第33話 長剣と拳
「あの子、目は覚ました?」
ヴァレクは剣を肩へ載せ、首を傾けた。
マシュウは答えず、決められた位置で足を止める。白線の内側には、均されたばかりの湿った土が広がっていた。
「起きたら伝えてよ。また遊ぼうって」
その口を殴り潰したいと思った。
フェリクスはまだ寝台にいる。呼びかけても返事がなく、借りた地図帳の礼さえ、改めて言えていない。それなのに、この男は次も同じことをするつもりで笑っている。
「二度と近づけさせるか」
「君が決めることじゃないだろう?」
ヴァレクが剣を下ろした。
マシュウは左手を開いた。指を握り込みすぎていた。巻かれた布の感触を確かめ、息を吐いて拳を戻す。
相手の顔だけを見ていてはいけない。剣を持つ手と、前へ出した足も見る。
審判の向こうで、ダリウスが救護係を呼び寄せていた。その顔にも、笑みはなかった。
「第二準決勝。始め!」
「虚歩」
ヴァレクの靴が、音もなく土を離れた。
遠いと思った剣が、もう左腕へ来ている。マシュウは肘を引き、右へ身体を逃がした。剣の先が布を掠め、ほどけた糸が舞う。
すぐに逆向きの剣が来た。
マシュウは腰を落とした。頭の上を剣が通る間に一歩入る。だが、拳を出すより早く、柄頭が額へ向けられた。
顔をずらす。硬い角が眉の上を擦った。
痛みに目を細めながら退くと、剣先が喉へ伸びてきた。横へ跳び、ようやく間合いを外す。
「避けるんだ。そこは受けてくれなきゃ」
ヴァレクの視線が左腕へ落ちる。
マシュウは眉を拭った。指に少し血がついた。顔を上げる間にも、相手は距離を詰めてくる。
長い剣なのに、振ったあとの隙が短い。身体が軽く動き、刃だけがすぐに戻る。フェリクスの前で見せていた歩幅を基準にすれば、入り際に打たれる。
「火炎矢!」
左手から炎を飛ばした。
ヴァレクが首を傾けてかわす。その足元へ二本目を撃つと、軽い跳躍で横へ逃げた。
マシュウは着地を追った。踏み出す足を外へ置き、正面からの剣を肩の横へ通す。その内側へ右拳を出した。
ヴァレクは剣を引き、鍔で拳を受けた。
指の付け根に痛みが走る。
マシュウは拳を引くと同時に、左足で相手の前脚を蹴った。靴が脛を捉え、ヴァレクの膝が揺れる。
下がった顔へ、左拳を伸ばした。
頬を打つ感触があった。
ヴァレクが横を向いた。その口元から血が飛ぶ。
マシュウは右を重ねようとした。だが、長剣が低く返り、脇腹へ迫る。左肘を閉じて身体を捻ると、剣の平が胴当ての端を叩いた。
「ぐっ……!」
息が詰まった。半歩退いたところへ剣先が来る。火炎矢を顔へ放ち、その間に横へ動いた。
二人の間へ、薄い煙が残った。
ヴァレクが唇へ触れた。
指についた血を見て、表情が止まる。もう一度、今度は舌で傷を確かめた。その目がマシュウへ戻ったとき、眉が低く寄っていた。
「……へえ」
それだけ言い、血を土へ吐いた。
客席から声が上がる。マシュウの名を呼ぶ声が混じったが、彼はそちらを見なかった。脇腹が脈を打つように痛み、左拳も握り直しにくい。
届く。だが、一発では止まらない。
ヴァレクは剣を正面へ戻した。次の踏み込みは、先ほどより低かった。
マシュウは肩への斬撃をかわし、伸びた手首へ右手を当てた。横へ押して軌道をずらす。左拳を出せる場所が空いた。
その瞬間、ヴァレクの空いた手が開いた。
「引掌」
胸元を引かれた。
服を掴まれたわけでもないのに、身体が前へ流れる。支えるはずの足が追いつかない。突き上げられた膝が、腹へ入った。
息が抜け、身体が折れた。
戻そうとした左手首を、ヴァレクに掴まれた。
「こっちだったね」
剣の平が、巻かれた布へ落ちた。
「重刃」
マシュウは肩ごと腕を引いた。直撃は外れた。それでも、掠めた一撃に左半身を下へ持っていかれた。
「が、あっ……!」
膝が土へ落ちた。肘から指先まで、焼けるような痛みが走る。
ヴァレクが声を上げて笑った。
「あはっ! 今の、我慢しなくていいんだよ!」
掴んだ手首を持ち上げる。立とうとしたマシュウの足を払い、わざともう一度膝を落とさせた。
左腕へ体重がかかり、声が漏れた。
「そう、それ。さっきみたいに睨んでよ。痛いと難しい?」
「離せよッ!」
ネラの声が飛んだ。柵を叩く音が続く。
マシュウの視界で、フェリクスの折れた腕と、自分の腕が重なった。笑い声まで同じだった。
右手を地面へつきかけ、止める。
ヴァレクが再び剣を上げた。口が開き、また何か言おうとしている。
その口へ、右の掌を向けた。
「火炎矢!」
近距離の炎にヴァレクが顔を逸らした。掴む手が緩む。マシュウは左腕を引き抜き、蹴りを腹へ突き込んだ。
ヴァレクが一歩下がる。
マシュウはその間に立った。左手を胸の前へ戻そうとして、指が開いたまま震えていることに気づく。
息を吸うと、腹も痛んだ。
「よくも、顔へ……」
ヴァレクが焦げた前髪を払った。片側の眉が短く焼け、笑っていた目が吊り上がっている。
返事を待たず、剣が来た。
マシュウは斜めに下がった。次の剣を避け、反撃へ移ろうとしたところで、左腕が上がらない。肘を曲げるだけで指先まで痛んだ。
ヴァレクの目が、その腕を追った。
剣先が右へ振られる。顔を守るために右腕を上げると、途中で向きを変えた柄頭が左の肩口へ迫った。マシュウは身体ごと逃げ、反撃を諦める。
追ってくる靴が、すぐ目の前へ入った。
「ほら、庇わないと!」
剣の平が頬を掠めた。歯を食いしばった拍子に、口の中の傷がまた開く。
マシュウは下がりながら右手を開いた。
「火炎壁!」
二人の間に炎が立った。長くは保たせない。追ってくる足を一度止めさせ、その隙に自分も横へ回る。
炎の端から、長剣が伸びた。
剣身を払おうとして、マシュウは右手を引いた。その向こうでヴァレクの左手が開きかけていた。
さっきと同じだ。剣を逸らして入ったところを、引き寄せられた。
マシュウはわざと足を止めた。ヴァレクが左手を閉じ、剣を引く。マシュウの顔と手元を見比べてから、舌打ちした。
やはり、待っている。
炎が消えるまでに、マシュウは呼吸を二つ整えた。左腕を抱え込みたくなるのを堪え、痛みの少ない高さへ戻す。完全に下ろせば、そこから殴られる。
マシュウは口の端を拭い、構えた。
この顔を、もっと歪ませたい。
胸の奥からせり上がるものを、吐く息と一緒に押さえた。今飛び込めば、また同じ手に捕まる。膝をつかされている間、あいつはまだ余所を見る余裕があった。
その余裕を奪う。
右拳に炎を灯すと、ヴァレクも剣を握り直した。
「その手も使えなくなったら、どうする?」
答える代わりに、マシュウは前へ出た。
剣が上から落ちる。外へ逃げず、前足を引いて身体をずらす。刃が鼻先を通り過ぎたところへ、踏み込み直した。
ヴァレクは剣を戻さず、空いた左手を向けた。
また、引かれる。
今度は足を止めなかった。
マシュウは引かれる方向へ自分から踏み込んだ。上がってくる膝を左の掌で外へ押す。傷めた腕が痛んだが、相手の腹が正面へ来た。
「赫牙!」
右拳が胴当てへめり込んだ。
触れたところで、炎が弾けた。
ヴァレクの口が開いた。声が出ないまま、身体が後ろへ折れる。掴もうとした左手が宙を掻き、靴が土を滑った。
マシュウは追った。炎を消した右拳を戻し、顎へ左を伸ばす。
ヴァレクが剣を立てた。拳を止め、低く蹴る。前脚を払われたヴァレクの膝が落ちかけたが、長剣が横へ薙がれた。
マシュウは頭を下げた。剣が髪を掠め、その風が首筋を冷やす。まだ追えると思ったが、次の剣先が胸を向いた。
踏み込んだ足を引き、息を整える。
ヴァレクは咳き込んでいた。
片手で腹を押さえ、肩を上下させている。胴当ての縁が黒く焦げ、その下の布から細い煙が上がっていた。
「当たった……!」
ネラが柵を握り直した。すぐには喜べず、マシュウの左腕と、立ったままのヴァレクを交互に見る。
あいつが痛がっている。それを見ても、胸のつかえは取れなかった。フェリクスはあんなものでは済まされなかった。まだ笑えるのか、まだ人を殴って遊べるのかと、ネラは息を詰めて見つめた。柵に掛けた指が、少しも緩まなかった。
マシュウも笑わなかった。
拳には、確かな手応えがあった。それでも剣を返してきた。あれだけ入れても、まだ立っている。
ヴァレクがゆっくり顔を上げた。
「お前……」
唇の血を拭う手が、途中で止まった。客席から上がるマシュウへの声を聞き、そちらを睨む。
すぐに目を戻したが、もう口元は笑っていなかった。
マシュウは左手を閉じた。小指が少し遅れた。強く握れば肘まで痛むが、拳は作れる。
右手の布は、まだずれていない。
「もう一度、笑ってみろよ」
ヴァレクの頬が引きつった。
長剣が持ち上がる。マシュウはその切っ先を見ながら、自分から一歩、間合いを詰めた。




