第37話 炎龍の爪
剣先の震えが止まった。
「調子に、乗るなよ……!」
ヴァレクが地面を蹴った。退いていた足が踏み込まれ、長剣が頭上へ跳ね上がる。
「重刃!」
避けろ。
マシュウは咄嗟にそう思った。あの重さは知っている。まともに受ければ、腕ごと潰される。
だが、身体は右手を上げただけだった。
刃が掌へ落ちた。
衝撃が肩まで突き抜け、足元が陥没する。マシュウは腕が折れると思った。ところが、五本の指は刀身を掴んだまま、びくともしなかった。
ヴァレクの顔が、すぐそこにある。
「離せ……!」
剣が軋んだ。柄を握る両手へ、ヴァレクが体重をかける。マシュウの右手は、その力ごとゆっくり押し返した。
左拳が腹へ叩き込まれた。
胴当ての割れる音がした。拳に伝わった感触に、マシュウの意識が竦む。自分なら、こんな深くまで打ち抜かない。
遅れて、左腕に痛みが走った。小指の感覚が薄い。拳を緩めて確かめたかったが、腕はもう引き戻されていた。骨も筋肉も、自分のものだ。その痛みだけを、マシュウは逃げ場もなく受け取った。
「が、はっ……」
ヴァレクが折れ曲がった。剣を手放し、腹を押さえて後ずさる。その肩越しに、黒い巨体が起き上がった。
「グラウム! こいつを――!」
黒い腕が伸びてきた。
焼けた三筋の傷から火の粉を散らしながら、大きな手が視界を塞ぐ。マシュウの身体は、掴んでいた剣を脇へ放った。砂へ突き刺さった刀身が赤く光る。
「そっちから来るか」
喉が鳴った。
笑ったのだと気づくより早く、右腕が振り上がる。炎の爪が黒い指を弾き、グラウムの胸へ食い込んだ。
巨体がのけぞる。
その正面で、マシュウの身体が息を吸った。
胸が膨らんだ。喉の奥へ、焼けた鉄を流し込まれるような熱さが走る。吐き出したい。堪えきれない。だが身体は、まだ吸い続けていた。
「焔龍咆」
口から炎が迸った。
グラウムの胸が見えなくなった。炎はその向こうまで突き抜け、巻き込んだ砂を白く輝かせる。耳を塞ぎたいほどの轟きの中で、二つの白い目が揺れた。
黒い腕が炎を押し返そうとする。
届かない。
指先が形を失い、長い腕が崩れた。巨体が片膝をつく。その頭まで炎に呑まれたとき、マシュウの喉から、さらに熱い息が噴き出した。
もう十分だ。
そう思うのに、口は閉じなかった。
黒い輪郭が消えた。炎の向こうにあったはずの二つの目も、もう見えない。噴き出す熱がようやく途切れると、焼けた地面に溝だけが残っていた。
喉がひりついた。
舌を動かせるか、試そうとした。唇は勝手に開き、熱い息を一つ吐いた。
「……グラウム?」
ヴァレクが、何もいない場所へ手を伸ばしていた。
「出てこい。おい、グラウム!」
声が裏返った。伸ばした指を握り込み、もう一度呼ぶ。焼けた地面から、細い煙が上がるだけだった。
精霊が、消えた。
百年前、精霊を召喚する相手に一度だけ挑み、敗れた。今日も、ついさっきまで砂へ押しつけられていた。それほど手が届かなかった力を、この身体は押し切ってしまった。
客席から、誰かが小さく拍手した。二つ、乾いた音がして止まる。誰も続かなかった。ロルフは柵を握り込んだまま、マシュウの右手へ目を落とした。そこには、まだ爪の形をした炎が残っていた。
ヴァレクがこちらを見た。
肩が跳ねた。腹を押さえたまま、後ろへ足を引く。靴が焼けた土を擦り、短い音を立てた。
マシュウは、その音に胸が熱くなるのを感じた。
お前でも、そんな顔をするのか。
フェリクスを見下ろしていた顔。苦しむ自分を覗き込み、笑っていた顔。その目が今、自分を恐れている。
一瞬、もっと怖がればいいと思った。
思ってしまった。
「まだ逃げんなよ」
自分の口が、嬉しそうに言った。
*
ヴァレクが走った。
マシュウの右手が、その背へ向いた。追いかけようと足に力を入れたわけでもないのに、地面の炎が先に動いた。
「焔龍獄」
炎がヴァレクを追い越した。
目の前へ回り込んだそれが、長い龍の形になって頭を持ち上げる。ヴァレクが足を止めた。横へ逃げようとした膝に、燃える胴が巻きついた。
「あ、熱っ……!」
悲鳴が上がった。
炎の龍が、足から腰へ這い上がる。ヴァレクは両腕で払い落とそうとした。指が触れた瞬間、さらに高い声が喉を突いた。
袖が燃えた。
ヴァレクが腕を振り回し、転んだ。顔から地面へ倒れる直前、炎が胴を締め上げる。膝だけが土を打ち、上半身が宙へ吊られた。
「ぐ、うあああっ!」
制服の裾から炎が噴いた。裂けた膝の布の下で、肌が赤く焼けている。襟元へも火が移り、ヴァレクは顎を反らして叫んだ。
焦げる臭いがした。
布だけではなかった。
マシュウは顔を背けようとした。視線は、苦しむ少年へ据えられたままだった。
「いい声が出るじゃねえか」
笑いが漏れた。
「もっといけるか? てめえの身体で試してみろよ」
右手の指が曲がる。
炎の胴が太くなった。ヴァレクの背が弓なりに反り、悲鳴が途切れた。開いた口から、掠れた息だけが漏れる。
やめろ。
マシュウは叫ぼうとした。
もう倒した。あいつは、何もできない。
「そこまでだ! マシュウ、攻撃をやめろ!」
ダリウスが走ってきた。顔を腕で庇い、焼けた地面へ足を踏み入れる。
炎の龍が尾を振った。
地面を這った火が、ダリウスの前で壁になった。急に照りつけた明るさに、先生が足を止める。傍らから水が飛んだ。別の教師が杖を突き出していた。
白い蒸気が膨れ上がった。
炎は消えなかった。ダリウスが大きく回り込もうと動く。その先へも尾が伸び、赤い壁が行く手を塞いだ。
『邪魔させるなよ。今、教えてるところだ』
頭の奥で、あの声が笑った。
もういい。身体を返せ。
マシュウは右手を開こうとした。指の一本でも動けば、この炎を止められるかもしれない。そう思って力を込めた。身体はその願いを嘲るように指を曲げ、爪を掌へ食い込ませた。
『何だ。てめえが欲しがった力だろうが』
こんなことを頼んだんじゃない。言い返そうとして、ヴァレクの泣き声に思考が途切れた。痛い、と繰り返している。その声を聞くたび、口角が持ち上がる。自分の顔がどんな形をしているか、見えなくてもわかった。
ヴァレクの首が垂れた。
その顔が見えなくなると、右手が少し緩んだ。炎の胴が細まり、ヴァレクの身体が落ちる。両手をつこうとしたが、肘が崩れて頬を土へ打ちつけた。
生きている。肩が動いた。
ほっとした自分に、マシュウは戸惑った。ついさっき、こいつを殺してやると口にした。今も許せない。フェリクスへしたことを、なかったことにはできない。
それでも、地面で喘ぐこの相手へ、もう一度火を放ちたくはなかった。
「や、め……」
ヴァレクが顔を上げた。
頬まで焼けていた。腕も首も、破れた制服の下の胸も、ひどく爛れている。逃げようと足を引くたび、声にならない息が漏れた。
「僕は……グラン、ヴェルの……」
「知らねえよ」
即座に返った声に、ヴァレクの口が閉じた。
土に置いた手が震えた。指を曲げようとして、途中でやめる。目だけが、マシュウと、その背後を行き来していた。
「せん、せ……」
助けを求める声だった。
マシュウの身体が、その視線を遮るようにしゃがんだ。
「どこ見てやがる。俺はこっちだ」
右手がヴァレクの顎へ伸びた。薄い鱗の浮いた指を見た途端、少年が必死に顔を引いた。小さな呻きが漏れ、土へ押しつけた腕が震える。
その反応を見て、マシュウの身体は手を引いた。
触れもせず、笑った。
「ははっ。もう怖えのか」
「マシュウ、やめて!」
ネラだった。
名前を呼ばれ、身体が顔を向けた。炎の壁の向こうで、ネラがこちらへ手を伸ばしている。ロルフがその腕を掴み、首を横に振っていた。
「もうやめてよ! 聞こえてるんでしょ!」
聞こえている。
さっきまで、自分を助けてくれと叫んでいた声が、今は自分を止めている。
ネラの目から涙が落ちた。マシュウは名前を呼ぼうとした。口を開けたい。たった一言でいい。違う、俺は、と言いかけて、胸の奥が詰まった。
身体を渡したのは、自分だった。
その口が、また笑おうとしていた。
「わかった、わかった」
声の主が言った。
「終わらせりゃいいんだろ」
ヴァレクへ視線が戻った。
右手が上がった。
足元の炎が吸い寄せられた。ヴァレクを囲んでいた龍がほどけ、頭上へ昇る。炎が重なり、太い顎と、幾重もの牙を形作っていく。
駄目だ。
マシュウは、動かない腕を引こうとした。
あんなものを落とせば、こいつは死ぬ。
「焔龍滅葬」
自分の声が、聞いたことのない名を告げた。
ヴァレクが顔を上げた。開いた炎の顎を見つめ、その口が音もなく動く。
マシュウは叫んだ。
やめろ。俺の身体で、そいつを殺すな。
誰にも聞こえない叫びの上で、右手が振り下ろされようとしていた。




