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第36話 焔龍顕現

『力が欲しいんだろう』


 知らない声だった。


 胸は潰され、息もできない。その苦しさは消えていないのに、声だけが頭の奥へはっきり届く。


 誰だ。


『名乗ってる暇はねえ。俺に身体を貸せ。力の使い方を教えてやる』


 マシュウは砂を掴もうとした。指は動かなかった。すぐ前にヴァレクの靴がある。あいつは立ち上がったらしい。遠くで誰かが怒鳴っていた。


 身体を、貸す?


『ただし、覚えとけ。今のその身体で、この力を十回使えば死ぬ』


 死ぬ。


 その一言だけが、冷たく残った。


『一度使えば、それだけ終わりに近づく。それでも欲しいか』


 見えない相手だった。信じていい理由など一つもない。


 それなのに、欲しいと思った自分がいた。


 右手首に巻かれた布が見えた。帰ると約束した。ネラはまだ呼んでいるだろうか。フェリクスが目を覚ましたとき、自分がいないのは嫌だった。エリオに、また心配そうな顔をさせるのも嫌だ。


 死にたくない。


 砂へ押しつけられた胸の中で、その思いが痛いほど膨らんだ。


 ヴァレクの靴が動いた。笑い声が降ってくる。


 こいつを殴りたい。


 フェリクスの顔を思い出した。呻きながら地面を掻いていた手を。止めろと叫んでも終わらなかった試合を。あのときも、こいつは笑っていた。


 命を削ると聞いてなお、その笑いを止めたかった。


 貸す。


 動かない指へ力を込めた。


 だから、あいつを倒してくれ。


 そう返してから、もう一つだけ念じた。


 俺の仲間には、手を出すな。


『ああ?』


 声の調子が変わった。マシュウは答えを待った。そこだけは、曖昧にしたまま渡せなかった。あいつらを傷つけるために、欲しがった力じゃない。


『そいつらに用はねえよ。目を閉じるな。よく見て覚えろ』


 わかった。マシュウはそう返した。


『よし。――ドラコニス。そう唱えろ』


 唇が砂から離れた。


 喉の奥へ、熱いものが込み上げる。残っている息を掻き集め、マシュウは教えられた言葉を押し出した。


「焔龍顕現《ドラコニス》」


 胸の奥で、何かが開いた。


     *


 熱い。


 腹から胸へ、胸から両肩へ。骨の内側を炎が駆け上がり、マシュウは声にならない悲鳴を上げた。


 皮膚が焼ける。そう思うほど熱いのに、炎はさらに深いところから溢れてくる。止められない。歯を食いしばろうとした顎さえ、言うことを聞かなかった。


「マシュウ!」


 ダリウスの手が伸びてきた。


 その指先が肩へ届く前に、炎が噴き上がった。


 砂が吹き飛んだ。ヴァレクの姿が炎の向こうへ消える。ダリウスが審判の襟を掴んで跳び退き、二人の靴が地面を削った。


 息が入った。


 咳と一緒に砂を吐く。喉が痛い。肋骨の辺りも、傷めた左腕も、まだ痛んでいる。それでも、地面についた右手が身体を持ち上げた。


 立てる。


 そう思ったときには、もう膝が地面を離れていた。


 指の付け根に、薄い鱗が浮き出ていた。手の甲から腕へ、袖の下へと広がっていく。その隙間で赤い光が脈打つたび、胸の奥から力が押し寄せた。


 顔の横で髪が揺れた。


 燃えている。


 慌てて払おうとした。だが、手は上がらなかった。視界の端を流れる髪は、先から炎へ変わり、肩を越えて伸びていく。背を伝い、腰まで届いたそれが、熱い風に大きくなびいた。


 髪そのものが、炎になっていた。


 汗が顎から落ち、胸へ届く前に蒸発した。なのに、頬へ触れる炎は熱いだけで、肉を焼かなかった。左腕の傷は疼く。そのすぐそばで、見たこともない量の魔力が渦を巻いている。


 こんなものが、身体の中を通っているのか。


 自分の皮膚が内側から裂けてしまいそうで、マシュウは動かない指を握ろうとした。


「うそ……」


 ネラの声が聞こえた。


 そちらを見たいと思うより先に、顔が向いた。教師の腕越しに、ネラがこちらを見ている。目を大きく開き、口元を両手で覆っていた。


 マシュウの瞳孔が、龍のように細く縦へ裂けた。


 ネラが半歩、後ずさった。


 その足を見て、胸が軋んだ。


 俺だ。大丈夫だ。そう言いたかった。


「はっ。やっと動けるじゃねえか」


 自分の口から、知らない声の言葉が出た。


 低く、楽しげだった。マシュウは息を呑もうとした。胸はゆっくり上下するだけで、喉からは笑いが漏れ続けていた。


「精霊が……身体に?」


 ロルフが柵に手をかけていた。食い入るように見つめたまま、首を横に振る。


「そんな。契約だけでも、あれほど……」


 続きを言えず、唇を噛んだ。


 ダリウスが何か言いかけ、口を閉じた。炎を見上げた顔から、さっきまでの怒りが抜けていた。目が、マシュウの腕と顔を行き来する。


「霊融《アニマ》……なのか」


 傍らの教師が振り向いた。


「あれは、Sクラスの――」


「わかっている!」


 ダリウスの声が裏返った。教師が肩を強張らせる。ダリウス自身も一度唇を引き結び、それから客席へ腕を振った。


「生徒を下げろ! 柵から離れさせるんだ!」


 Sクラス。その言葉が客席へ広がった。


「あいつ、Eだろ……?」


 誰も答えなかった。椅子を倒して立ち上がる音がした。顔を庇って奥へ逃げる生徒に押され、柵の前にいた者たちがよろめく。ネラは踏み留まったが、こちらを呼ぼうと開いた口から声が出ていなかった。


 炎が揺れるたび、熱気が頬を撫でた。


 ヴァレクが数歩先にいた。剣を握った腕を前へ出し、目を見開いている。


「君、何をした……?」


 マシュウの右手が持ち上がった。ゆっくり握り、開く。爪の先まで感覚はある。なのに、動かしているのは自分ではない。


 貸した。


 そう言ったのは自分だ。


 それでも、自分の足が勝手に地面を踏んだ瞬間、背中が冷えた。痛む右腿を庇いもせず、身体はまっすぐヴァレクへ向かっていた。


「答えろ! 何を使ったんだ!」


「よく喋るな、てめえ」


 身体が顎を傾け、首を鳴らした。


「さっきまで、随分と楽しそうだったじゃねえか」


 ヴァレクの喉が動いた。半歩下がりかけた足が止まる。後ろに立つグラウムへ視線を走らせ、剣先をこちらへ突きつけた。


「グラウム、押さえろ!」


 黒い腕が上がった。


 来る。


 マシュウは身構えようとした。身体は動かなかった。開いた両手をだらりと垂らしたまま、グラウムを見上げている。


 肩に重さが落ちた。


 足元の砂が弾け、地面に二つの足跡が深く沈む。さっきまでなら膝をついていた。思い出しただけで、胸が息を拒んだ。


 だが、膝は曲がらなかった。


「……それで終わりか?」


 身体が、一歩進んだ。


 グラウムの白い目が近づく。踏み出すたび、靴の下で硬い地面が砕けた。炎の髪が一瞬押し伏せられ、それを振り払うように高く翻った。


「もっとだ! 潰せ!」


 ヴァレクが叫んだ。


 黒い巨体の両腕が振り下ろされた。空気が詰まり、耳の奥が痛んだ。視界が揺れるほどの重さの中で、マシュウの口が歪んだ。


「邪魔だ」


 右腕が横へ払われた。


「焔龍爪《ウングイス》」


 指の先から、巨大な炎の爪が伸びた。


 マシュウは意識の奥で身をすくめた。自分の身体どころか、グラウムの肩まで覆っている。落ちてくる黒い腕とぶつかった途端、目の前が白く染まった。


 轟音が腹の底を揺さぶった。


 肩から重さが抜ける。炎の爪が黒い腕を跳ね上げ、そのまま巨体を薙ぎ払った。グラウムが傾く。片足が浮き、背後の地面へ叩きつけられた。


 砂煙の中を、炎が走った。


 地面に三本の溝が刻まれた。砂の下から露わになった土が赤く焼け、その縁で小石が弾ける。


 客席から悲鳴が上がった。


「伏せろ!」


 ダリウスの怒号に、何人もの頭が柵の下へ消えた。熱風が抜けても、すぐには顔を上げない。ネラだけが教師の袖を掴み、その背からこちらを見ていた。目が合った気がして、マシュウは胸の中で名前を呼んだ。


 さっきまで火炎矢を一方的に潰していた腕に、赤い傷が三筋、焼きついている。巨体が起き上がろうとするたび、その隙間から火の粉が噴いた。


「グラウム……?」


 ヴァレクが振り返った。


 掠れた呼び声に、返事はなかった。ヴァレクの顔が歪み、剣を握る手が小刻みに震えた。


 マシュウは目を離せなかった。押し潰されて、這い上がることさえできなかった自分の身体が、今、あの精霊を一振りで殴り飛ばした。


 これが、俺の中にあったのか。


 喜びより先に、ぞっとした。右拳を下ろしたい。いったん息をつきたい。そう思っても、足は止まらない。


「あそこに、Sクラスが……!」


 客席の声に、身体が顔を上げた。


 上段の席に、生徒が一人、腰を下ろしていた。周りの者が逃げ出しても、頬杖をついたまま動かない。こちらの炎を見つめるその口元が、にやりと吊り上がった。


 マシュウの口からも、短い笑いが漏れた。


「あとだ。今は、こっちが先だろ」


 視線がヴァレクへ戻った。


 剣先が揺れていた。あれほど楽しげにこちらを覗き込んでいた少年が、焼けた地面を踏み、一歩退く。


 その一歩を追って、マシュウの身体が進んだ。


「おい。笑えよ」


 右手に、新しい炎が灯った。


「まだ、始めたばかりだぜ」

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