかった。それでも返せず、両手で握っていた。エリオも受け取ろうとはせず、隣で同じ扉を見ていた。
どれほど待っただろう。
ロルフが戻ってきた。手には、折り目のついた紙があった。
「決勝は行わないことになった」
ネラが顔を上げた。
「医務室から、マシュウの出場は認められないと連絡が行った。レティシアの不戦勝だ」
紙を開く音が、妙にはっきり聞こえた。
優勝者、レティシア・ヴェルナー。その下に、Sクラスへの挑戦権を得たことが記されていた。
ロルフは読み終えると、紙を折り直した。
「マシュウが起きたら、僕からも伝える。準決勝は、彼の勝ちで記録された」
エリオが頷いた。ネラは扉を見つめたまま、膝の上で両手を握った。
遠くで鐘が鳴った。
昇星戦が終わったのだ。
勝ったよと笑うマシュウも、結果の書かれた紙を覗き込むフェリクスも、ここにはいなかった。
しばらくして、廊下の向こうからレティシアが来た。胸に留められた優勝の徽章へ、エリオが一度目を向けた。
「……おめでとう」
「ありがとう」
レティシアは短く答え、閉まった扉を見た。
「まだ?」
ロルフが頷いた。
それ以上、誰も話さなかった。レティシアも立ち去らず、少し離れた壁際で待ち始めた。
扉が開いた。
ネラは弾かれたように立ち上がった。出てきたダリウスが、集まった顔を見渡す。
「マシュウは眠っている。呼吸は落ち着いた。今夜も、こちらで様子を見る」
膝から力が抜けた。エリオが慌てて腕を支えてくれた。
「ヴァレクは……」
ロルフが尋ねた。
「治療が続いている。今は、それ以上は言えない」
ロルフは口を閉じた。折り畳んだ結果の紙が、その手の中で歪んだ。
「会っても、いい?」
「少しだけだ。起こさないように」
寝台の上で、マシュウが眠っていた。
短い髪。鱗のない頬。包帯を巻かれた腕を、身体の横へ置いている。胸がゆっくり上下するのを見て、ネラはようやく息を吐いた。
そばへ寄り、右手へ指を伸ばした。
今度は、途中で止めなかった。
「明日、ちゃんと話してよ」
返事はなかった。
ネラはその手を、両手で包んだ。




