第34話 譲れない一撃
踏み込んだマシュウの胸へ、剣先が伸びた。
速い。だが、見えた。
身体をずらし、右拳を握る。あと一歩で届くところに、ヴァレクの左手が開いた。
また引く気か。
来る、と足を出す。
胸が前へ引かれた。その勢いを使って拳を突き込もうとした瞬間、腹の前に銀色が見えた。
膝じゃない。剣だ!
腰を捻った。避けきれなかった刃の腹が、右の腿を打つ。脚から力が抜け、伸ばした拳が肩を掠めた。
「それ、いつまで通じると思った?」
耳元で囁かれた。
マシュウは肩からぶつかり、相手を押して離れた。右脚を引くと、遅れて痛みが膨れた。左腕だけでも厄介なのに。
脚を庇って立つと、ヴァレクが切れた唇を舐めた。何も言われなくてもわかった。そこも狙われる。マシュウは右足を少し後ろへ引いた。弱った場所を隠したいのに、隠そうとする動きまで見られている。
ヴァレクが剣を握り直した。焦げた胴当ての下で腹が動く。呼吸をするたび、その眉が僅かに寄っていた。
向こうだって、痛いはずだ。
もう一度、あそこへ入れば。
右手に炎を作る。ヴァレクの目が拳へ向いたところで、一歩だけ踏み込んだ。
「黒枷」
靴が沈んだ。
地面がぬかるんだのかと思った。だが違う。足を持ち上げようとしても、膝が震えるだけだった。
肩まで重い。
何だ、これ。
長剣が頭上へ持ち上がる。
避けろ。
右脚が動かない。傷めた腿の奥が引き攣り、膝が折れかけた。頭を守ろうと左腕を上げると、焼けつく痛みで顔が歪んだ。
あれを受けたら、今度こそ折れる。
「火炎矢ッ!」
突き出した右手から炎が走った。ヴァレクが顔を背ける。その僅かな間に、マシュウは後ろへ身体を倒した。
踵が砂を削る。抜けろ。頼むから、動け!
急に右足が軽くなった。
勢い余って尻餅をつく。その鼻先へ、長剣が叩きつけられた。
土が爆ぜた。
頬を砂粒が打ち、目を閉じかける。駄目だ。見失うな。
転がった身体のすぐ横を、引き抜かれた剣が薙いだ。マシュウは片膝をつき、歯を食いしばって立ち上がった。
「いいね。立つだけで、そんな顔になるんだ」
ヴァレクが笑っていた。
こちらの脚と腕へ、順に目を向ける。マシュウが右脚へ体重を戻すと、その痛みを待っていたように口端が上がった。
「もう少し転がってみてよ。どこまで逃げられるかな」
あの口を黙らせたい。
だが、足を出しかけて止めた。黒ずんだ砂が目に入った。さっき靴が動かなくなった場所だ。その縁に、自分の踵が削った跡が残っている。
そこを越えたときだけ、脚が軽くなった。
ヴァレクの左手が下がった。
マシュウは横へ跳んだ。着地した右腿が悲鳴を上げる。つい今まで立っていた場所で、砂が平たく潰れた。
追ってきた。
止まったら捕まる。
火炎矢を撃った。ヴァレクは顔を引き、剣で炎の端を払った。焦げた前髪が揺れる。その足がこちらへ踏み出したとき、マシュウも前へ出た。
逃げ回るために、ここへ来たんじゃない。
右拳を顔へ伸ばす。剣が上がった。
腹が空く。
そこへ左を――。
拳が途中で鈍った。
痛みだった。肘から先が言うことを聞かない。無理に振り抜いた拳は、胴当てを浅く叩くだけで終わった。
ヴァレクの目が細くなる。
「駄目になってきたね」
剣の柄が落ちてきた。マシュウは頭を引いたが、肩を打たれてよろめいた。顔の高さへ戻った剣先が、ぴたりとこちらを捉える。
近づいたのに。
殴れるところまで来たのに、腕が動かない。
「次は、そっちを折ってあげようか」
右腕へ視線が落ちた。
マシュウは後退しながら、左の指を握り直した。痛む。握るだけでも、痛む。もう、この手にさっきと同じことはさせられない。
口へ流れた血を吐いた。
息が足りない。吐くたびに腹が疼き、吸うたびに脇腹が引っ張られる。ヴァレクの向こうに見える白線が、さっきより近くなっていた。
このまま下がれば、終わる。
ネラは、まだ柵のそばにいるだろうか。
振り向きたかった。大丈夫だと言ってやりたかった。
そんな顔をしている暇があったら、勝って戻れ。
マシュウは右拳を頬の横へ上げた。
傷めた左腕は胸へ寄せる。ヴァレクが笑みを深くした。
「いい子だ。そこから動かないで」
左手が地面へ向く。
マシュウは斜め前へ踏み出した。右脚に走る痛みを噛み殺し、火炎矢を放つ。顔へ迫る炎の向こうで、ヴァレクの剣が上がった。
さっきと同じだと思え。
右拳を出しかけ、止めた。
長剣がその拳を追って動く。マシュウは身を沈めた。傷めた左腕を胸へ抱えたまま、肩ごと相手の胸へ飛び込む。
硬い胴当てがぶつかった。
「ぐっ……!」
ヴァレクの息が耳元で詰まった。焼けた革の匂いがする。あの拳を入れた場所だ。
離れたくなるほど、こっちの腹も痛かった。
それでも、押す。
ヴァレクの左手が、マシュウの襟を掴んだ。
掴んでいろ。
その手を開かせなければいい。
右拳を短く腹へ打ち込んだ。
一発。まだ立っている。もう一発。
剣を持つ肘が頬へぶつかった。目の前がちらつく。堪えろ。ここで離れたら、また剣の先まで戻される。
マシュウは額を相手の肩へ押しつけた。
自分の荒い息に、ヴァレクの呼吸が混じっていた。さっきまでの笑う余裕は聞こえない。襟を握る指が、首元で強く食い込んだ。
「離れろ……!」
長剣を持つ腕が引かれた。
斬りつけるつもりだ。こんな近くからでも。
マシュウは身体をずらした。剣が背中のすぐ外を通る。襟を掴まれたまま身を捻ると、ヴァレクの胸がこちらへ向いた。
顔が見えた。
今だ。
右の踵を捻る。腿に鋭い痛みが走った。それごと押し上げるように、燃える拳を下から突き上げた。
「天穿ッ!」
顎へ拳が届いた。
火が弾けた。ヴァレクの顔が跳ね上がり、襟を掴んでいた指が外れた。
マシュウもよろけた。傷めた脚が震える。だが、目は離さなかった。
相手の膝が地面につくところを、確かに見た。
倒れた。
歓声が爆発した。
柵の向こうでネラが叫んだ。何と言ったのかは聞き取れない。それでも、声が違った。さっきの、やめろと叫ぶ声とは違う。マシュウの胸に熱いものが込み上げた。見えただろ。こいつは、倒せるんだ。
ヴァレクは剣を地面へ突き、立ち上がろうとしていた。開いた口から血が垂れる。顎を動かし、何か言おうとするが、声にならない。
まだ続けるのか。
なら、今度こそ。
マシュウは足を出した。
「圧壊!」
ヴァレクの左手が砂へ叩きつけられた。
足元が落ちた。
地面ごと、下へ引きずられる。
マシュウは咄嗟に身体を投げ出した。背後で土が軋み、さっきまで靴を置いていた場所が陥没する。着地した左肩から痛みが走った。
深い。
あのまま踏み込んでいたら。
喉が鳴った。立たなければ。恐ろしさに地面を見つめてしまった目を、無理にヴァレクへ戻す。
相手も立っていた。
剣を支えに、顔を伏せている。肩が激しく上下していた。
「Eクラスの……平民が」
声が震えていた。
マシュウは拳を構えた。右腿が熱い。左腕を上げるたびに、肩まで痛む。あと何度、踏み込める。
それでも、膝をつかせた。
もう少しだ。もう少しで、こいつを倒せる。
「僕に、こんな……」
ヴァレクが唇から垂れた血を拭った。赤く汚れた指が震え、それを握り潰すように拳が閉じた。
顔が上がる。
「お前には、許さない」
マシュウは返事をせず、砂を蹴った。
言わせておけ。あの剣が上がりきる前に、入る。
ヴァレクの足元へ、黒い線が走った。
黒枷か。
マシュウは横へ切り返した。だが、線は追ってこなかった。ヴァレクを囲み、幾つもの輪を描いて繋がっていく。
召喚か。
つい先ほど、レティシアの足元に見たものが脳裏に浮かんだ。
だが、背筋を冷やしたのは、それより古い記憶だった。
「来い、グラウム」
輪の中央に、黒い影が立ち上がった。
人の倍ほどもある。長い腕。黒鉄色の身体。その足が地面へ触れるより先に、真下の砂が窪んだ。
顔にあたる場所で、白い二つの光が開いた。
「精霊……!」
誰かの叫びが聞こえた。
マシュウの足も止まっていた。
こいつも、選ばれたのか。
百年前、精霊を召喚する相手と一度だけ戦ったことがある。
そして、負けた。
あの敗北を、忘れたことはない。目の前の黒い影を見据え、マシュウは右拳を握り直した。今の俺なら、どうだ。あのときと同じ結末で終わってたまるか。
そう思うのに、足がすぐには出なかった。
ヴァレクには膝をつかせた。あと少しだった。だが、精霊を呼ばれたこの先まで、同じように戦えるとは思えなかった。
汗に濡れた背中が粟立ち、握った右拳の炎が、下へ押し潰されるように歪んだ。
ヴァレクが笑った。
切れた唇を開き、今度は歯を見せて。
「さっき、何て言ったっけ。もう一度、笑え?」
脚に重さが落ちてきた。
マシュウは歯を食いしばった。
まだ殴れる。右手は動く。ここで膝をつくな。
眼前で、黒鉄色の腕がゆっくり持ち上がった。




