第35話 やっと繋がった
「ヴァレクが……精霊に選ばれていたのか」
ロルフの声が聞こえた。マシュウの視界の端で、少年が席から立ち上がっていた。口が開いたまま閉じない。柵を掴む手に力が入り、その顔からみるみる血の気が引いていく。
その目が、グラウムとマシュウの間を行き来した。つい先ほど精霊の力に敗れたロルフが、喉を鳴らして息を吸う。
「マシュウ、下がれ! そいつと正面からやり合うな!」
ヴァレクは客席へ顔を向けた。その頬が緩んでいくのを見て、マシュウは奥歯を噛んだ。こいつは、皆が怯えるところまで楽しんでいる。
客席がざわめいた。隣の者へ問いかける声に返事がない。黒鉄色の巨体を指した腕が下がり、前列にいた生徒が椅子に脚をぶつけながら後ずさった。
「あいつが、選ばれた……?」
ネラの声は掠れていた。
「何が不思議なの?」
ヴァレクが首を傾けた。
「この僕が選ばれたんだ。君たちは、そこで見ていればいい」
前列の生徒が口を覆った。フェリクスが倒れた場所へ目を向け、立っていられなくなったように椅子へ腰を落とす。
マシュウが一瞬目を向けると、ネラは柵に身を寄せていた。首を小さく横に振っている。握った杖が震え、その目が精霊からマシュウへ移った途端、唇が歪んだ。
「マシュウ……!」
名前を呼ばれて、ようやく目を戻せた。
ヴァレクが腹を押さえていた。笑おうとして顔をしかめ、目が合うと、こちらへ剣先を向ける。俺の拳は、確かに効いていた。唇の血も、焦げた胴当ても、そのままだ。あの精霊さえいなければ。
黒鉄の腕が、頭上にある。精霊を目にするのは初めてじゃない。百年前、一度だけ戦った。あのときは負けた。その記憶を振り払おうとしても、腹の底に冷たいものが溜まっていく。
「下がれ! 生徒を柵から離せ!」
ダリウスの怒声で、教員たちが動いた。マシュウへ向いた先生の顔は強張っていた。救護員へ手を振り、こちらへ何か叫ぼうとしている。
その声より先に、重さが落ちた。
「ぐっ……!」
膝が曲がった。踏ん張る右腿が引き攣り、足の裏が砂に埋まっていく。黒枷のときより広い。どこまで出ればいいのか、地面を見てもわからない。
それでも、ここにいたら潰される。マシュウは右手を突き出した。
「火炎矢!」
ヴァレクへ向かった炎が、途中で下へ折れた。砂にぶつかって散る。もう一発、今度は高く撃つ。それも届かず、同じように地面へ叩き落とされた。
ヴァレクは避けもしなかった。
「それで終わり?」
腹に巻きついたような重さを押し返し、マシュウは横へ動いた。足を引きずるたび、肩が沈む。汗が目へ入り、拭うために腕を上げることさえできない。
グラウムの白い目が、こちらを追っていた。その長い指が下を向く。
左膝が落ちた。
「っ、あ……!」
痛みが腿から腰へ突き抜けた。右手を地面につかなければ、顔から倒れていた。掌の下で砂が軋む。その手も、もう持ち上がらない。
客席のざわめきが途切れた。さっきまで名前を呼んでくれていた声が、聞こえない。
「……止めろ」
ロルフの声だった。
「審判、止めろ! 立てていないだろう!」
マシュウは歯を食いしばった。まだだ、と言いたかった。けれど口から出たのは、短く潰れた息だけだった。
ヴァレクの靴が目の前で止まった。
「さっきは、よく殴ってくれたね」
切れた唇がゆっくり開く。赤く汚れた歯を見せ、ヴァレクは笑った。
「ほら。もう一度、やってみてよ」
急に背中が軽くなった。
息が入った。むせながらも、マシュウは右の掌で地面を押した。立てる。まだ脚に力が残っている。
ヴァレクの腹が目の前にあった。
こいつを倒す。
グラウムへ目をやる余裕はなかった。マシュウは残った力を右拳へ集め、炎を噴かせた。腿が痛もうが、もう構わない。今なら届く。
「赫牙!」
拳が落ちた。身体ごと、落とされた。
殴るはずだった右拳が砂へ突き刺さり、肩に重さがのしかかる。口へ土が入った。息を吐こうとすると、さらに顔が押しつけられた。
「あはははっ! 本当に殴ろうとした!」
すぐ上で、ヴァレクが笑っていた。
「今、立てると思ったんだ? よかったねえ。一瞬だけでも」
熱かった。拳の炎は消えていた。それなのに顔が熱い。怒りと悔しさで、目の奥が焼けるようだった。力が通じなかったことより、立ち上がるところまで許されていたことが腹立たしかった。
こいつは、俺が殴れると思うのを待っていた。
「先生! お願い、止めて!」
ネラの声が裏返った。
柵が鳴る。駆け出そうとする足音と、それを止める教員の声が重なった。
「放して! あいつ、殺す気だよ!」
「そこで待て! 私が行く!」
ダリウスの足音が近づいた。
「続行不能だ。終了を宣告しろ!」
「Sクラスからの通達では、本人の限界まで――」
「これを見て言っているのか!」
腕章を巻いた運営員がダリウスの前へ入った。
「審判の判断を待ってください!」
「どけ!」
先生がその肩を掴み、横へ押し退けた。足音がもつれ、短い悲鳴が上がった。
先生の怒鳴り声が響いた。マシュウは首を動かそうとしたが、頬が砂を擦っただけだった。
止まれと命じる声は、まだ来ない。
視界の端に、審判の靴が見えた。近づいて、止まる。その向こうで誰かが担架を構えた。こんなところまで見えるのに、自分の身体だけが動かない。
「グラウム。顔は上げさせて」
首の重さが僅かに緩んだ。マシュウは砂から口を離し、咳き込んだ。舌に土がざらつく。吐き出す息さえ足りなくて、喉がひゅうと鳴った。
ヴァレクがしゃがんだ。
「泣けば? 君の友達、すごく心配してるよ」
近くにいる。殴れるところに、あの顔がある。
マシュウは右手を動かそうとした。指の先が砂を引っ掻く。たったそれだけで、背中がさらに重くなった。
「そうそう。まだ動かしたいよね」
ヴァレクが指先を少し下げた。胸が沈んだ。
「ぐ、う……っ」
吸えない。口を開けても空気が入らない。肘を立てたい。胸を地面から離したい。そうしようとするたび、傷めた左腕に痛みが走った。
ヴァレクはその顔を覗き込み、声を立てて笑った。
「ははっ! 今の顔、あの子にも見せてやりたいな」
フェリクス。その名前が胸に浮かんだ途端、マシュウは歯を剥いた。
「お前……殺して、やる」
声は、思ったより小さかった。ヴァレクが耳へ手を添えた。聞き返すように身を屈め、マシュウがもう一度口を開こうとしたところで、指を下げる。
言葉が息ごと潰れた。笑い声だけが残った。
「やめろよ……」
客席から声がした。
「もう試合じゃないだろ! 何で止めないんだ!」
足音が増えた。先生が誰かを押し退ける声がした。ネラが名前を呼んでいる。何度も、何度も。
マシュウはその声へ顔を向けようとした。
帰ると約束した。右手首の布が砂に汚れていた。ネラが結んだところだけ、まだ形が残っている。握った拳を引こうとしても、指先に砂が溜まるばかりだった。
こんな格好を見せたいわけじゃなかった。勝って戻るつもりだった。あいつを倒して、フェリクスが起きたら伝えるつもりだった。もう近づけさせない。そう言ってやりたかった。
それなのに。遠くなっていく声の向こうに、懐かしい顔が浮かんだ。
百年前、一緒に笑った仲間たち。名前を呼べば、当たり前のように振り向いてくれた。誰も、もういない。
恋人の笑顔まで浮かんだ。会いたいと思った。その気持ちがあまりに不意で、胸が詰まった。もう一度、声を聞きたかった。大切だった人たちの名を、今でも全部覚えているのに。
どうして、俺だけがここにいる。
フェリクスは生きている。エリオがそばについている。ネラも、今、俺を呼んでいる。
今度こそ守りたいと思った。そのために強くなろうとした。拳を握って、足を動かして、使える炎を何度も試した。あいつらと過ごす明日を、今度こそ失いたくなかった。
それでも、地面から胸ひとつ持ち上げられない。
嫌だ。百年前の負けを思い出して、怖がっていた。怖くても戦えば、今度は届くと思った。ヴァレクを殴り倒せると思った。
結局、また負けるのか。あの笑い声を聞いたまま。
マシュウは右拳を握り直そうとした。自分の指なのに、遠くにあるみたいだった。動け。動いてくれ。何のために、ここまで来た。
ヴァレクが何か言った。
もう、言葉はわからなかった。ただ、まだ笑っていることだけはわかった。
許せない。フェリクスを傷つけたこいつも、ネラを泣かせているこいつも。それを止められず、砂に這いつくばっている自分も。
あの顔を殴れる力が欲しい。今、ここで立ち上がれるだけの力が。
目の前が暗くなった。息を吸おうとしたことさえ、途中でわからなくなる。呼ばれている自分の名前が、ひどく遠かった。
そのとき、声がした。耳元ではない。
誰も触れていないはずの、身体の奥から。
『やっと繋がった』




